286. 急変
尋問官の口から流れ出た声は、これまでイヒョンを取り調べていた時とはまるで違っていた。もっと沈み込み、落ち着き払い、どこか厳粛にすら感じられた。
「……あそこは、ただ偶然起きた奇怪な事件が起こった場所じゃねえ。生きて呼吸するもの全てが消え失せた、まるで全てを呑み込む『死の沼』みてえな場所だ。誰一人生き残れなかったその場所から、傷ひとつねえてめえとお前の連れが、ぴんぴんと二本の足で歩いて出てきた。それが何を意味するのか、本当に分からねえって言うのか?」
「……」
「ドルメアの住民が蒸発するように消えたって最初の報告が入ったのが、今年の春だった。あの時、子爵様はすぐさま先発の調査団を送られた」
尋問官の視線が、宙をさまよった。
「俺を除くコグニトル二人、そしてベテランの兵士十五人。ブレサウンが誇る、選りすぐりの精鋭たちだった」
イヒョンは固く口を閉ざした。揺らめく油ランプの明かり越しに、どこか悲しみに沈んだ尋問官の目を見たからだ。
「奴らは戻らなかった。それ以来、消息は一切ねえ。調査団ごと消え失せたと見られている」
イヒョンの呼吸が、一瞬止まった。
「子爵様は諦めなかった。山賊か反乱勢力の仕業だとお考えになった。それで今度は、調査を兼ねた討伐隊を編成して村へ送られた。今度は重武装の正規軍を組織した。並みの山賊や反乱軍なら軽く鎮圧できるほどの兵力だった。だが……」
テーブルの上、尋問官の組んだ両手の指の関節に、血の気が抜けるほどの力がこもっていた。
「奴らもまた、戻らなかった」
尋問室の空気が凍りつくかのようだった。ドルメア――ただ村人が消えただけではなかった。すでに領主は事態を把握するため軍を派遣し、その軍もまた消えたのだ。
「最後に子爵様はカレオストラへ伝令を走らせ、精鋭騎士団の支援を仰がれた。国王陛下の正規軍に加え、コルディアルたちまで加わった軍勢だった。ところが」
尋問官の顎の関節が噛み合い、ぞっとするような軋み音を立てた。
「奴らですら、一人として戻れなかった。あの日以来、ドルメアはこの領地では口にすることすら禁忌とされる、恐怖の対象になった。あの地に足を踏み入れることは、死体すら残せず死の穴へと自ら歩み入るようなものだと、誰もが骨身に染みて悟ったからだ」
『それで国王が直々に旅人ギルドへ任務として下したというわけか。大規模な軍がすでに消え、事件の全貌を把握する必要があると感じた国王が、秘密組織を動かした。今になって、なぜこんな題目が試験に出されたのか、腑に落ちる』
――ガタッ。
尋問官が椅子を引きずり、上体をぐいと押し寄せてきた。無数に絡み合った傷跡に覆われた彼の顔が、イヒョンの目の前へと迫った。
「それなのに、お前とその若い連れは、たった二人であのドルメアを悠々と突っ切って、このブレサウンへ入ってきたわけだ。住民たちも、百人を超える精鋭兵士たちも、死体はおろか、骨の一片すら残さず蒸発したあの地獄のような場所から、傷ひとつなく、生きたままな」
部屋の空気が、鉛のように重くなった。尋問官の黒い瞳が、イヒョンの魂の底まで見透かそうとするかのように光った。
なぜただの薬草商にすぎない自分たちを、これほどまでに執拗に追い詰めてくるのか――イヒョンは一瞬にして理解した。
「誰一人生き残れなかった死の村を、一体どうやって通り抜けてきたのか、俺たちの立場からすりゃあ気になって当然じゃねえか。いや、そんな村から来たと言われりゃあ、お前とその若い連れを事件の関係者だと疑うのが、当たり前だろうって話だ」
『ベナトル……』
ドルメア、イストリル、そしてアクィラ。この三つの村を貫く失踪事件の全貌。そして、その背後にいる者。
それは明白だった。すべては『インテルヌム』が企てた、巨大な虐殺の舞台だったのだ。
『絶望の歌』で人間の理性を麻痺させ、村人たち全員を拉致して『ペルトゥス』という怪物に変えるか、あるいは人体実験体として磨り潰し、感情を抽出する地獄の工場。
ドルメアへ進軍した百名を超える兵士たちが蒸発した理由もまた、はっきりとした。彼らは真相を調査しに向かったにすぎなかったが、インテルヌムが仕掛けた罠へと自ら足を踏み入れた、『新鮮で食欲をそそる獲物』にすぎなかったのだ。
イストリルでは、イヒョンとライルがその死の連鎖を打ち砕いたからこそ、いくらかなりとも命を拾うことができた。だが、孤立したドルメアには、彼らを食い止める術などなかった。あの地はすでに、インテルヌムの完璧な狩場と化していたはずだ。
イヒョンの胸に刻まれた紋様が、ずきりと疼く感覚があった。
