280. 協力
イヒョンはゆっくりと席を立ち、引率者の目を真っ直ぐに見据えた。
領主の兵力がブレサウンに入った当日、それも正確にこの宿屋で自分たちを見つけ出したというのは、決して偶然ではなかった。
ギギギッ。
古びた木製の椅子が床を荒々しく擦る音に、ざわめいていた酒場が一瞬、静まり返った。
「分かりました。同行しましょう」
余計な言葉を挟まないイヒョンの返答にも、ライルは依然として椅子に尻を張り付けたまま、唇を尖らせていた。鼻先をくすぐる焼きたての豚肉の濃厚な香りと、ソースの匂い、そしてジョッキの中で揺れるビールの弾けるようなホップの香りが、ライルの本能をしつこく引き止めていた。
「マジでこのまま行くのかよ? これ、たった今出てきたばっかで……肉、一口も食えてねぇんだけど」
「ライル」
イヒョンの声は低かったが、その言葉の温度は真冬の霜のように冷たかった。ぶつくさ言っていたライルの肩が、雷にでも打たれたようにびくりと強張った。
「ここはお前が好き勝手に振る舞える南部自由都市じゃない。ここを治める領主の意志が、すなわちこの領地の法だ。その呼び出しを断るのは、謀反も同然だ。衛兵に抵抗すれば、豚肉より先に刃がお前の喉に突き刺さることになるかもしれない」
「まさか……?」
すっかり怯えたライルの声が震えた。
「まさかじゃない、ライル。今この場で俺たちが同行を拒めば、衛兵たちは俺たちを獣のように縛り上げて引きずっていくだろう。これだけ多くの目が見ている前で、屈辱的に鎖に繋がれたままな」
イヒョンはライルの肩に手を置き、重い圧力を込めた。
「少なくとも今すぐは奴らもそう強引ではない。二本の足で無事に歩いていけるうちに、素直に協力するのが賢明な選択だ。豚肉とビールなら、いつでもまた注文できる」
ライルはしばらくの間、食卓の上の湯気の立つ肉を、未練がましく見つめていた。しかし肩を押さえるイヒョンの手と、殺気立った衛兵たちの気迫に押されて、結局深い溜息と共にがっくりとうなだれた。
「……うん、分かった」
その一連の光景を見守っていた衛兵隊の引率者の瞳に、奇妙な光がよぎった。抵抗でもすればすぐさま実力行使に出るつもりでいたのに、状況を冷静に判断して素直に協力するイヒョンの態度が、いささか意外だったのだ。
「……お前、愚かではないな」
「私たちは領主様とこの都市の法を深く尊重しております。あちこちの領地を渡り歩いて商売をしていれば、自然と勘も働くようになりますから。さもなければ、この厳しい世の中で食い扶持を稼ぐことすら難しいものです」
誠実そうに聞こえるイヒョンの淡々とした返答に、引率者はそれ以上詮索しなかった。
その瞬間、背後に控えていた大柄な衛兵の一人が、背筋の凍るような金属音と共に、太い鎖の手枷を取り出した。
「え、ちょ、ちょっと待ってください! それはないでしょう? 素直に一緒に行くって言ってるじゃないですか! 縛る必要まではないでしょうが!」
仰天したライルが慌てて椅子の後ろへ下がり、イヒョンもまた、背筋を這い上る本能的な緊張感に拳を固く握りしめた。
「拘束するな」
引率者の重い声が、鎖を手に近づいてきた兵士を制止した。
「は? しかし隊長、規定では罪人を護送する際には必ず……」
「この者たちは協力的だ。まだ罪人と判明したわけでもない。それに、自分がどう振る舞えば命を無事に保てるか、実によく分かっている。ただでさえ都市全体が神経質になっているこの時期に、わざわざ物々しい光景を市民に見せて、不安を煽る必要はない」
引率者の命令に、兵士はそっと鎖を引っ込めた。
引率者は卓の上へ上体を傾け、イヒョンを見下ろした。兜の下でぎらつく彼の目には、先ほどよりもはるかに重く粘り気を帯びた殺気が滲んでいた。
「イヒョンと言ったな」
「そうです」
「今は酒場の中に行き交う人間の目が多いから、特別に便宜を図っているだけだ。だが城塞の中で一寸でも下手な真似をすれば……我々がそれをただ黙って見ていられるほど気の長い人間ではないと、よく肝に銘じておくことだな」
イヒョンは相手の威圧的な態度を前にしても、呼吸ひとつ乱さなかった。
「お約束しましょう。私たちはただの平凡な薬草商にすぎません。何か誤解がおありのようですから、すべての質問に誠意を持ってお答えします」
「……よし。行くぞ」
引率者が身を翻すと、ライルはそこでようやく溜め込んでいた息を長く吐き出し、渋々尻を上げた。しかし席を立つ最後の瞬間まで、奴の視線は食卓の上の豚肉とビールから離れようとしなかった。
注がれたばかりの弾けるビール。白く豊かだった泡がしゅわしゅわと消えていく様は、まるでたった一口も潤せなかったライルの哀れな運命そのもののようだった。
