288. 警告
牢の天井、ひび割れた隙間に滲んだ雫が、床に敷かれた腐った藁の上へと落ちた。
ぽたり。ぽたり。
一定の間隔で鼓膜を叩く水音。まるで、死刑執行を前に残された時間を告げるメトロノームのようだった。その規則正しく不快な音が、息の詰まるような静寂の重みを、いっそう重く押し潰していた。
イヒョンは、分厚い木の格子に預けていた額を、ゆっくりと離した。
分厚い木の格子から伝わる湿った水気と木の冷たさよりも、脊髄を這い上がってくる冷ややかな悟りのほうが、はるかに凄惨に彼の頭を貫いていくようだった。
『ライルが……ここにいない』
いくら呼びかけても、何の返事も返ってこなかった。ライルがここにいたなら、イヒョンの声を聞いておとなしくしているはずがなかった。
イヒョンの頭の中で、最悪の変数を想定したシナリオが広がっていった。
ライルがここにいないということは、結局のところ3つの可能性に絞られた。
1つ。下手な嘘をついたライルを、尋問官が拷問室へ引きずり込み、肉体も魂も残らず搾り取っている。
2つ。ペルトゥスやイストリルでの戦いのような核心機密をすでに吐いてしまったため、イヒョンと口裏を合わせられぬよう、完全に切り離された別の場所へ隔離した。
3つ。すでに冷たい亡骸となっている。
『いや、3つ目は可能性が低すぎる。却下だ』
尋問室で尋問官が吐き捨てた怒りに満ちた声が、幻聴のように耳元をよぎった。寛大にして公正なる子爵の命により、「正式な裁判」にかけるという、あの言葉。
情報を最後まで搾り尽くすまでは、手札をむやみに捨てはしないだろう。
イヒョンは、喉元までせり上がる息苦しさに長く息を吐き出し、両の目を閉じた。闇の中で胸が疼いた。
『ライル。いったい何を口走ったんだ。あの尋問官め、どこで疑いの糸口を掴んだんだ』
もしライルがすべてを吐いてしまったのなら、結論は見え透いていた。臆病で、そそっかしい奴だ。尋問官の威圧的な空気と殺気に押し潰され、しどろもどろになった挙句、前後の合わない言葉を勝手にまくし立てた──その確率が最も高かった。
あいつのその薄っぺらな出まかせが、イヒョンの築き上げた精緻な供述の壁と衝突し、尋問官に矛盾という隙を与えてしまったのだ。
その時だった。
ギィィィッ、バンッ!!
上の階で、固く閉ざされていた鉄扉が乱暴に開いて閉じる音が、地下牢の静寂を破り、壁を伝って鈍く降りてきた。
地下の重い沈黙を打ち砕いたのは、石の床を引きずるような摩擦音だった。
誰か、あるいは何かが、階段を下りてきていた。看守の硬い軍靴の足音が、イヒョンの閉じ込められた部屋へと、ゆっくり近づいてきていた。
ジャラン、ジャラン。
鉄の塊がぶつかり合う音が、水滴の落ちる音だけだった静寂の上へと覆いかぶさった。
牢の廊下の彼方で揺らめく松明を背に、一人の男が歩いてきていた。腰に吊るした巨大な鍵束を、猫の首の鈴のように鳴らしながら近づいてくる者。40代半ばほどに見える看守だった。
長年の監視勤めで革のベルトの上に腹の肉がぶよりと突き出ており、松明の光に浮かび上がった目鼻立ちは、死んだ魚のように虚ろで気だるげに見えた。この暇で不毛な領地の地下牢で、長いこと同じことを繰り返してきた者の顔。惰性と倦怠が、その頬の上に湿った苔のようにこびりついていた。
看守が、イヒョンの囚われた独房の濃い闇の前を、無関心に通り過ぎようとした刹那だった。
「看守殿、少しだけ時間をいただけませんか」
格子のすぐ前へと足を踏み出したイヒョンの口から、低く丁重な声が流れ出た。
ジャランと鳴っていた鉄の音が止んだ。
看守は、まるで煩わしい虫でも見つけたかのように首を斜めに傾け、足を止めた。格子の隙間からイヒョンを舐めるように見下ろす虚ろな瞳に、不快感が滲んだ。
「……何だ」
油染みでもついたような、重く濁った声が、雷のようにぶっきらぼうに飛び出した。
