279. 豚肉とビール
イヒョンが扉を開けて中へ入ると、カウンターの奥で眼鏡をかけ直していた中年の女将が顔を上げた。
「空き部屋はありますか?」
客だと確認した女将の警戒の色を帯びた眼差しが、いくらか和らいだ。彼女は台帳をめくりながら頷いた。
「あら、いらっしゃい。二階に部屋がありますよ。宿代は一人一日40ペラです。20ペラ追加すれば、一日二食の食事もお付けできます。二日? それとも三日?」
「とりあえず三日で。状況次第で延ばします。食事もお願いします」
部屋の鍵を受け取ったイヒョンは、カウンターに硬貨を置くと、階段を上った。
客室は、二階の廊下の突き当たりの部屋だった。
軋む階段を上り扉を開けた瞬間、イヒョンは短い感嘆を呑み込んだ。室内は思ったより清潔で、厚手のカーテンが窓の外の冷え冷えとした空気をしっかりと遮っていた。
扉が開くが早いか寝台に駆け寄ったライルは、すでにその上へと身を投げ出していた。古びてはいるが清潔に手入れされたリネンのシーツの上に、ライルの体が深々と沈み込んだ。
「アニキ……」
「ああ」
「ベッド……これ本当にベッドだ。マットレスが俺の体をぐっ……引っ張り込んでくる感じがする」
ライルの声は、すでに夢見心地に霞んでいた。彼は世界を全て手に入れた子供のように枕に顔を擦りつけながら呟いた。
「アニキ、俺、ここで倒れて死んでもいい気分だよ。いや、ここに住みたいくらいだね」
「気に入ったのは分かるが、死なれちゃ困る」
イヒョンは荷物を下ろしながら、ふっと笑った。しかし彼自身も自分の部屋に戻って寝台の端に腰を下ろした瞬間、全身を支えていた緊張の糸がぷつりと切れるのを感じた。
手のひらに触れるマットレスの柔らかな感触。長い野宿と旅、緊張で固まっていた骨の一つ一つがほどけていく。冷たい洞穴の底、硬い鞍、そして森での野営。
その地獄のような旅路の果てに出会ったこのふかふかの贅沢は、どんなコルディウムよりも強力に、イヒョンの精神を癒していた。
荷物を下ろしたライルが、寝台にどさりと座り込みながら溜息をついた。
「アニキ、さっきの衛兵の話だけどさ。ドルメアの噂を誰にも言うなって言ってたやつ……あれ、俺たちのこと心配してくれてたんだよな?」
「心配というより、警告に近いだろう。情報は権力だ、ライル。ドルメアの実情を知る者が増えれば、領主の統制が効かなくなる。衛兵は、俺たちが根も葉もない噂を広めて騒ぎを起こすんじゃないかと恐れて、あらかじめ口止めしておいたんだ」
イヒョンは窓辺に近づき、カーテンの隙間からブレサウンの光景を見下ろした。
「だが逆説的に言えば、大人しくしてさえいれば、大した問題にはならない可能性が高いということでもある」
イヒョンの視線は、窓の外遠くに見える、領主の城郭がある高い丘の方へと向けられた。
窓の外では、どこかの鍛冶場から聞こえる金槌の音が、規則的に響いていた。一階から聞こえてくる、食器がぶつかり合う軽快な物音、露店に並んだ滑らかな絹の上に降り注ぐ陽光。
只ならぬ雰囲気が漂ってはいたが、人々が生きる生命の音は、依然として脈打っていた。
鼻先を突く酸っぱい酒の匂いと、焼きたてのライ麦パンの香ばしい風味が入り混じった空気。イヒョンは肺の奥深くまで、この異質でありながらも馴染み深い「都市の匂い」を吸い込んだ。ようやく荒野の境界を越え、人間の領域に足を踏み入れたのだという実感が湧いた。
「本当に街だな。バルマリス以来、久しぶりに感じる気分だ」
ライルが放心したように窓の外をぼんやりと眺めながら呟いた。山脈の刃のような風に荒れた彼の頬が、上気していた。
窓の外に、ブレサウンの夕焼けが長く伸びていった。まもなく湯が届くだろう。イヒョンは目を閉じながら考えた。
この安らぎが、嵐の前の静けさでないことを願うばかりだと。
ブレサウンの空に燃えていた夕焼けが、建物の尖った屋根の後ろに身を隠した。窓枠の隙間から差し込んでいたオレンジ色の光が姿を消し、紫がかった闇が部屋の中を満たし始めた頃、隣からがさごそという音が聞こえてきた。
