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21. 憐憫

イヒョンとセイラが、カビの生えたメロンを求めて果物屋へ行った翌朝のことだ。


セイラはイヒョン直伝のレシピ通りに薬を調合しており、リセラとエレンは朝食を終えた後の片付けに追われていた。


マリエンは、カレンの鼻に繋がれた細い革の管――その先に付いた漏斗じょうごへ、濃い茶色の薬液をゆっくりと注いでいた。


その革の管は、イヒョンが意識のないカレンに薬を効率よく投与するために考案した装置だった。 ドランが薄いヤギ革を巻いて丁寧に縫い合わせ、にかわで仕上げた特製品で、現代医学でいう『経鼻胃管(Lチューブ)』に相当するものだ。


イヒョンはその柔軟な革の管をカレンの鼻から胃まで挿入しており、マリエンはその管を通じて、気道ではなく食道へと安全に薬を注入していたのである。


「イヒョン様……もう神殿へ行って、治癒の儀式を待っても大丈夫でしょうか?」


マリエンは、容態がある程度安定したとはいえ、未だ意識の戻らない夫を案じる目で見下ろしながら尋ねた。


彼女の言葉を聞いたイヒョンは頷き、カレンに近づいて状態を再度綿密に観察し始めた。


患者は依然として乗り越えるべき山が多いものの、以前よりは確実に安定していた。


『脈は多少早いが、血圧は安定している。まだ微熱があり呼吸は浅いが、前よりはずっと規則的だ』


彼が痛み刺激を与えると、カレンは微弱ながらも目を開けようとした。


『意識レベルも少しずつ戻りつつある。確かに、出血多量によるショックの峠は越えたようだな』


イヒョンとしては、傷口の感染や敗血症など懸念事項は依然として多い。だが、治癒の儀式を受けることさえできれば、大きな問題にはならないはずだ。


それに、メロンで培養中の薬――ペニシリンが完成するには、まだ日数がかかる。薬ができる前に神殿で治癒を受けられるなら、その方がはるかに良い選択だった。


「まだ完全には安心できませんが……今の状態なら、神殿の待機列にも耐えられるでしょう。私が作っている薬が完成するには、もう少し時間がかかりますから。その前に治癒の儀式を受けられるのがベストですね」


マリエンの瞳が、希望に輝いた。


「それなら……」


「ええ、神殿の前で待機しても大丈夫です。十分に待ってみる価値はありますよ。その代わり、薬は時間通りに必ず飲ませてください。もし待ち時間が長すぎたり、患者さんの容態が急変したりしたら、すぐに私に知らせてください」


その言葉に、マリエンは深々と頭を下げた。


「本当に……ありがとうございます」


方針が決まると、ドランは荷車に馬を繋ぎ、カレンを担架に乗せて荷車へと移した。


「イヒョンさん。昨日ルカス氏が注文した鹿革を、作業場の棚に置いておきました。一枚35ペラです。あの方が来たら、私の代わりに渡してください」


「心配いりません。ちゃんと伝えておきます」


ドランはマリエンと共に、慎重に荷車を御して神殿広場へと向かった。車輪がガタゴトと揺れるたび、カレンは時折呻き声を漏らし、稀に目を開けることもあったが、意識はまだ混濁していた。


ドランとマリエンが去り、家の中に再び静寂が戻ると、イヒョンはセイラを呼んだ。


彼女は手を止めて、すぐに彼の前へとやってきた。


「この前話した内容、少し難しかっただろう? 今日から、すごく基礎的なことから少しずつ教えてあげよう。解剖学、薬理学、生理学……難しいだろうが、命を扱うなら必ず知っておくべき内容だ」


作業場の横にある小部屋に入ったイヒョンは、椅子に座りながら言った。


卓上には紙と木炭の鉛筆が置かれ、その傍らにはイヒョンが自ら描いた精密な人体構造図が広げられていた。


「今日は一番の基本となる、『解剖学』から始めてみようか」


その言葉を聞いたセイラは、目を丸くした。 瞬間、呼吸が止まったかのように、両手に持っていた手巾タオルがするりと滑り落ち、床にぽさりと落ちたことにも気づかず、彼女は呆然とイヒョンを見つめた。


「ほ……本当ですか?」


彼女の声は細く震え、眼差しには驚きと溢れんばかりの期待が入り混じっていた。


イヒョンは微笑んで頷いた。


「もちろん。私が教えることを理解して身につければ、いつかは一人でも人を治療できるようになるはずだ」


セイラは飛び上がるほど嬉しかった。 両手を口元に当て、込み上げる感情を抑えきれないといった様子で、その場で足をドタバタと踏み鳴らし、居ても立ってもいられないようだった。


「ありがとうございます! 本当に……本当に教えてくださるんですか?」


彼女は信じられないとばかりに再度尋ね、イヒョンがもう一度頷くと、セイラはついに両拳を握りしめて歓声を上げた。


「わぁ……! 本当に学びたかったんです。いつか必ず、誰かをちゃんと助けたくて……イヒョン様、いえ、お師匠様シショウ! 本当にありがとうございます!」


彼女はキラキラした瞳でイヒョンを見つめた後、すぐに席に着いて木炭鉛筆と手帳を取り出した。 彼女の手帳はまだ白紙だったが、そこには何でも書き留める心の準備ができていた。


