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22. 感情のホール

イヒョンを取り囲むように、円環を描いて並び立つ七つの扉。 彼はゆっくりと歩を進め、一つひとつの扉を確認していった。扉はそれぞれ固有の光を帯びており、その正面には異なる感情を象徴するかのような紋様が刻まれていた。


彼は、ある一つの扉の前で足を止めた。


視界を埋め尽くすのは、巨大な岩壁を丸ごと削り出したような、濃紺のうこんの石門だった。 表面には鋭く研ぎ澄まされた三日月が斜めに横たわり、月の先端に結ばれた一滴ひとしずくの水が滴り落ちて、石の上に永遠に乾くことのない波紋を刻んでいた。


イヒョンは乾いた唾を飲み込んだ。彼の瞳は紋様に釘付けになり、微動だにしない。


鳩尾みぞおちが痺れるように締め付けられる。 まるで扉の隙間から伸びた見えざる手が、胸倉むなぐらを掴んで強引に引き寄せているかのようだ。他の扉の前では感じたことのない、触れれば切れそうなほど鋭利な衝動が、指先を震わせた。


彼は何かに魅入られたように、もう一歩近づいた。


冷ややかな冷気が頬をかすめる。目を閉じ、扉に耳をぴたりと寄せると、鼓膜をくすぐる微細な振動が伝わってきた。


……タタッ、タタタッ。


それは、深く暗い洞窟の奥底で湿っぽく響き渡る、雨音だった。 彼は扉に向けて、慎重に手を伸ばした。


重厚に見える外観とは裏腹に、奇妙なことに重量感が全く感じられなかった。指先が触れた瞬間、扉は何の抵抗もなく、自ら滑るように開いた。 彼は一瞬息を止め、扉の向こう側の空間へと最初の一歩を踏み出した。


『青き雨の大聖堂』


蝶番ちょうつがい一つない巨大な石門が開くや否や、湿り気を帯びた凍えるような冷気がイヒョンの全身を襲った。


足を踏み入れた場所は、現実の重力が忘れ去られたかのような空間だった。 屋根が剥ぎ取られたようにぽっかりと開いた灰色の空からは、細い青色の糸が絶え間なく降り注いでいる。


柱だけがむくろのように残った灰色の回廊は、果てが見えないほど高く、床は足首まで満ちた透明な水によって、巨大な鏡へと変貌していた。


「ふぅ……」


息を吸うと、肺の中に鋭利な氷の欠片かけらが突き刺さるようだった。吐き出した呼気は濃い白霧はくむとなって散った。


視界を遮る水煙すいえんの中、イヒョンはおそるおそる歩を進めた。濡れた革のブーツが水面に触れるたび、波紋が広がる。


……ティン、ティイン。


奇妙なことだった。


雨粒が水面を叩き、イヒョンが水飛沫みずしぶきを上げる音は、鈍重な騒音ではなかった。 それはまるで、ガラスで作った木琴を銀のバチで叩いているかのような、澄み切った清らかな共鳴音だった。


数万の青い雨粒が奏でるその透明な演奏が、灰色の壁を伝って反響する。 波紋が足首を包み、響きが鼓膜に染み込むたび、理由の知れない切なさが、胸の底におりのように重く沈んでいく。


今にも泣き出しそうな、冷たくて湿ったメロディーだった。


大聖堂の中央、荘厳な石造りの祭壇には、巨大な銀色の鏡が鎮座していた。


イヒョンの背丈を優に超えるその鏡。ふちからは青い霧が滲み出るように広がり、現実との境界を曖昧にぼかしている。


イヒョンの意思とは無関係に、足が勝手に動いた。


一段、また一段。 祭壇を登る足音が、空っぽの大聖堂の中で心臓の鼓動のようにドクン、ドクンと響く。


ついに立ち止まった彼の目の前には、成人男性の背丈ほどある楕円形の鏡が静かに置かれていた。


彼は何かに憑かれたように手を伸ばし、冷たい鏡面を撫でた。指先に触れた感覚は、奇妙だった。


「……!」


滑らかな表面の向こうに、映るはずの自分の瞳がない。汗に濡れた髪も、蒼白な肌も見えない。 そこにはただ、底知れぬ深海が閉じ込められていた。


ちゃぷん、と揺れる青い液体が鏡枠の中を満たし、巨大な水槽のように圧倒的な深度を放っていた。


その時だ。 静まり返っていた濃紺の水面中心から、インクが滲むように黒い波紋が揺らぎ始めた。


歪んだ波の間に、ぼやけた形状が絡み合っては離れる。 それはまるで、水面下に沈んでいた溺死体が浮かび上がるように――イヒョンが努めて忘れようとした、あるいは決して忘れることのできなかった記憶の欠片かけらたちが、徐々にせり上がってくる光景だった。


