292. どんでん返し
炎が猛烈に噴き上がり始めると、看守は、正気を失ってしまいそうだった。
「だめだ、だめだっ……!」
真っ青に染まった唇が痙攣した。震える両手が腰を探り、慌てて鍵束を引っ張り出したが、極度の恐怖は、人間の微細筋の制御力を、徹底的に麻痺させる。
がちゃっ、ガチンッ!
鍵の先端が、錠前の狭い穴を見つけられず、錠前の上を虚しく引っ掻いた。濃く垂れ込めたツンとする煙が肺を刺すと、看守は発作的な咳を弾けさせ、その刹那の震えとともに、汗に濡れた手のひらから、重たい鉄の塊が滑り落ちた。
じゃらんっ!
運命の悪戯だろうか? 十数個の鍵がぶら下がった重々しい束が落ちた場所は、炎が猛烈に舐めている、分厚い木の格子のすぐ前だった。独房の内側から腕を伸ばせば届く、完璧な距離。
揺らめく火明かりの向こうで、イヒョンの冷たく沈んだ瞳が、鍵束に突き刺さった。
「だめだっ!!」
看守が悲鳴を上げながら、床へと身を投げ出した。だが、イヒョンのほうが一歩速かった。
イヒョンの右手が、燃える格子の隙間を突き抜けて、蛇のように伸びていった。肉が焼けただれる苦痛など、とうに忘れて久しかった。看守の手が鍵の輪に触れる寸前、イヒョンの手が、冷たい鍵束を、完璧に掻っ攫った。
『掴んだ』
勝利の快感が血管を伝って流れようとした、その刹那だった。
ガチャッ!
ドガアアンッ!
イヒョンの顔が、はっと持ち上がった。地上と繋がる上の階の重たい扉が、砕け散らんばかりに開かれる轟音が、地下牢を揺るがした。
『いったいこれは何だ……』
時間に合わない巡回に続いて、また別の変数が発生した。じめついたカビの臭いとツンとする煙が絡み合う廊下の彼方から、荒々しく切迫した軍靴の音が、豪雨のように聞こえ始めた。
だだだだっ!
一人や二人の足音ではなかった。急峻な石段を容赦なく踏みつける鈍い振動は、最低でも三、四人、いや、それ以上の兵力が、一斉に降りてきていることを告げていた。
熱を帯びた鉄格子の向こうで、切迫した怒号が絡み合った。鎧が騒々しくぶつかり合う音が、イヒョンの鼓膜を容赦なく打った。
だが、イヒョンの目に飛び込んできた光景は、血走った目で剣を突きつけながら襲いかかってくる兵士たちの姿ではなかった。
彼らの両手には、青光りする刃物ではなく、なみなみと水を湛えた木の桶が握られていた。ツンとする煙が廊下を呑み込んでいたにもかかわらず、兵士たちは一片のためらいもなく、イヒョンの独房の前へと突進した。
「ここだ! まず火を消せ!!」
そして、一片の躊躇もなく、桶を丸ごとぶちまけた。
ざばあっ!
滝のような水流が、猛烈に燃え上がっていた木の格子と、赤い火魔を宿して膨張していた藁の山の上へ、容赦なく浴びせかけられた。
一杯、二杯、そして三杯。
じゅうっ!
すべてを呑み込まんばかりに燃え盛っていた藁の山は、真っ黒な汚水を含んだ、おぞましい灰の山へと変わり、木の格子を這い上っていた赤い炎は、まともに一度の抵抗すらできぬまま、白い水蒸気と煤煙だけを吐き出して、跡形もなく消え失せた。
息をするたびに胸をちくちくと刺していた灰色の煙が、しばし宙へと噴き上がった。だが、果てしなく押し寄せる激しい水流の前では、その煙さえも、無惨に押し潰されるだけだった。
一寸の狂いも、不必要な怒号もない、一糸乱れぬ動き。まるで、この狭い地下牢で火が出ることを想定して、何十度となく息を合わせてきたかのような、完璧な消火だった。
イヒョンは、鉄格子の向こうで繰り広げられるその非現実的な光景を、ただ茫然と見守るしかなかった。
『……おかしい』
状況の辻褄が、合わなかった。
火事を目撃した看守は、いまだイヒョンの目の前で、がたがたと震えている。煙が地下の狭い入口を通過して地上の兵営まで届き、警報を鳴らして兵士たちが水を汲んでくるには、物理的に不可能な時間だった。
おまけに、消火の速度と対応の形が、あまりにも精緻だった。錆びついた錠前一つまともに替えられない、この貧しい領地の辺境の牢で、これほど迅速かつ体系的な防災システムが稼働するだと?