「難しいぞ。だけど諦めなければ、必ずやり遂げられる。俺もそうだったからな」


こうして、彼らの記念すべき最初の授業が始まった。


イヒョンは卓上の解剖図を指し示し、人体解剖学の基礎から丁寧に講義した。


人間の骨の数、形状、構造……。 そして骨に付着する筋肉と、それらが収縮・弛緩しかんする稼働メカニズムに至るまで。


彼は簡潔かつ明瞭な言葉で膨大な知識を注ぎ込み、セイラはその言葉を一言一句漏らすまいと、猛烈な勢いで筆を走らせた。


授業を進める中、ふとイヒョンの脳裏に一つの疑問がよぎった。


『この世界には……学校という教育機関が存在するのだろうか?』


疑問は尽きない。


『学校がなければ、徒弟とてい制度だけで知識を伝承しているのか? あるいは、俺の知らない貴族や王族のためのアカデミーが別にあるのか? この世界はまるで……知識や記録が蓄積されていないように見える。奇妙な話だ』


彼は、自分がこれまで地球で当然だと思っていた『学問』という概念が、この世界では理解し難いほど希薄であることを改めて痛感した。


だが、彼はすぐにその疑問を頭の片隅へ追いやることにした。


今悩んだところで答えが出るわけでもないし、知ったところで今の自分には何ら関係のないことだ。 今、彼にとって最も重要なのは、旅費を稼ぎ、ここを離れる準備をすること。ただそれだけだった。


その時だ。


コンコン。


「いらっしゃいますか?」


作業場の外から、扉を叩く音がした。


セイラが席を立ち、扉を開ける。 そこには――小瓶を手にしたルカスが立っていた。


------


ドランとマリエンがカレンを連れて神殿へ向かった後。 リセラはドランの家での食事を一手に引き受け、セイラは毎日カレンのための薬作りに没頭していた。


セイラはイヒョンの教え通り、蜂蜜、生姜、ニンニク、玉ねぎの皮を煎じて薬を作り、柳の皮を煮出して解熱剤を用意した。そしてリセラが作った食事と共に、毎日神殿の前でひたすら順番を待つマリエンとドランに届け続けた。


そうしてカレンが神殿前で待機して三日目のこと。 早朝、ドランが顔面蒼白がんめんそうはくになって家に駆け込んできた。


「イヒョンさん! 大変です! カレンの様子がおかしいんです。熱がまた異常に上がって、息も苦しそうで……何かが間違っているようです!」


イヒョンは即座に鞄を掴んで立ち上がり、セイラも慌てて彼の後を追った。 イヒョンの瞳は、すでにこの事態を予見していたかのように沈着でありながら、重く沈んでいた。


『来るべき時が来たか』


神殿広場は相変わらず、治癒の儀式を待ちわびる病人たちで人垣を作っていた。


現場に到着するや否や、イヒョンは荒々しくカレンの手首を掴んだ。 指先に触れた肌は、生きている人間とは信じがたいほど冷たく、湿っていた。冷や汗でぐっしょりと濡れた首筋は、まるで氷水に浸したかのような冷気を放っている。


「ぐうっ……ごぼっ……」


カレンの胸が不規則に波打つたび、喉の奥から痰の絡んだ音が、濡れたのこぎりを引くように荒く漏れ出した。肺の奥が水で満たされ、気道を塞いでいるのは明らかだった。


顔からは血の気が引いて土気色になり、唇は乾いた木の皮のようにひび割れ、その隙間にはどす黒い死の影が濃く落ちている。 イヒョンがまぶたを持ち上げると、焦点を失い虚空を彷徨さまよう濁った瞳だけが、力なく揺れていた。


視線が下へ向く。 手足の先から始まった灰褐色の壊死えしは、すでに手の甲の血管を伝って黒く這い上がっていた。 シャツの上からでも分かるほどパンパンに膨れ上がった腹部。その右脇腹には、毒気を帯びた赤い斑点が今にも弾けそうなほど鮮明に浮かび上がっていた。


イヒョンの指の下で感じる脈拍は、今にも切れそうな糸のように細く、危うく震えていた。


敗血症はいけつしょうの段階です。このまま待っていては……持ちません」


マリエンは『敗血症』という言葉を理解できなかったが、状況が絶望的であることだけは痛いほど理解できた。彼女の顔は白紙のように真っ白になり、ドランは苦しげに両手で頭を抱えた。


イヒョンは二人を真っ直ぐに見据えた。


「一日か二日は持つと踏んでいましたが、これ以上は猶予がありません」


イヒョンは一瞬言葉を切り、考えを巡らせた。 そして覚悟を決めたように、悲壮な面持ちでマリエンとドランを振り返った。


「もう一度……私を信じていただけますか?」


いつも無表情で冷徹だった彼の瞳に、初めて言葉では説明し難い、熱い温もりと信頼がにじんでいた。 その瞳には、カレンを何としてでも救うという切実さと、『必ず生かす』という強烈な意志が燃え上がっていた。