「……ああ、マジで。あの完璧な黄金色の一口が、俺の一生の心残りになりそうだよ……」
ライルが今にも泣き出しそうに唇を震わせた、その時だった。カウンターの奥で息を潜めて状況を見守っていた女将が、周囲の様子を窺いながら、そっと囁いた。
「心配しなさんな、男前さん。無事に帰ってきたら、あたしが一番冷えたやつをまたなみなみと注いであげるから」
その一瞬の囁きに、ライルの青ざめていた顔色が、嘘のようにぱっと明るくなった。
「女将さん! マジで天使っす! 命に代えても、絶対にまた戻ってきますから!」
「ライル。ほどほどにして、ついてこい」
イヒョンの冷たい声に、ライルは仕方なさそうに唾を飲み込みながら足を踏み出した。
酒場の古びた扉を開けて外へ出ると、賑やかだった人々の温もりは、背後で瞬く間に断ち切られた。
夜のブレサウンは、昼間とはまるで違う顔をしていた。山から吹き下ろす冷たい風が、都市の隅々を陰鬱に舐めて過ぎていく。
商店の軒先という軒先に吊るされた油ランプが黄色い光を揺らめかせながら放っていたが、その頼りない光は、都市全体を覆い始めた闇を押し返すには力不足だった。
カチッ、カチッ。
息の詰まるような静寂を破るのは、規則的な軍靴の音だけだった。粗く削られた石畳の上を、六人の衛兵の足音が一つの拍子のように響き渡った。動くたびにがちゃがちゃと擦れ合う金属鎧の摩擦音が、冷え冷えとした夜気を叩いていた。
夜間の通行人たちは、衛兵たちに囲まれて移動するイヒョンとライルを見て、足取りが石のように固まった。
好奇心から目を細めて彼らを見つめる者もいたが、大多数は不吉な予感に囚われたかのように、慌てて頭を下げ、反対側の路地へと逃げていった。訳も分からぬ子供の目を無理やり覆い隠しながら、足早に闇の中へ身を隠す女の後ろ姿から、今この都市を押し潰している恐怖がどれほど深刻かが、如実に伝わってきた。
「アニキ……これ、誰が見ても俺たちが何か反逆罪でも犯した大罪人みたいに見えねぇか?」
ライルがすっかり縮こまった肩をイヒョンの方へぴったりと寄せながら、蚊の鳴くような声で囁いた。奴の瞳は、自分たちを隙間なく取り囲む衛兵たちの槍の穂先に、不安げに釘付けになっていた。
「そう見えるだろうな。否定はできない」
「だからだよ。どうせこんな物々しく囲まれて連れて行かれるなら、さっき酒場であの鎖の手枷を拒んだのは何でだったんだよ? 見てくれが悪いのは同じじゃんか……」
ぶつくさ言うライルの言葉に、イヒョンは正面を見据えたまま応じた。城塞へと向かう彼の足取りには、一片の迷いも揺らぎもなかった。
「鎖に繋がれて引きずられて歩くのと、拘束もなく自分の足でしっかり歩くのとでは、大きな違いがある」
「……え?」
「手枷をはめられた瞬間、俺たちは明白な『罪人』の烙印を押される。だが今のように自分の足で歩いて入っていけば、俺たちは強制力を動員するほど脅威ではなく、対話が可能な客としての格を保てる。領主が俺たちを犯罪者と見るか、それとも役に立つ情報屋として遇するか――その第一印象は、まさにこの些細に見える違いから生まれるんだ」
「……ああ」
「それと、あの先頭を歩く引率者を見ろ。自分の部下の過剰な忠誠を、あえて自分の手で直接止めた。あれは俺たちが先に示した協力に対する、彼らなりの礼だ。この状況は、そのまま領主への『統制可能で理性的な連中』という好意的な第一報に繋がるはずだ」
ライルはしばらく呆けたような表情で、前を歩く引率者の広い背中を見つめていたが、やがて驚愕と感心の入り混じった目で、イヒョンの横顔を見上げた。
「アニキって本当に……頭に歯車でも仕込んでんの? こんな状況でも、そんな計算がちゃんと回ってるとかさ」
「頭を使わなければ、首が飛ぶからな」
イヒョンの返答に、ライルは蜂蜜でも詰まったかのように口をつぐんだ。
闇の降りた通りに衛兵たちの軍靴の音だけが重々しく響き渡る中、ライルが再びイヒョンのそばに身を寄せ、慎重に囁いた。
「アニキ、でもさ……領主って一体何で、入城するなり俺たちを呼び出すんだ? 本当に俺たち、何かあら探しされるような失敗でもしたのか? 俺、どれだけ頭ひねっても、俺たちが何か悪いことした覚えはねぇんだけど」
イヒョンの冷え冷えとした目つきが、夜の闇の中へと深く沈んだ。
「……おそらく、ドルメアのせいだろう」
「え? ドルメアですか?」
「どれだけ考えても、ドルメアの集落の件以外にないと思う。ドルメアも、ここの領主の領地に属している。いくら山あいの小さな村だとはいえ、あそこにまつわる不穏な噂が、すでにここまで広がっているのは間違いない」