彼の精密な理性が、たった一つの、残酷な結論を導き出した。
『待ち構えていたのだ』
まるで、鼠の子が独房の中で悪あがきしながら火種を熾すであろう、その刹那の瞬間を、ずっと以前から予想し、備えていたかのように。
しばらくして、火は完璧に鎮圧された。
脱出の鍵になると信じていた火のついた藁の山は、冷たく冷え切った黒い泥沼にすぎず、頑丈な木の柱もまた、根元だけが無惨に焦げただけで、びくともしなかった。
独房の中を埋め尽くしていた濃い煙が、天井の小さな穴から次第に抜けていくと、その空いた場所を埋めたのは、息の詰まる静寂と、冷ややかな絶望だった。
イヒョンは、湿った石の床の上へ、膝がなす術もなく崩れ落ちた。
「はっ……はっ……はは……」
乾いた、うつろな実笑が漏れ出た。炎の残り痕で軽い火傷を負った手のひら、ぱりっとしていたシャツに、べっとりとこびりついた真っ黒な煤。皮膚を突き抜けて染み込んでくる冷たい現実が、イヒョンの血管を伝って、全身へと広がった。
幾度ものシミュレーションを経てきた、完璧な脱出プロトコルではなかったか? 一段階、一段階、精密に積み上げてきたそのすべての計画が、たった数分で徹底的に蹂躙され、砕け散ってしまった現実を目の当たりにした彼は、これから襲いくる現実を、骨身に染みて悟った。
『……終わった』
イヒョンは、あえてちっぽけな希望回路を回そうとはしなかった。生のままの惨めさを、直視した。
『これでもう、逃れようもなく絞首台行きだな』
100人を超える怪しげな事件が起こったドルメアから、傷一つなくブレサウンに入ってきたという事実だけでも、すでにこの上なく不利な立場だった。そこへ今日、彼は自らの手で、完璧な死刑執行同意書に署名してしまった。
脱獄未遂、故意による放火、そして重要施設の破損罪。
これは、あえてエペリアの法を適用せずとも、許される可能性が極めて薄い、重い罪だった。
これほどの罪を犯して、牢から自分の両足で歩いて出られる確率は、ゼロに等しかった。
イヒョンが微かに震える手を上げ、汗の粒の滲んだ青白い顔を、荒々しく拭い下ろした。
手のひらについていた真っ黒な灰の粉が、頬の上に軌跡を残した。
彼は、水溜まりと化した灰の山を、虚ろな目で見据えた。天才的な頭脳も、冷徹な判断力も、今この瞬間ばかりは、ただのごみくずにすぎなかった。
頭の中を猛烈に満たしていた理性と論理の回路が、一斉に電源を断たれた瞬間、徹底的に制御したと信じていた状況が、たった数分で粉々に砕け散った。耳元を打つ耳鳴りと、脈打つ心臓の鼓動は、なかなか鎮まらなかった。
そして、うつろな胸の最も深く暗い底から、懸命に埋めておいたたった一つの名が、重たい錘のように、水面へと浮かび上がってきた。
ライル。
『あいつは今、どこで、どんな扱いを受けているのだろう? はたして、生きてはいるのか』
もし自分が脱出に失敗して死ぬのなら、ライルが自力でこの状況を切り抜けて生き延びる可能性もまた、同時に薄いように見えた。
いや、それよりもさらに凄惨な最悪のシナリオが、脳裏をよぎった。ライルが極限の恐怖に呑み込まれ、制御不能の「恐怖のコルディウム」が暴走したなら?
そうなれば、ライルが引き起こす無慈悲な惨状から人々を守り抜き、あいつを制御する術さえも、永遠に失われてしまうのだ。
『……ライル。すまない』
ぽつ。
天井に滲んでいた冷たい水滴が一つ、落ちてきた。それは、煤がべっとりとついたイヒョンの青白い頬を打つと、まるで失われた涙の跡のように、音もなく顎の線を伝って流れ落ちた。
その時だった。
がちゃっ、とん。
残り火を片づけていた兵士たちが、空になった木の桶を下ろすと、機械のように左右へと割れて並んだ。まるで誰かのための道を通すように、完璧に統制された整列だった。
彼らが作り出した狭い人の通路の果て、立ち込める灰色の煙を掻き分けて、誰かがゆっくりと歩み出てきていた。
こつ、こつ。
革のブーツが水溜まりを踏む、単調で、それでいて一定した足音。
イヒョンは、茫然自失して力の抜けた視線で、床に溜まった真っ黒な水溜まりの向こうから近づいてくる、その冷ややかなシルエットを見上げた。
そして、そのシルエットの実体を確かめた瞬間、イヒョンは、息を止めるほかなかった。
『……!』
薄暗い松明の光が、格子の向こうにすくと立った闖入者の輪郭を、くっきりと浮かび上がらせた。
微動だにしない、静かで落ち着いた表情。影のように闇へ完璧に溶け込んだ、漆黒の装い。きちんと結い上げた金髪と、腰に無駄なく吊るされた一振りの剣。夜の色を宿した濃い망토が、左肩を伝って気品よく流れ落ちていた。
背丈はさほど高くなかったが、骨の髄まで鍛え抜かれたかのような、まっすぐで硬質な立ち姿。
決して忘れられぬ顔。