手術室の冷たい空気の中で、死亡した患者を見下ろしている自分。


診察室で悲報ひほうを伝えられた患者の嗚咽おえつと、その傍らで見守る自分の沈痛な顔。


冷めきったコーヒーが半分残ったマグカップだけが、ぽつんと置かれた空っぽの執務室。


そして―― 白いシーツに覆われ、冷たい霊安室に横たわる妻と娘に対面した瞬間まで。


その場面たちは音もなく流れていったが、イヒョンの胸を鈍く叩き続けていた。 押し殺していた感情、忘れたつもりでいた苦痛と、骨身に染みるような恋しさが、せきを切ったように押し寄せてきた。


イヒョンの指先が、恐る恐る冷たい鏡の表面を押した。指先が白くなるほどの冷気だけが、硬いガラスを伝わってくる。


だが、彼は鏡に当てたてのひらを離さなかった。 記憶の渦が通り過ぎたその跡に、いつしか『もう一人のイヒョン』が浮かび上がっていた。


鏡の中の男は、濡れた瞳でイヒョンを見つめていた。今にも崩れ落ちそうなほど、危うい瞳だった。 沈黙の中の対面。


彼の頭上には、絶え間なく青い雨が降り注いでいた。 頬を伝うのが冷たい雨水なのか、それとも熱い涙なのか、判別できない。水をたっぷりと含んだ服が千切れるほど重く肩にのしかかるが、彼は雨筋が作り出した数千の硝子の牢獄に囚われた罪人のように、微動だにしなかった。


どれくらいの時が流れただろうか。 イヒョンはゆっくりと目を閉じ、そして開いた。濡れた睫毛まつげの先にぶら下がっていた雫が、ポトリと落ちた。


彼は、重い足取りできびすを返した。


中央の巨大な回廊に戻ったイヒョン。その視線が留まった場所には、薔薇ばら色の扉が立っていた。


真紅の黒檀こくたんで組まれたかのような巨大なアーチ型の扉は、闇を焼き払うかのように赤い光彩を放っている。 青い雨に濡れて震えていたイヒョンの肌に、まるで暖炉のそばにたたずんでいるような、温かな気が舞い降りた。


近づくと、扉の表面の木目が鮮明に浮かび上がった。 職人が丹精込めて彫り込んだつるの彫刻が枠を絡め取っており、その溝を満たす金色の塗料が照明のように煌めいていた。


それは単なる装飾ではなかった。まるで生きた血管のように、金色の線は微かに脈打ち、光を運んでいた。


扉の正中央。浮き彫り(レリーフ)で刻まれた赤い心臓の紋様が目を引く。 心臓を包み込む紫色の曲線は今にも動き出しそうなほど流麗で、その上に咲いた炎の欠片かけらは揺らめく光を受け、本当に火が灯ったかのように燃え上がっていた。


ドクン、ドクン。


錯覚ではなかった。扉の向こうから規則的な振動が伝わってくる。 巨大な生命体の懐に耳を当てたような、重くて温かい鼓動の音だった。


イヒョンは何かに魅入られたように、てのひらを扉に当てた。


「あ……」


氷のように冷たかった掌に、熱い血流が押し寄せた。強張っていた指の節々がとろりと溶け出すような感覚に、思わず感嘆の声が漏れる。 その温もりに反応するように、重厚な扉は音もなく内側へと滑り込んだ。