「いくらそうだからって、ドルメアから来たってだけで、こんなことまでするもんかね?」
「普段、人が通わない険しい山を越えて、ドルメアを経て来たという事実そのものが問題になっているようだ。原因も明らかにされないまま幽霊村になった場所から来たと言えば、疑われるのも当然のことかもしれない」
「はぁ、そんなこと言わなきゃよかったかもな」
「いや。むしろ好機になり得る。領主は、自分の領地に広がってきた不吉な噂の真相を、俺たちの口から直接確かめたいと思っているかもしれない。そうなれば、俺たちの方こそ支援を受けて動けるかもしれない」
そこでようやく状況の流れを掴んだライルの強張っていた顔色が、微かに明るくなった。
「あ、じゃあ単に情報のためなら、今すぐ首が飛ぶような危険はないってことか? 聞かれたことに知ってる範囲で答えて、大人しく抜け出せばいいんだよな?」
「そういう可能性もあるという話だ。だが……」
「だが? まさか、他にも恐ろしい可能性があるってことかよ?」
イヒョンは返事の代わりに、ゆっくりと顔を上げた。視線の先には、闇を切り裂いて聳え立つ巨大な尖塔が突き刺さっていた。
東へ荒々しく伸びる険しい山岳地形。その切り立った崖の上に危うくとぐろを巻くように築かれた城塞の頂きで、黒い旗が、まるで巨大な夜の鳥が羽ばたいているかのように、奇怪で陰鬱にはためいていた。
「ライル。今はそんな可能性を云々している場合じゃない。城塞の中で何が起ころうと、お前は絶対に口を閉じていろ。俺が確かな合図を出すまでは、絶対に先走るな。分かったな?」
「……結局、アニキが全部何とかしてくれるってことだよな?」
「そうだ。それと、空気を読まずに余計なことも絶対に言うなよ」
イヒョンの断固とした統制に、ライルは長い溜息をつきながら頷いた。奴の緊張した指は、不安を抑えきれずに、癖のように服の裾をひっきりなしに弄っていた。
極度の恐怖を何とか抑え込もうとする、その弱々しい仕草を横目に、イヒョンは内心で冷ややかな苦笑を呑み込んだ。
『領主が正確にどんな腹づもりを持つ人物なのか、まだ分からない』
単に領地の安寧のために情報を求める、まっとうな管理者かもしれないし、あるいはインテルヌムと結託して失踪事件を主導する黒幕かもしれない。
イヒョンは、あらゆる変数と最悪の可能性を同時に開いたままにしていた。
どれほど状況を前向きに見ても、強圧的な尋問が待ち受けているだろうし、最悪の場合には、光一筋も差し込まない牢に投獄されることは自明だった。
いつしか一行の足取りは、巨大な城門の前に辿り着いていた。
ギギギギギギッ!
闇の濃く垂れ込めた城門が、巨大な獣の顎のようにゆっくりと開き始めた。重々しい木の扉が床を擦りながら開く鈍い摩擦音が、狭い城壁の間で奇怪に乱反射しながら鼓膜を打った。
城門の向こうへ足を踏み入れた瞬間、イヒョンの全身をまず襲ってきたのは、ひどく異質な違和感だった。
『ルキウス・モンテセラビウス子爵』
ブレサウンを治める最高権力者。険しい山脈に阻まれ、交易路すらまともに発達しない辺境。痩せた土壌のせいで年々の収穫すら乏しい、干からびた領地。家門の悠久の歴史も、代々積み重ねてきた富も、何一つ誇るもののない、典型的な下級子爵領だった。
都市の入り口で二人の耳を賑わせていた商店街の活気ある喧騒は、城壁の内側に一歩踏み入るなり、まるで蜃気楼のように消え失せた。
護送された足取りが辿り着いた領主館の内部には、貴族特有の華やかで傲慢な権威など、どこにも見当たらなかった。代わりに、今にも崩れ落ちそうな饐えた貧困の匂いが鼻を突いた。
漆喰が鱗のように無残に剥げ落ちた外壁は、恐ろしい病魔に蝕まれた患者の肌のように、荒れて醜かった。割れた瓦を場違いな石で粗雑に埋めた屋根、あちこち仕上げ石が抜け落ちて、ぬかるんだ土の床がそのまま露わになった床。目端が利かずとも、領地全体が徐々に没落していっていることが、一目で分かった。
イヒョンの視線が、城壁の一角へと向いた。
戦火か何かの火事で生じたと思しき巨大な煤の跡が、城壁の片面を黒々と覆い尽くしていた。拭い落とそうと試みた形跡すらないのか、その傷跡は家門の消えることのない烙印のように深く刻まれ、放置されていた。崩れた箇所を埋めるために新しく嵌め込まれた石さえ、元の灰色の石と色合いが浮いて見え、この上なく粗雑に映った。
『こんな場所の領主なら……』
イヒョンの瞳が、冷たく光った。
崖っぷちに追い詰められた飢えた猛獣ほど、突き出す爪には理性も慈悲もない――イヒョンはそのことをよく理解していた。
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