初めは、ただありふれた受付係のふりをして、柔和な微笑みで偽装していた女。香しい茶を淹れて振る舞いながら、イヒョンの油断を誘い、イヒョンをはじめとする受験者たちの内面と情報を、巧みに探り出そうとしていた者。
だが、その親切な仮面に騙された受験者たちの首を狙っていた、3等級のベテラン旅人にして、ギルド本部の老練な試験監督官。
カレオストラの旅人ギルド本部で出くわした、まさにその顔。
ライサ・ベロスティン。
彼女が今、イヒョンの独房の前に立っていた。
灰の粉と埃をかぶったイヒョンのこわばっていた唇が、ゆっくりと開いた。ツンとする煙に掻きむしられ、掠れ、しゃがれた声が、重い静寂を破って流れ出た。
「……ライサ、さん……?」
彼女の唇が斜めに吊り上がると、イヒョンに向かって、微笑みを浮かべた。
いつもギルド本部のなめらかな木のデスク越しに見せていた、あの人懐こい受付係の微笑みではなかった。研ぎ澄まされた鋭い好奇心、そして目の前の灰の山を見て覚える、純粋な呆れが交錯する、奇妙な表情だった。
「……イヒョンさん」
「あなたが、どうしてここに……」
「本当に、途方もないことをしでかしましたね」
イヒョンは、うつろで呆気にとられた顔で、ただライサを見つめるばかりだった。
「牢に火を放つなんて、想像すらしませんでした。これを、奇抜だと言うべきか……いかれていると言うべきか……迷いますね」
その瞬間、ぴんと引き絞られ、切れる寸前だったイヒョンの脳神経が、一瞬にして止まった。
崖っぷちへと追い詰められていた惨めさの隙間を縫って、状況の奇怪さがもたらす、わずかな安堵が、割り込んできた。
思わず、こわばった口元に小さく淡い実笑が広がりかけたが、イヒョンはすぐさま、沈み込んだ理性を胸ぐらを掴むように引き上げ、表情を覆い隠した。
「……何としても、脱出しなければと心に決めたものですから」
「そして、子爵様の城塞を、丸ごと灰の山にしてしまうところでしたね」
「……」
沈黙が漂うと、ライサが軽く手ぶりをした。虚空を掻く、たった一度の、気だるげに見える仕草。だが、その効果は絶対的だった。
イヒョンが閉じ込められた牢を包囲していた領地の正規兵たちが、一斉に軍靴の踵を合わせながら、一歩後ずさった。血走った顔に揺らめいていた激憤と殺気は、跡形もなく消え去った。その場所を埋めたのは、視線を床に落とした極度の丁重さと、恐れの入り混じった、完璧な服従だった。
まるでライサの一言があれば、その場で自ら命すら差し出さんばかりの構えだった。
常識の軌道を逸脱したこの超現実的な光景を前に。止まっていたイヒョンの頭脳が、再び爆発的な速度で、情報を逆算し始めた。
『ライサさんが、この領地の正規兵力を手足のように操って、命令している。それも、単なる脅しではなく、骨の髄まで刻み込まれた恐怖を伴った、即座の服従』
彼女の本当の身元と、その背後に潜む巨大な権威が、この貧しい辺境の領地の支配者たちに、完璧に刻み込まれているという意味だった。
百歩譲って、彼女がギルドの試験任務を密かに追跡中の、ベテラン3等級旅人だとしても、一つの領地の正規軍と子爵の手下たちが、一介のよそ者のギルド員に、これほど盲目的な礼を尽くすというのは、どうにも辻褄が合わなかった。
『それに、あれほど巨大な力を握った彼女が、よりにもよって、なぜこの時点で姿を現したんだ?』
もし介入するつもりだったなら、自分たちが牢へ引きずられてくる前にも、いくらでも止められたはずだ。それなのに、なぜあれほど徹底して傍観した末、すべての盤面が滅茶苦茶になった今になって、現れたというのか?
数多の疑問が、尾を引いて湧き起こった。だが、絶望に凍りついていた胸の最も深い底から、まったく別種の熱い感覚が、背骨を伝ってぞくりと突き上げてきた。
ライサが、格子の前へと、もう一歩踏み出した。湿った床に溜まった水に彼女の軍靴の踵が触れ、静かな波紋が立った。
「イヒョンさん」
「……」
闇に沈んだ彼女の瞳が、イヒョンを射抜くように、冷ややかに光った。
「ひとまず、ここから出ましょう。この場ですべてを説明して差し上げるのは、難しそうですから。扉は、ご自分で開けられますよね?」
読んでくれてありがとうございます。
本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。
ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。
読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。
お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。