開いた隙間から、ふわりと、甘く切ない香りが漂ってきた。


単なる花の香りではない。 それは遥か昔、忘れて生きてきた平穏な日々の、午後の日差しの匂い。あるいは、骨身に染みるほど恋しい誰かの肌の匂いに似ていた。


イヒョンの瞳が、強烈な既視感に揺れる。

窓を開ければ漂ってきた妻の香水の匂い。 真冬、彼を温かく包み込んでくれた妻と子の体温。 そして幼い娘が胸に抱きついてきて、笑いながら囁いた、「大好き」という言葉。


イヒョンはゆっくりと、その香りに導かれるように足を踏み出した。


『薔薇色の図書館』


扉の向こうには、見ているだけで涙がにじむような、温かな風景がイヒョンを待っていた。 彼は薄桃色うすももいろの柔らかなカーペットを踏みしめ、ゆっくりと中へ入った。


そこは巨大な書斎を連想させたが、単に本を積み上げた空間ではなかった。愛の記憶が大切にしまわれた、感情の貯蔵庫のような安らぎが漂っていた。


壁沿いに伸びた本棚は天井まで届き、紫檀したんで丁寧に組まれた棚の上には、本の代わりに別のものが並んでいた。


手でぎゅっと力を込めて書かれたノート、子供のつたない絵本、妻と交わした色褪せた手紙たち。 数え切れない愛の痕跡が、整然と並べられていた。


本棚の間には、柔らかな布で覆われた小さなソファが、丸いテーブルの上にはティーカップと燭台が仲良く置かれている。ピンク色のレースのカーテンが優雅に垂れた窓辺には、細長くてふかふかしたベルベットの椅子が日差しを浴びていた。


窓越しに差し込む柔らかな光は、ちり一つない澄んだ空気の中を流れ、襟元えりもとを越えて胸の奥深くまで温もりを届けてくれる。 空気中には、古い紙と木から滲み出る心地よい香りが漂い、その中には名もなき平穏が溶け込んでいた。


まるで遥か昔に失った心の安息所を、再び見つけたような安堵感だった。


奥へと歩を進めると、小さな暖炉がイヒョンの視界に入った。


暖炉ではまきが静かに燃え、温もりを放っており、その前に置かれた空の椅子は、まるで誰かを待っているかのように静かに佇んでいた。


イヒョンはこの空間に宿る温かな空気に浸りながら、ふと悟った。 自分がこれまで、どれほどこの温もりを渇望して生きてきたのかを。


図書館の最深部、円蓋状の居心地の良い空間。その中心に、イヒョンの背丈を遥かに超える巨大な鏡が鎮座していた。


赤い木材を削り出した精巧なフレームの中では、澄み切った湖をそのまま切り取ったかのような、静寂な鏡面が揺らめいている。


イヒョンは何かに導かれるように、ゆっくりと鏡の前へと歩み寄った。


手を伸ばそうとして、ふと動きを止める。彼の視線が、鏡の奥底に吸い込まれた。 そこには――見知らぬ人のように明るく微笑む、自分が立っていた。


妻と娘の手を引いて公園を歩く姿。 真心を込めた料理を囲み、笑顔の花を咲かせた夕食。 春の午後の、気だるげな日差しの下で眠る娘の穏やかな寝顔。 そして、妻と肩を並べて窓の外の雨を眺めていた背中まで。


彼は鏡を見つめながら、胸の奥に埋めていた愛する人々の顔を一つひとつなぞっていった。 イヒョンの瞳が微かに震える。鳩尾みぞおちの奥深くから、熱い塊が込み上げてくるようだった。


少し呼吸を整え、心を鎮めてから再び目を開くと、鏡の中の風景は少し様変わりしていた。


幼い娘が彼の首に腕を回して何かを囁き、鏡の中のイヒョンは世界を手に入れたような顔で子供の頭を撫でている。 続く場面では、キッチンの調理台越しに妻が味見のスプーンを差し出し、イヒョンがわざと顔をしかめると、彼女が澄んだ笑い声と共に彼の腕をぽんと叩いた。


目がくらむほどに美しい、『過去』の記憶たちだった。


そして自然に、その上へもう一つの世界の風景が重なった。 エフェリアでの日々だ。


セルノ村、病魔にうめく人々が震える手でイヒョンの腕を掴み、涙を流した瞬間。 その傍らでベッドに横たわったまま、切実な眼差しで彼を見つめていたセイラ。 そして温かな微笑みを浮かべ、慎重にイヒョンの手の甲に自分の手を重ねたリセラの姿が、パノラマのように流れていった。


