293. 救助
イヒョンは、ライサの後について、暗い牢の廊下を抜け、扉へと向かった。冷たい水流に踏みにじられた藁の山の、黒い灰が、彼の背後へと遠ざかっていった。
じめついた湿り気とカビの匂いが鼻先を突いたが、不思議なことに、足取りは軽かった。
人間の「知識」が残した、凄絶で野蛮な、生存への足掻きの痕跡を後に残したまま、イヒョンは先に立って歩いていくライサの後ろ姿を見つめた。
「……すべて、知っていますよ」
ライサが、足を止めぬまま、首だけをわずかに巡らせて、にっこりと笑った。
「……すべて、とおっしゃると……」
「言葉どおりです。ハスケルからドルメアまで、あなたとライルさんの足跡について、何もかも知っているのですよ」
闇の中でも、彼女の瞳が奇妙に光った。イヒョンは妙な圧迫感を覚えながら尋ねた。
「では、イストリルであった戦いも、ご存じだったのですか?」
「もちろんです。イストリルでインテルヌムを撃退したこと。アクィラの村でウィリクス・ジモンと協力したこと。ドルメアで、村がすっかり空になっているのを、ご自分の目で確かめたこと」
「……」
「そして、ブレサウンに到着して検問を通過した直後、子爵に呼び出され、コグニトルであるルプスの尋問を受けたことまで、何もかもをね」
イヒョンが、深く息を吸い込んだ。
平静を保っていた彼の心臓が、波打った。ライサの口から流れ出る言葉の一つ一つが、イヒョンの歩んできた道を、正確に見透かしていた。
「……どうやって……」
「旅人ギルドは、試験の受験者を常に見守っています。お忘れになりましたか?」
イヒョンは、ゆっくりとその言葉の重みを、頭の中で整理した。バセテロン本部で聞いた副本部長、ベルダンの声が、イヒョンの脳裏をよぎった。
『お前たちの背後には、常に監視する目が存在する。飯を食おうが、眠ろうが、誰かと会おうが、ギルドは常に見守っている』
イヒョンが、短く目を閉じ、また開いた。
『……本当だったのか』
それは、単に受験者たちの気をくじくための、脅し文句などではなかった。
旅人ギルドの目に見えぬ巨大な情報網が、影のように彼の後を尾けていたという、明白な証拠だった。そして今、その結果が「ライサ・ベロスティン」という形で、この暗い地下に、現身したのだった。
「……ライサさん。それでは……」
「ええ。子爵様にも、すでにイヒョンさんの本当の身分をお伝えしました。旅人ギルド、セルティウム4等級、そして現在、昇級試験中の受験者だと」
「ご存じだったのですか?」
「ええ。初めから存じていたわけではありません。おおよそ1時間ほど前に、子爵様に申し上げましたから」
イヒョンの頭が、冷たく回転し始めた。
1時間前。
その時点なら、イヒョンがすでに独房の隅で、歯を食いしばって弓錐を摩擦させ、火種を熾し始めていた頃だった。
「……ずっと私たちを監視していたのなら、なぜもっと早く来てくださらなかったのですか?」
ライサが、歩いていた足を止め、くるりと振り返った。悪戯っぽさをたっぷり含みながらも、狡猾な微笑みが口元に掛かっていた。
「ギルドは、試験が中止されるまでは、介入を最小限にしていますので」
「ですが、戦闘中に死亡すれば……」
「そういう場合もあります。珍しいことではありませんから。狩りをしたり、無理な動線が原因で死亡する場合……そうした場合には、ギルドは介入しません。今のように、不法な行いを犯していないにもかかわらず、公権力によって拘束されたり、問題が生じたりする場合には、介入するのですよ」
「そうですか……」
「それに、個人的に、イヒョンさんがどう対応なさるのかを、見てみたかったというのもありまして」
彼女は顎を軽く支えながら、イヒョンの裂けた服の裾と、煤のついた手を眺めた。
「……え?」
「牢に火を放たれたのは、本当に想像すらしなかった方法でしたね。正直に言えば、本部で誰かがこの光景を見ていたら、手を叩いて大笑いしていたでしょうね? 笑いすぎて気絶していたかもしれません。私は当然、カラディウムの認識票をお使いになると思っていましたので」
イヒョンは、完全に言葉を失ったまま沈黙した。彼はゆっくりと呼吸を整えた。
胸の内に凝り固まっていた緊張感が、力の抜けた小さく深い溜息となって、唇の間から漏れ出た。コデックス・コルディウムを通じてこの世界に落ちて以来、魔法のようなコルディウムなしに、ただ地球の物理法則と知識で盤面を揺るがした代償にしては、実に奇妙な評価だった。
「……では、ライルは?」
イヒョンの眼差しが、瞬く間に真剣に沈んだ。