だが、イヒョンは揺るぎなく落ち着いた眼差しで、看守の不快げな視線を正面から受け止めた。完璧に制御された呼吸と理性が、彼の全身を包み込んでいた。
「私の仲間がどうなったか、ご存じですか」
「仲間?」
看守の眉間が浅く歪んだ。
その刹那、イヒョンの鋭い視線が、看守の顔面の筋肉に走る微細な変化を読み取った。薄暗い牢の中、よそ者の突然の問いは、退屈な日常の水面へ小石を投げ込んだ格好だった。
煩わしげに顔をしかめた表情の裏には、この単調な牢暮らしに生じた小さな刺激を、内心では歓迎しているような気配が滲んでいた。
「私と一緒に連れてこられた仲間のことです。くせ毛で、背が高くて、やたらとおしゃべりな奴ですよ」
「くせ毛……ああ。あいつか」
その瞬間だった。看守の口角が吊り上がった。ひどく退屈だった日常に、実に興味深く、刺激的な見世物でも思い出したかのような表情だった。
「あいつがどうなったか、教えていただけませんか。長いこと共に旅してきた、弟のような奴なんです。心配で仕方がなくて」
看守は、イヒョンのいるほうへのそりと近づいてきた。一歩踏み出すたびに突き出た腹が揺れ、その下でかろうじてぶら下がった腰帯の鍵束が、苛立たしげにジャランと鳴った。
「それは答えられんな」
看守は首を斜めに突き上げ、イヒョンを見下すようににやにやと笑った。実のところ、囚人の収監状態を教えることは、機密でも危険なことでもなかった。ただ、自分の管理下にある囚人に対して、ちっぽけな優越感を誇示したいだけだった。
イヒョンは、素早く看守の心理を解剖した。
イヒョンにとって、ああいう手合いは馴染み深かった。中身のない人生から来る、低い自尊心。紙一枚ほどの厚みの権力でも握らされれば、それを極限まで振りかざして他人の上に君臨しようとする、卑小な習性。
イヒョンは、看守の薄っぺらな優越感につけ込んで情報を引き出すべく、退屈に浸りきった彼の好奇心を利用することに決めた。
「……せめて様子だけでも、教えていただけませんか。私の仲間は、実のところ、かなり変わった奴なもので」
「……何だと?」
イヒョンの狙いどおり、看守の目に好奇心が宿った。
「あいつは、ひどく臆病でしてね。おまけに余計な心配ばかりして、そそっかしい奴なんです。小さな物音にも飛び上がって驚くし、恐ろしいことが起これば理性を失って、我を忘れてしまう。だからこそ、私はこんなにも心配しているんです。あの気の弱い奴が、今どんな有様なのか……」
看守の動きが、ぴたりと止まった。
イヒョンの説明を聞いていた看守は、しばし固まったかと思うと、やがて堪えきれぬとばかりに、ぷっと実笑を漏らした。彼は薄汚れた革手袋をはめた手で木の格子をコツコツと叩きながら、鼻で笑った。
「臆病者、ねえ……」
「……ええ」
「臆病者なんて言葉じゃ、まるで足りんぞ。くくっ……長いこと生きてきたが、あそこまで恐怖に取り憑かれて引きつけを起こす奴は、生まれて初めて見たな」
看守の蛇のような舌から飛び出した嘲りが、匕首のように飛んできて突き刺さった。深く、静かに沈み込んでいたイヒョンの眼差しが、刹那、一拍、激しく揺れた。
「……あいつを、直接見たんですか」
「見たとも。ああ、しっかり見たさ」
看守が黄ばんだ歯を剥き出しにして、けたけたと笑った。
「ルプス様の手にずるずる引きずられて入ってきた時さ。それはもう大騒ぎで、鼻水も涙も垂れ流しやがってな。助けてくれ、自分は何も知らない、ただ横で言われた通りにしただけだ……そりゃあもう、地べたを這いつくばって哀願してたよ」
看守が重たい腹の肉を揺すりながら、笑いを弾けさせた。
「怯えた犬みたいにギャアギャア喚いてめそめそ泣くもんだから、最初はどこぞの狂犬でも捕まえてきたのかと思ったぜ」
地下牢の湿った空気に乗って広がるその下劣な笑い声は、もはやイヒョンの鼓膜には届いていなかった。