鏡の中のイヒョンは一貫していた。


彼は笑っていて、言葉なく誰かを温かく抱きしめ、黙って肩を貸して他人の人生を支えていた。 その中には、誰よりも人間らしく、温かかった一人の男が息づいていた。


無骨な手が頬を撫でる温もり、顔を見合わせて吹き出した笑い、分け合ったパンの香ばしさ……。 それは、灰色に固まってしまったイヒョンの人生から切り離されていた、総天然色に輝く『愛』の瞬間だった。


イヒョンが震える手を上げ、鏡に触れた。 すると鏡の中の男が、現実のイヒョンは忘れてしまった見知らぬ表情で、内側からてのひらを合わせてきた。


ガラスの冷たい感触はなかった。 代わりに、掌を通じて血管を伝い、熱い奔流ほんりゅうが猛烈な勢いで流れ込んできた。


鏡の表面から滲み出た赤い光が、虚空で弾けた。それはまるで、炎で作られた桜の花びらのようだった。数千の輝く花弁が渦を巻き、イヒョンの体を包み込む。


「っ……!」


イヒョンが息を呑んだ。


胸の奥で、巨大な氷壁が崩れ落ちる破砕音が聞こえた。 生涯を押し潰していた胸郭の冷気が瞬く間に溶け出し、その空席に煮えたぎる春の気がせきを切ったように押し寄せた。鳩尾が痛むほどに込み上げる感覚だった。


光の花弁たちが皮膚の中へと潜り込む。 やがて左胸の上、心臓が脈打つその場所に、耐え難い灼熱感が走った。衣服の上から赤い光が滲み出る。 燃え盛る心臓の紋様が、まるで太古よりそこにあった焼印のように、皮膚の上に鮮明に刻み込まれていく。


以前とは比べものにならない力強い鼓動が、ドクン、ドクンと音を立てて全身を震わせた。 イヒョンは濡れた瞳で、自らの胸を鷲掴みにした。


「……そうか。忘れていたんだ。愛する方法も、愛される方法も」


喉を伝って漏れた告白は、嗚咽おえつに近かった。


やがて視界が白く点滅した。 現実の感覚が光の中に溶け込み、イヒョンの意識は遥か彼方へと墜落していった。


-------


我に返ったイヒョンの目の前には、マリエンが立っていた。 彼は揺れる視線を固定し、マリエンの深い瞳を真っ直ぐに見つめた。


彼女は震える両手で、イヒョンの手をぎゅっと握りしめていた。


「イヒョン様、あなたを……信じます」


マリエンの声は依然として切迫感でうるんでいたが、イヒョンはその震えの中に、自分に対する確固たる信頼を感じ取ることができた。


イヒョンは無言で頷いた。彼女を見つめ返すその眼差しに、もはや迷いの色はなかった。


マリエンは荷台に横たわるカレンに毛布を優しく掛け直すと、夫の額に浮かんだ冷や汗を丁寧に拭った。 彼女が再び、不安げな瞳でイヒョンを見上げる。


「大丈夫でしょうか……?」


「今のこの危機を乗り越える方法は、それしかありません」


イヒョンは短く息を吸い込み、決意を固めた表情で荷台に乗り込んだ。


「急いでドランさんの家へ戻りましょう」


イヒョンの言葉が落ちるや否や、ドランが素早く御者台ぎょしゃだいへ飛び乗り、手綱を握り締めた。


「ハイッ!」


ドランの気合と共に、荷車が荒々しく地面を蹴って走り出した。 イヒョンは荷台でカレンの容態を絶えず確認しながら、激しく揺れる体を支えた。


神殿の前に立っていた数人のいぶかしげな視線が彼らの背中を追ったが、イヒョンはもはや他人の目など意に介さなかった。 彼の顔にはただ、消えゆくカレンの命を繋ぎ止めるという、熱い意志だけが宿っていた。


荷車はドランの家を目指し、通りを横切って疾走する。 ガタガタという振動の中でも、イヒョンの胸の奥では、先ほどの幻想の中で得た熱い炎が再び燃え上がっていた。


『まだ、間に合う』



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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