『これほどの状況ならば、領主がインテルヌムとぐるである可能性は低そうだ。ここまで血を流してまで調査団を送るはずがない。いや……むしろ、疑いを買わぬようペルトゥスの増員に手を貸しているのだとしたら――』
今すぐにでも、この身の毛もよだつ真相のすべてを吐き出してしまいたかった。しかしイヒョンは、下唇を強く噛みしめ、こみ上げる衝動を押し殺した。
今、ここで口を開くわけにはいかない。旅人ギルドの厳格な機密保持条項のためだけではなかった。
インテルヌムの巨大な実体と、彼らが企む『コルディウム結晶化計画』の全貌が完全に把握できていない状態で、迂闊に噂を広めれば、奴らはただちに尻尾を切り、さらに深い闇の中へと姿を消してしまうだろう。
市民と兵士たちの命の値段。尋問官の血走った目に宿るその切実な怒りに応えてやれないという事実が、凄まじい無力感となって、イヒョンの喉を塞いだ。
しかし彼は、感情を押し殺すことにかけては百戦錬磨の男だった。イヒョンは冷たく理性を沈め、再び――硝子のように透明で、そして硬質な『無知な薬草商』の仮面を、その顔に被り直した。
彼はゆっくりと口を開いた。声には先ほどよりもいくらか低く、慎重な――戸惑いという繊細な震えが添えられていた。
「……そのような凄惨な出来事があったとは、恐れながら想像すらしておりませんでした」
尋問官の目が、蛇のように細くなった。イヒョンはテーブルの上に置いた自らの青白い手の甲を静かに見下ろしながら、言葉を継いだ。
「私がドルメアで目にしたのは、ただ不気味なほどの『沈黙』だけでございました。村のかまどは冷え切り、通りはすでに死んでおりました。そこに誰が訪れたのか、また誰が血を流して消えたのか、それを物語る痕跡すら残ってはおりませんでした」
イヒョンは一旦言葉を止め、顔を上げて尋問官を正面から見据えた。
「私が生きてあの地を出られたのは……おそらく、あの地獄にいた時間があまりに短かったからか、あるいは神が私に運を授けてくださったからでしょう。もしあそこが、王国の精鋭兵士たちすら悉く呑み込んだ地獄のような場所だと事前に知っていたなら、そもそもタルコス山脈の近くになど、足を踏み入れはしなかったでしょう」
イヒョンの顔には、ただ生死の境を越えてきた『旅人の戸惑い』だけが、完璧に塗り重ねられていた。
尋問官は答えなかった。
息詰まるような静寂が流れた後、尋問官は組んでいた手をほどき、ゆっくりと古びた椅子から立ち上がった。男の巨大な影が、ランプの明かりを呑み込みながら、イヒョンの頭上へと重く落ちかかった。
「運が良かった……か。お前、本当にそう思っているのか?」
尋問官の低く沈んだ声には、剃刀のような棘が仕込まれていた。
「百人を超える武装兵士たちが、骨すら拾えず消え失せた死地から、『運』良く歩いて出てきた無害な薬草商、とはな。実に見事な言い訳だ」
尋問官が古びた灰色の革外套を手に取りながら、扉の方へと重々しく体を向けた。
「だが、俺はこの辺で終いにする。所詮、俺は上から下される命令に従って動くだけの身にすぎん。子爵様は、この奇怪な事件を証言する者として、お前を公開の裁判の場に立たせたいとお考えだ」
固く閉ざされていた密室の扉が、開いた。
「お前の言うことが真実で、本当に神がもう一度お前を助けてくださるというなら……来たる裁判でも、お前の首は無事に繋がったままだろうさ」
尋問室の扉が重い音を立てて閉じられると、空気は瞬く間に凍りついた。
消えかけた油ランプの炎が、狭苦しい密室の壁面に、奇怪に歪んだ影を長く伸ばしていた。
濁った油を吸い上げた芯が焼け落ちながら、間欠的に揺らめき、煤を吐き出していた。扉の脇に不動の姿勢で立つ兵士は、息遣いひとつ立てなかった。まるで巨大な石像のように微動だにしないその威圧的な存在感が、部屋に残るわずかな酸素すら、じわじわと蝕んでいくかのようだった。
イヒョンは、古びた椅子の背もたれに、深く背を預けた。
固く閉ざされた瞼の下で、彼の脳細胞は暴走するスーパーコンピューターさながらに、最悪のシナリオを容赦なく演算し続けていた。
『領主が動いた』
先ほど、尋問官が書き記していたであろう羊皮紙の調書。その上には、イヒョンの口から紡ぎ出された、真実よりもなお真実らしい精巧な『偽りのアリバイ』が記されている。あの修羅場をくぐり抜けてきたコグニトルは、今頃、別室に隔離されたライルの胸ぐらを掴み上げているか、あるいはあの陰湿で濁った眼差しで巧妙な質問を投げかけながら、イヒョンの語った内容と一文一文照らし合わせているに違いなかった。
イヒョンは浅い呼吸を整えながら、唇の内側をぎゅっと噛みしめた。