『……言われた通りにした、だと』
イヒョンの頭の中に散らばっていた手がかりの破片が、鋭い摩擦音を立てながら、一つの絵へと噛み合った。真っ青な顔で、口から出まかせをまくし立てながら地べたを這いずり回ったであろうライルの、卑屈で、それでいて生々しい声が、耳元に響いてくるようだった。
おしゃべりで、気が散りやすく、何かというと考えがまとまりきる前に口から先に開いてしまう軽い奴。だが、イヒョンはライルの根底にある心根を知っていた。臆病で、そそっかしくはあっても、決して仲間の背に刃を突き立てたり、裏切ったりするような輩ではなかった。
あいつは尋問室のあの凄まじい殺気と抑圧に耐えきれず、ただ生き延びるために、本能的な防御機制を働かせたのだ。
自分は何も知らない操り人形だと、徹底して無能を演じてみせる──卑怯だが、あるいは賢明な生存術だったのかもしれない。
『ライル』
イヒョンは、胸の内側から立ちのぼる微かな安堵を感じた。まだあいつは、拷問の苦痛に完全に打ち砕かれたわけではなかった。
ライルをさんざん貶し、嘲っていた看守が、興味が失せたとばかりにチッと舌打ちをして身を翻した。革の軍靴がぬかるんだ土の床から離れる、その瞬間、イヒョンの唇が再び開いた。
「……看守殿」
地下牢の饐えたカビの臭いを突いて流れ出たその声は、先ほどよりもはるかに低く、冷ややかに研ぎ澄まされていた。真摯で、相手を尊重するイヒョン特有の口ぶりでありながら、その内には隠しようのない圧倒的な重みが込められていた。
「また何だ? この俺様は、貴様のくだらん質問にいちいち口を動かしてやるほど暇じゃないんでな」
煩わしさと倦怠がべっとりとこびりついた声が、荒い石壁にぶっきらぼうに跳ね返った。
イヒョンは、格子の隙間から覗く男の虚ろな瞳を静かに見据えた。漆黒の闇の中で、ただイヒョンの両の目だけが、獲物を狙う捕食者のように奇妙な光を帯びていた。
「もし……拷問や、それに類する物理的な圧迫を計画しているのなら」
「……何?」
「やめておいたほうがいい」
その瞬間、ジャラジャラ鳴っていた鍵の金属音が止まった。
看守が、ふっと、呆れ返ったとばかりに空笑いを漏らしながら、イヒョンの独房の前へずかずかと歩み寄った。格子越しに近づいてきた男の分厚い唇が、奇怪な角度に歪んだ。
「……ほう。この野郎、見ろよ。それを今、貴様が決めるっていうのか? 思い違いをするな。牢の中で貴様にできることなんざ何一つありゃしねえ。ありもしねえ脅しをかける暇があったら、てめえの命の心配でもしてるこったな」
イヒョンは沈黙した。
男の粗末な当てこすりは、巨大な岩に打ちつける小石のように、無力に砕け散った。イヒョンの警告は、決して仲間を助けてくれというちっぽけな哀願などではなかった。
ここの支配者たちは、まだ知らずにいた。ライルの内に眠る、あの凄まじい力を。
普段は果てしなくそそっかしい臆病者だが、極限の恐怖と対峙した瞬間、本人の意志とは無関係に発動してしまう「恐怖のコルディウム」。その破壊的な力が尋問室の中で制御不能に暴走したなら、粉々に砕かれるのはライルの肉体ではなく、彼を取り囲む拷問官たちのほうであった。
「そいつは隊長がご自分でお決めになることだ。囚人の分際で、どこで他人の心配なんぞしてやがる」
看守は鼻を鳴らすと、再び闇の中へと遠ざかっていった。
肌を切り裂くような地下牢の冷気の中で、イヒョンの口元に、冷ややかな弧が描かれた。
イヒョンは、ゆっくりと顔を上げ、格子の向こうの看守を正面から見据えた。廊下の果てから吹きつけた陰湿な風に、松明の赤い残影が揺らめく刹那だった。
闇に半ば沈んだイヒョンの黒い瞳の奥底で、言い表しようもなく冷たく、奇怪な光がきらめいた。
「……誤解しないでください」
イヒョンは、いつもと変わらず真摯で、相手を尊重する丁重な口ぶりを保っていた。だが、その抑揚のない声は、ぴんと引き絞られた弓の弦のように、鋭く研ぎ澄まされていた。