しばらくして、ぼさぼさに乱れた寝癖頭のライルが、そっと顔を覗かせた。一時間の深い眠りが残した跡が、頬にくっきりと刻まれていた。彼は何も言わず、イヒョンの顔をじっと見つめた。何かを切実に望みながらも、口に出すことができずにいる幼獣のような瞳だった。
「何だ」
イヒョンは読んでいた本から目を離さないまま、素っ気なく尋ねた。
「……何にも言ってねぇけど」
「目つきがうるさい。言いたいことが額に書いてあるぞ?」
ライルが図星を突かれたように肩をすくめ、しどろもどろになった。
「い、いや、アニキ……何だよそれ? 俺はただ、アニキが元気にしてるかなって……」
「酒が飲みたいんだろう」
ライルの瞳が行き場を失ったように揺れ始めた。イヒョンはふっと笑って本を閉じ、席を立った。
「下に行こう。夕飯も片付けなきゃいけないし、苦労した甲斐もなきゃな」
「うわぁ! マジで? マジで行くんだな?!」
たちまち顔色が明るくなったライルは、ズボンの上にはみ出していたシャツを慌ててズボンの中に押し込んだ。
イヒョンは人差し指を唇に当て、釘を刺した。
「酒を飲んでも、余計な話は絶対にするな。飲むのはきっちり一杯だけだ。酔い潰れて迷惑をかけるなんて考えるんじゃないぞ」
「えー、アニキ……二杯だけ、な?」
「一杯」
「じゃあ……一杯半?」
イヒョンが返事の代わりに冷たい視線を投げると、ライルはすぐに口をつぐみ、頷いた。
「はい……一杯……」
一階の酒場の扉を開けるなり、むっとした熱気と共に脂っこい匂いがなだれ込んできた。昼間の活気が夜の賑わいへと変わった空間だった。労働者たちや埃まみれの外套を着た商人たちが、机を叩きながら笑い声を上げている。天井から吊るされた油ランプは煤を吐き出しながら、空間を温かな琥珀色に染め上げていた。
イヒョンは本能的に隅の席を探した。入り口が一目で見渡せて、背中は壁で塞がれている席。
「雰囲気最高じゃん!」
席に着いたライルが、物珍しそうに周囲を見回した。イヒョンは椅子に深々と身を沈めながら、低く応じた。
「酒を飲んで暴れるなよ。あの衛兵の態度を見る限り、何かやらかせばすぐに引っ張られそうだからな」
「えー、アニキ。俺を信用してないのかよ? 俺だって……」
「ああ、お前が酔って暴れたのは一度や二度じゃない。ハスケルでも、ライレンでもそうだった」
「そんなこと、いちいち覚えてなくていいのに」
いつの間にか近づいてきた女将が、エプロンで手を拭きながら注文を取った。
「味付け豚肉を二人前、大麦パンを二つ。それと、ビールを一杯と水を一杯お願いします」
女将が目を丸くして、二人を交互に見た。
「一人はビールで、一人は水?」
ライルの表情が、瞬く間に泣きそうな顔になった。
「アニキ、マジで飲まねぇの? 俺一人で飲んだら、酒が喉を通らねぇ気がすんだけど……アニキが飲まねぇと、俺が悪いみたいじゃんか」
「いつだって俺がいないからって飲まなかったことなんかあったか? いいから飲め」
「違うんだって! この雰囲気で、アニキだけ水飲んでたら、俺の立場ねぇだろうが!」
しつこく食い下がるライルの眼差しに、イヒョンはついに苦笑いを呑み込みながら頷いた。
「分かった。ちょうど一杯だけだぞ」
「じゃあ、ビール二杯にしましょうか。おつまみはすぐお持ちしますね」
イヒョンとライルのやり取りを傍で聞いていた女将が、愉快そうに笑いながら厨房へ消えていった。ライルはようやく勝者にでもなったかのように、満足げに椅子の背にもたれた。
「ああ、アニキ。マジで幸せだ。こんな温かい飯とビールで、こんなに幸せになれるとはな。山の中で硬い干し肉と大麦粥ばっか食ってたことを思えば、ここはマジで天国だよ」
「一時間前はベッドで死んでもいいとか言ってたくせに、随分と気が変わるのが早いな」
「それはそれ、これはこれだろ! 人間、死ぬ前に冷えたビール一杯くらい飲んでから逝くべきじゃねぇか?」