奴らが尋問を始める前に、ライルの耳へねじ込むように叩き込んでおいた指示が、イヒョンの脳裏を目まぐるしく駆け巡った。
『俺たちは人を生かす、ただの薬草商だ。動線はバルマリスを出発してルテオンを経由し、このブレサウンへ入ったことにする』
『ドルメア、イストリル、そしてペルトゥス。この三つの言葉は、お前の頭の中から完全に消し去れ。もし尋問官の巧みな誘導尋問に舌が絡め取られそうになったら、ひたすら山中を彷徨って記憶が飛んだと言え。知ったかぶりで口を滑らせた瞬間、俺たち二人とも身動きが取れずに死ぬかもしれないんだぞ』
イヒョンは、ライルに言い聞かせておいた、嘘がわずかに塗り重ねられた事実の数々を、幾度も幾度も心の中で反芻した。それは実に単純明快な生存プロトコルだった。知能というものが備わった人間であれば、どれほど愚鈍であろうとも、コピー機のように吐き出せる程度の暗記量にすぎない。
だが、イヒョンの胸の底では、黒く湿った不安の芽が、じわりと蠢いていた。
ライル。
普段は可愛い女を見た途端に目の色を変え、軽薄にお喋りをする性分でありながら、いざ生死を分ける決定的な圧がかかると、脳の回路が断ち切れたかのように魂が抜け落ちてしまう男。特に、自分では完璧だと自信たっぷりに口を滑らせる時に限って、必ずと言っていいほど想像を超えた厄介な事態を引き起こしてきた。
『兄貴、嘘なら俺に任せてくれよ!』
尋問室へ引き立てられていく前に、あいつが見せていたあの威勢のいい表情。あれは勝利への確信などではなく、いつ暴発するとも知れぬ、故障した時限爆弾が起動したことを告げる予兆に近かった。
もし、尋問官の脅しや威圧、あるいは懐柔に怯えて、ライルの臆病な本能が頭をもたげたら? さらには、あいつ自身にも制御しきれないあの恐ろしい『恐怖のコルディウム』までもが、あの部屋の中で暴走してしまったら?
事態が手のつけられない破局へと転がり落ちていくのは、火を見るより明らかだった。
『頼む、ライル。その口をきつく噛みしめて、耐え抜いてくれ』
胸の内で幾度となく飲み込んだであろう祈りが、焼けつくような喉を伝って零れ落ちた。
窓も時計もないこの地下の密室では、時間の感覚が飴細工のように奇妙に歪んでいく。天井のランプの明かりが踊るように大きく一度揺らぎ、イヒョンの青白い頬の上に、濃い陰影を落とした。
尋問の時間が、あまりにも長引いていた。
二人の供述を照らし合わせるだけの作業に、これほどの時間がかかるはずがない。単純に動線と身元を突き合わせる基礎的な確認作業であれば、とうに終わっているはずで、すでに尋問官の重々しい足音が廊下を伝って聞こえてきていておかしくなかった。
時間が長引いているということ。それは、照合の過程で明白な『矛盾』という結論が導き出されたか、あるいはイヒョンが計算しきれなかった致命的な物証が、あの男の手に渡ってしまったということを意味していた。
床を伝ってじわじわと忍び寄る地下室の冷気が、イヒョンのつま先から背筋へと、ぞっとするほど這い上がってきた。
その時だった。
――ザッ、ザッ、ザッ。
遥か彼方の廊下の先から、荒々しく重々しい足音が、深淵のような静寂を打ち砕きながら近づいてき始めた。一人分ではない。軍靴の踵が石の床を踏みつける音。少なくとも三人、あるいは四人。
じりじりと狭まっていく足音の隙間から、金属質な響きを帯びた尋問官の冷ややかな声が、尋問室の扉を越えてイヒョンの鼓膜へ鋭く突き刺さった。油灯の芯から立ち昇る焦げた匂いが澱んだ密室の静寂を打ち砕いたのは、爆発にも近い荒々しい破裂音だった。
――ドガァンッ!
固く閉ざされていた扉が、石壁に叩きつけられるように弾け開いた。埃を巻き上げながら戸口を越えて雪崩れ込んできたのは、尋問官、そしてその後ろを猟犬のように従える、四人の武装兵士たちだった。
――ジャラッ、ガチャン!
兵士たちが手にした、床を引きずる重い鎖の金属音と、荒々しい革紐が打ち合う音が、四方の石壁を伝い、不吉に反響した。
尋問官の顔色は、先ほどイヒョンの知識に興味を覚え、尋問を進めていた時とはまったく異なる色を帯びていた。
かつてイヒョンに見せていた、あの一縷の友好的な好奇心は、跡形もなく消え失せていた。代わりに、傷跡だらけの彼の顔を埋め尽くしていたのは、今にも肉を食いちぎらんばかりの爆発的な怒りと、寸分の躊躇もない、殺気に満ちた断固たる意志だった。
彼が指を上げ、イヒョンを指し示した。
「こいつを、今すぐ縛り上げろ」
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