地下牢の揺らめく松明の光が、ライサの横顔に濃い陰影を落とした。悪戯っぽかった彼女の眼差しが、一瞬にして、本来の冷静さへと戻った。
「ライルさんも、もちろんご無事です。別の部屋にいますよ。イヒョンさんが懸念していらっしゃることは起きていませんから、心配なさらなくても大丈夫です。それに、本部の権限と命令に従って、あなたから得られたすべての記録も、綺麗さっぱり回収しましたので、たった一行の情報も、外部に漏れ出ることはありませんよ」
その一言に、イヒョンのぴんとこわばっていた肩から、一瞬にして力ががくりと抜けた。
最も恐れていた最悪のシナリオ。恐怖のコルディウムを使いながらも、臆病で泣きべそをかいていた22歳の若者、ライルが拷問を受けて傷つけられていないという事実に、安堵が胸を温かく満たした。
『……よかった。それでいい』
イヒョンは深い息を吐き出すと、ライサの後を追った。だが、廊下の果て、次第に明るくなっていく光の向こうに、うずくまった巨大な影が、彼らの前を阻んで立ちはだかっていた。
「荷物も、すべて無事にありますよ。武器、そして鞄の中のすべての持ち物まで、一つ残らず」
「……」
「それと、イヒョンさん」
ライサの視線が、イヒョンの頬と、煤で汚れた衣服を、もう一度なぞった。
「そろそろ、身なりを整えてください」
みすぼらしい服の裾の上には、おぞましい煤が乱雑にこびりついており、青白い顔には、炎が残した煤汚れが、勲章のように染みついていた。煙の中で死闘を繰り広げた痕跡だった。
彼は、まだ痛みの漂う手のひらを、ゆっくりと一度、開いてみた。弓錐を握って擦り続けたせいで肉が擦り剥けた箇所が、ひりひりと疼いた。幸い火傷は軽く、傷の深さは浅かった。そう遠からず、痕を残さず回復する程度だった。
分厚い扉が、左右へと押し開かれた。外部へ通じる扉が完全に開き、冷たい外の空気が、イヒョンの全身を包んだ。
夜明け前の、ぴりっとした冷気。
絶望の果てに、まったく新しい盤面が、彼を待ち受けていた。
「……不思議ですね。こんなふうに全身が満身創痍の有様になっていながらも、ご自身の冷静さを、爪の先ほども失っていらっしゃらないのが」
ライサが、興味深いとばかりに顎を軽く支え、こくりと首を傾けた。彼女のひらひらとした声の裏に隠された鋭い洞察力が、イヒョンの皮膚の表面を引っ掻き下ろすようだった。
「……冷静なふりを演じているだけです。内心では、崖っぷちで生き延びたという事実に、深く安堵しています」
「それでも、大したものですね。普通、こんな状況なら、混乱していたでしょうに」
ライサが肩を軽くすくめながら、松明の光の下へと身を傾けた。赤い火の光が、彼女の革手袋の上を、なめらかに伝って流れた。
「子爵様は、思っていたよりもずっと慎重で、計算のお速い方です。イヒョンさんが握っているドルメアの全滅の情報と、インテルヌムの陰謀についての情報、その価値を、たいそう重く、値打ちのあるものとお考えのようでした。おまけに、旅人ギルドが公認した昇級試験の受験者に対する礼遇が、どういうものであるかも、よくご存じの方ですしね」
イヒョンは、しばし沈黙を守った。
彼は、胸深く冷たい空気を吸い込んだ後、小さく息を吐き出しながら、本能的に上着の胸の内側を、そっと探った。薄い布の向こうで、指先に触れる硬い質感。
『……結局、このカードは、切る必要すらなくなったな』
イヒョンの唇の間から、自嘲を交えた淡い微笑みが、静かに漏れ出た。
最悪の瞬間、命乞いをするためであれ、子爵と交渉をするためであれ、取っておいた最後の切り札。それが表に出るより先に、状況が完全に決着してしまったのだ。
「これから、子爵様に謁見しに行かねばなりません」
「……承知しました」
「では、参りましょうか?」
鼻先をかすめる、青々とした草の葉の露の匂い。そして、霧のかかった風に乗って、はるか彼方からとろりと漂ってくる、酸っぱく香ばしい、よく焼けたパンの匂い。麻痺していた末梢神経が、ようやく目覚めながら、異世界の生のままの生動感を、再び受け入れ始めた。
イヒョンが古びた牢の影を完全に抜け出て、東を眺めた瞬間、彼の足が、ぴたりと止まった。
陽が昇りつつあった。
紫色に染まった地平線の向こうへ、淡い橙色の光輝が、血管のように伸び広がっていくところだった。闇を切り裂いて現れる光明。ブレサウンの城塞の中央にすくと聳える尖塔が、その光を、真っ先に受け止めていた。その先端に掛かった紋様の旗が、夜明けの光を受けて、金色に柔らかく揺らめいた。石の床の上には、まだ沈みきれぬ夜明けの霧が、冷ややかな帳のように薄く垂れ込め、二人の足首の周りを漂っていた。