「誰が死ぬって言った」
イヒョンは咎めるように言ったが、彼自身もすでに厨房の奥でじゅうじゅうと焼ける肉の香りに気を取られていた。数日間、荒野で研ぎ澄まされていた感覚が、ようやく至って人間らしい欲求で満たされ始めていた。
ライルの手に握られたビールジョッキの中で、黄金色の液体がかすかに揺れた。
注がれたばかりの泡が唇に触れる直前、酒場の重い木製の扉が大きな音を立てて、破れんばかりに開いた。
単なる客の入店の音ではなかった。整然と床を踏みしめる金属の擦れ合う音、そして空気を一瞬にして冷やし込む組織的な威圧感。騒がしかった酒場は、冷水を浴びせられたかのように静まり返った。
イヒョンはジョッキを手に取らないまま、ゆっくりと顔を上げ、入り口の方を見据えた。
青地に銀色で狼が刺繍された制服。
六人の衛兵が、楔形の隊形を保ちながら近づいてきた。先頭に立つ男の鎖帷子が、一歩ごとに金属音を立て、不吉なリズムを刻んでいた。彼らの視線は迷いなく、隅の席、イヒョンとライルの卓に突き刺さった。まるであらかじめ座標でも定めていたかのように。
「あ、アニキ……これ、雰囲気おかしくねぇか?」
ライルの声が、風に揺れる枯れ葉のように震えた。ビールジョッキを持った彼の手も、瞳と共に震えているようだった。イヒョンは返事の代わりに、手振りで落ち着けと合図を送った。
六人の衛兵が、イヒョンとライルの座る卓を取り囲んだ。背後の壁がこれほど近く感じられたことはなかった。引率者と見られる顎髭の男が、イヒョンの目を真正面から射抜きながら口を開いた。
「お前たちがイヒョンとライルか?」
「はい。そうですが」
イヒョンは低く落ち着いた声音で答えた。緊張を消し、相手の意図を探ろうとする冷静さだった。引率者は懐から一枚の紙を取り出して目を通すと、顎をしゃくった。
「お前たちがタルコス山を越え、ドルメアを経て来たという者たちか?」
「はい、その通りです。検問所でも申し上げました」
「人相書きも検問記録と一致しているな。よし」
彼が一歩、さらに近づいてきた。鼻先に生臭い鉄の匂いと、城壁の冷え冷えとした気配がぐっと押し寄せてきた。
「領主様がお二人をお呼びだ。今すぐ同行してもらう」
その瞬間、ライルの思考回路が停止したようだった。彼の視線は、たった今卓の上に置かれた、湯気の立ち昇る味付け豚肉と焼きたての大麦パンに釘付けになっていた。
山脈を越える間、幾度となく夢に現れた「人間の食事」だった。
だが肉一切れ、ソース一滴すら口にしていなかった。
「…い、今すぐですか?」
兵士の眉がぴくりと動いた。ライルは切羽詰まった思いでビールジョッキを握りしめながら、言葉を続けた。
「あ、あの、俺たち、たった今注文したばっかなんです。肉もたった今出てきたばかりで。これ、マジで一口だけ……いや、たった一時間だけ待ってもらえませんか? 食事だけ済ませたらすぐに……」
周囲の空気が固く張り詰めた。隣の卓の商人たちがぎょっとして顔を背け、女将は布巾を握ったまま石のように固まった。
他の衛兵たちの目には、あからさまな呆れと軽蔑がよぎった。引率者はライルの顔を、まるで奇妙な生き物でも見るかのようにしばらく見下ろしていたが、やがて極めて低く冷ややかな声で呟いた。
「貴様」
「は……はい?」
「今、自分が誰の命令に逆らおうとしているか、分かっているのか?」
引率者の手が、腰の剣の柄にかかった。金属が噛み合う鋭い音が、ライルの耳を打った。
「お前らがどこの馬の骨か知らんが、ここはブレサウンだ。領主様の命は、すなわちこの都市の法だ。二度は言わせるなよ」
ライルの口がぱくぱくと開閉した。今にも涙がにじみそうな顔で、彼はイヒョンを振り返った。卓の上に見事に整えられた、湯気の立つ良く焼けた豚肉、冷えたビール……そのすべてが目の前で粉々に打ち砕かれようとしていた。
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