「……何?」
看守は、ついさっきまで見下していた囚人の眼差しから放たれる異質な気迫に、本能的な不快感と微かな恐れを覚え、一歩後ずさった。ひしゃげた兜の下で、その顎関節が硬く強張った。
「私がこの話を切り出すのは、私の仲間のためではありません」
イヒョンの声は、微動だにしない深い深淵の水面のように、静まり返っていた。
「……」
「あなたたちのために、言っているんです」
看守の荒々しい眉が、容赦なく歪んだ。呆れ返ったとばかりに開いた唇の間から、熱く濁った息が漏れ出た。
「……何をほざいてやがる、今」
「あいつは、恐怖を覚えれば覚えるほど、手がつけられなくなるほど危険になる類の人間です。普段は果てしなく弱々しい。何かというと逃げ出し、悲鳴を上げ、無力に泣きわめく。ですが……本当に死の淵に立たされ、極限の恐怖に追い詰められた時、あいつの中で、本人ですら制御できない何かが目覚めるんです」
イヒョンの脳裏に、ライルの姿がよぎった。
ライルの真の力は、「恐怖」という感情を媒介に発現するコルディウムにあった。いつ、どのようにしてその力を引き出すのか、自分でも制御すらできない、統御不能の凄まじい状態。
7つの基本感情を源泉とする、魔法にも等しい力、コルディウム。イヒョンはコルディウムを使えない地球人であったが、イストリルの戦いでライルが放ったあの圧倒的な戦闘力は、彼の理性的な計算の範疇をはるかに超えるものだった。暴走する恐怖が生み出した、獣のような闘気。
「……どこで、くだらん戯言を並べ立ててやがる」
看守が、ぎりりと歯を食いしばった。
「戯言ではありません。私の命を賭けて言っているのですから、よく胸に刻んでおいたほうがいい。あいつを狭く閉ざされた拷問室に閉じ込めたり、脅したりしないでください。本当に、息の根が止まるような死の恐怖を味わわせないでください。もしあなたたちが、どうしてもその真似をしでかすというのなら……その部屋の中にいた者たち、いや、この城の中にいる者たちが、どれほど惨たらしい結末を迎えることになるか、私にすら想像がつきません」
看守は、鉄格子を挟んでイヒョンを長いこと食い入るように睨みつけた。男の額に、太い青筋がうねった。ちっぽけな権力と無知から来る自惚れが、しばし縮み上がっていた肺腑を、再び傲慢に膨らませていった。
ドンッ!!
看守が、分厚い革の軍靴で格子を荒々しく蹴りつけた。地下室がガンッと鳴り響くと同時に、その口から鼻先で嗤う声が飛び出した。
「……ハハッ! この狂った野郎が。貴様、今、鎖に繋がれた囚人の分際で、この俺様を脅そうっていうのか?」
「脅しではありません。警告です」
「警告だろうが脅しだろうが、そんな出鱈目な三流小説みてえな戯言に引っかかる俺じゃねえ! あのへなへなの臆病者が、いったい何をどうするってんだ? 俺の人生で、あんなに弱っちい奴は初めて見たぜ。さっき地下室に引きずられていく時なんざ、ルプス様が刃をちらっと見せてやっただけで、今にも小便を漏らしそうに、ぶるぶると震え上がってやがった野郎だぞ!」
看守の嘲りが、じめついた牢の空気の中へと散っていった。
ぽたり。
天井に滲んでいた冷たい水滴が、床の泥の上へ重たく落ちた。波紋が広がるその刹那、イヒョンの両の瞼が、ゆっくりと下りていった。
彼は、ごく小さく、しかし地下室の湿り気をすべて凍りつかせるほど冷ややかに沈み込んだ声で、唇を開いた。
「……それが、問題なんです」
「……何?」
「あいつが本当に、小便を漏らすほど、恐怖に取り憑かれてしまった時」
闇に沈んだイヒョンの両の目が、ゆっくりときらめいた。
「その時こそが、最も危険な瞬間です」
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