『……もう』
イヒョンは、こわばっていた脳裏を稼働させ、自らの時間感覚を点検した。
宿から、コグニトルであるルプスの尋問室がある牢へ来たのが、昨日の夕暮れ時だった。その後、息の詰まる尋問、体を締めつける捕縛、地下牢への収監、生存のための弓錐の製作、命を賭けた火熾し、そして暗転の中で対峙した、ライサの奇跡のような登場まで。
そのすべての死闘が、たった一晩という刹那の時間の中に、残らず圧縮されて起こった出来事だった。彼が独房の絶対的な闇の中で、ただ心臓の鼓動だけで時を測りながら、看守たちの巡回周期を待っていた、あの凄絶な時間の間、外の世界では、夜の一幕が、無情に丸ごと過ぎ去っていたのだ。人間の感覚が引き延ばした、時間の泥沼から、ついに抜け出た気分だった。
イヒョンが、軽く自らの身なりを見下ろした。
放火の痕跡である煤と、真っ黒な煤汚れが、無惨にこびりついて、めちゃくちゃなありさまだった。
『……ひどい格好だな』
彼は苦笑いを飲み込みながら、ゆっくりと顔を上げた。金色に染まりゆく子爵領の心臓部が、目の前で次第に、その威容を露わにしていた。
本城の正門に到着した。
領地を支配する子爵が自ら居住し、領地のすべての行政と執務を総括する、最も厳めしく巨大な要塞。
ついさっきまで閉じ込められていた地下牢の別棟とは、格と位階そのものが違う、この領地の心臓部だった。
巨大な石を積み上げたアーチ形の入口の下に、夜明けの冷ややかな気配が、重々しく沈み込んでいた。
二人の兵士が、扉の両脇に隙のない鋼の鎧を着込み、石像のように踏ん張って立っていた。
鋭く鍛え上げられた槍の穂先が、赤い夜明けの光を反射しながら、一直線に整列しており、彼らの肩の上に乗った分厚い肩章には、領主の家門の紋章が、鮮明に縫い込まれていた。
イヒョンが霧を踏みながら進み出ると、兵士たちの視線が、夜明けの霧を裂いて近づいてくる自分たちへと、冷ややかに突き刺さった。
そんな中、予想外の光景が、目の前に繰り広げられた。
兵士たちの視線が、イヒョンの一歩前を歩いていたライサの顔に触れた瞬間、彼らの体が瞬く間に硬直したかと思うと、二人の兵士は、示し合わせたかのように、正確で節度ある動作で敬礼を捧げた。
右手を胸の上に強く密着させたまま、一片の乱れもなく一拍静止した肉体は、やがて節度ある動きで手を下ろした。
子爵領の絶対的な権力者たる領主に向けて捧げる大礼に、正確に合致する動作だった。
一介のよそ者や、旅人ギルド員に見せる礼儀の類などではなかった。
それは、背骨の奥深くに刻み込まれた、圧倒的な権威に対する、本能的な服従の儀礼だった。
ライサが、その凄まじい服従の眼差しに向かって、丁重に、しかしとりわけ簡潔に、答礼を返した。
軽い目配せと、目に留まらぬほど微細な、こくりとした会釈。
それがすべてだった。
だが、その短い仕草の中には、長らくそうした礼遇を受けてきて、完全に身体化した者の、凄まじいまでの自然さが、そっくりそのまま宿っていた。
イヒョンの黒い瞳が、その刹那の力学関係を、一拍、さらに深く観察した。
『ライサさんは、ブレサウンの領主と、どんな関係にあるからこそ、兵士たちがこれほど丁重に礼を尽くすのだろうか?』
領主の兵士たちが、一介の試験監督官に、領主にでも捧げるような大礼を捧げるということは、彼女が代行する権威の源泉が、この領地の一時的な承認という水準のものではない、という意味だった。
彼女の持つ職責そのものが、あるいは彼女の背後を支える組織そのものが、この領地の支配者に劣らぬ位置にあるということを、意味していた。
『旅人ギルド3等級の地位そのものが、エペリアでこれほどの権威を持つのか? それとも、ライサさんがブレサウンに、別途の地位を持っているからなのか?』
イヒョンの頭の中に、疑問が次々と、尾を引いて湧き起こっていた。
もしエペリア全土を支配するエペリア王家や、大神殿の権能に匹敵する巨大な力が、このギルドの帳の裏に隠れているのなら、自分が受けている昇級試験の本質もまた、単なる身分証明などではないはずだった。
ライサが、城門の内側へと足を運んだ。
「さあ、イヒョンさん。とうとう閣下の執務室の前ですね。扉の向こうで待つ方は、牢の看守たちとは格が違うでしょうから、心の準備をしておかれるのがよろしいでしょう」
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