今回、イヒョンが治療を申し出た理由は、以前とは明確に異なっていた。


セイラの突発的な行動による当惑や、周囲の視線と圧力によって仕方なく動いたあの時とは、本質的に異なる決断だった。


人間狩りの要塞からリセラとエレンを連れて脱出したこと。 前の村で伝染病から人々を救ったこと。 そして今、目の前のカレンを治療するために尽力したすべての瞬間……。


それらの経験が積み重なり、彼の胸の奥深くに封印され眠っていた感情を揺り動かしていた。


それはリセラによって生じた心の最初の亀裂を、徐々に、しかし確実に押し広げていたのだ。


[憐憫れんびん


彼が遥か昔、医師として第一歩を踏み出した頃に抱いていた、温かな心。


愛と悲しみが混ざり合った、切なくも美しいその感情が、干からびた胸に芽吹いた。 そして芽を出した感情は、瞬く間に彼の心の中を侵食し、育ち始めたのである。


その瞬間。


イヒョンの周囲からすべての光が消え、音が消失したかと思うと、空間そのものが崩れ落ちるような感覚が彼を襲った。


天地がひっくり返るような、目眩めまいがするほどの衝撃が脳裏を打つ。


再び目を開けた時。 視界を埋め尽くしたのは、目もくらむような純白の光輝だった。


足の裏に触れる感触が生々しい。粗い土の代わりに、鏡のように滑らかで冷たい冷気がブーツの底を突き抜けて染み込んでくる。 見下ろした床には、解読不能な幾何学的な金色の紋様が、まるで生きた血管のように絡み合い、ほのかに脈打っていた。


風一つなく、ちり一つない、完全なる静寂。


イヒョンは呆然と瞬きをした。夢と言うには肌に触れる空気が冷たすぎたし、視界に映るすべての線がナイフで切り取ったように鮮明だった。


彼が立っている場所は、果てしなく巨大なドーム状の空間だった。遥か高い天井から降り注ぐ光が、空間全体を神聖かつ奇妙な雰囲気で圧倒していた。


「ここは……」


唇を開いてみたが、自分の声が他人のように響いた。 まるで真空の中に閉じ込められたように、声が伸びることなく口元でポトリと落ちる感覚。 ドクリ、と恐怖が胸を叩く。


「セイラ! ドラン! マリエン!」


声を限りに叫んでみたが、返ってくるのは反響すらない、おぞましいほどの沈黙だけだった。


人の気配がまったくない白い空間。 その絶対的な静寂の中で、イヒョンは自身の荒い息遣いと、早鐘を打つ心臓の鼓動だけが、雷鳴のように鼓膜を叩くのを感じた。


空間は静まり返っていたが、何か得体の知れない巨大な力が、彼の胸を絶え間なくノックしていた。


圧倒的な畏敬いけいの念が押し寄せる。


イヒョンはホールの中心に立ち、ゆっくりと体を回した。視線が届く先々で、現実の建築物とは信じがたい巨大な威容が彼を圧迫してくる。


七つの巨大な扉。


それらはホールのふちに沿って円形に並び、まるで太古よりそこにたたずむ巨人たちのように彼を見下ろしていた。人の手で削ったり磨いたりした痕跡はどこにもない。


ある扉は煮えたぎる溶岩のように赤く揺らめき熱気を吐き出し、その隣の扉は深海の氷のように凍みるほど青い冷気を放ち、周囲の空気を凍てつかせていた。 扉の一つ一つが、それぞれの法則を持つ独立した世界のように見えた。


その圧倒的な形状を前にして、イヒョンの胸の奥がズキリと痛んだ。


遥か昔、心の深淵に埋めて忘れようとした激情、目を背けた悲しみ、冷たい憤怒……。 形を持たなかった感情たちが、今は巨大な質量を持つ『扉』となって、彼の行く手を阻んでいた。


イヒョンは何かに憑かれたように、ゆっくりと膝を折った。てのひらを大理石のように滑らかな床に密着させる。


「……!」


指先に触れた床は冷たかったが、その下から重々しい振動が伝わってきた。


ドクン、ドクン、ドクン。


単なる振動ではない。それは生きている生物の規則的な拍動だった。床を伝って這い上がるそのリズムは、イヒョンの胸郭の中で脈打つ心臓の音と、鳥肌が立つほど正確に一致シンクロしていた。


『もしかして俺は今……自分自身の内側に入り込んだというのか』


戦慄せんりつが背筋を駆け抜ける。イヒョンは床に手をついて、ゆっくりと身を起こした。彼の視線が、再び七つの扉へと向かう。


もはやその扉たちは、単なる構造物ではなかった。 彼が必ず開けなければならない、あるいは否応なく向き合わなければならない、彼自身の失われた欠片かけらたちだった。


彼は何かに導かれるように、巨大な扉たちに向けて、最初の一歩を踏み出した。



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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