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20. ルカス

塀を伝う蔦(つた)の葉には、夜の間に降りた露がまだ煌めいている。そこへ、朝日が斜めに降り注いでいた。


イヒョンとドラン、そしてセイラがカビの生えたメロンを大事そうに抱えて路地に入ると――ドランの家の前に、一人の男が立っていた。


身なりは整っており、柔和な笑みを浮かべている。 まるで、彼らの帰りを待っていたかのようだった。


イヒョンたちに気づくと、男は穏やかな表情で声をかけてきた。


「失礼します。もしや、こちらにお住まいの解体師の方でしょうか?」


肉や革の買い付けに来た客だと思ったのだろう。ドランは愛想よく応じた。


「ええ、私が解体師のドランですが。何かお探しで?」


「ああ、これはどうも。『ルカス』と申します」


彼は静かに微笑み、深々と頭を下げた。


「私は各地を放浪しながら物を売り買いし……面白い話を集めては語り聞かせる、しがない旅人でして」


続いて彼は、滑らかな口調で来訪の理由を語り始めた。


「こうして突然お邪魔したのは他でもありません。実は数日前、近隣の小さな村で、ある特別な噂を耳にしましてね。なんでも、一人の余所者が村の災厄を食い止めたとか」


ルカスの瞳が、興味深げに輝く。


「さらに昨日は、神殿の前でも信じられないような奇跡が起きたと聞き、居ても立ってもいられず探し回っていたのです。広場の人々に尋ねたところ、その方がこちらへ向かわれたと。ははは、どうも私は不思議な話を聞くと、我慢ができなくなる性分でしてね。もしご迷惑でなければ、そのお話を聞かせていただけないでしょうか?」


肉の客ではないと知って、ドランはあからさまに落胆した顔でイヒョンを見た。対するイヒョンは、別に構わないといった様子で軽く頷く。


「ご一緒しても?」


ルカスの問いに、ドランは肩をすくめて答えた。


「どうぞ。話代として、肉か革でも買ってくれるなら大歓迎ですがね」


ルカスは軽やかに笑って返した。


「おや! それは好都合だ。ちょうど野営続きで寝具や道具袋が傷んでしまい、修繕が必要だったのですよ。鹿革を何枚か用意していただければ、明日また代金を支払いに伺います」


「商談成立ですね。明日の朝までに用意しておきましょう。さあ、中へ」


現金なもので、ドランの顔には即座に生気が戻った。彼はルカスを家の中へと案内した。


家の中では、リセラとマリエンが朝食の支度をしている最中だった。


「ただいまーっ!」


セイラが快活な声を上げる。 続いてドランとイヒョンが入り、その背後からルカスもまた、自然な動作で足を踏み入れた。


「おはようございます。朝早くからお邪魔して申し訳ありません」


ルカスは、食事の準備をしていたリセラとマリエンに向かって丁寧に頭を下げた。


外見だけを見れば、これ以上ないほど礼儀正しい旅人だった。 口元には柔和な笑みを湛え、物腰は穏やか。その瞳は、純粋な好奇心で輝いているように見えた。


だが、ルカスと対峙した瞬間――リセラの胸の奥底から、凍えるような悪寒が這い上がってきた。


彼から漂う気配は、到底カタギの人間が纏(まと)うそれではない。


ルカスの口元は穏やかな弧を描き、その声色はどこまでも丁寧だった。しかし、リセラの肌を撫でる空気は、鳥肌が立つほどに冷たい。 まるで、どす黒い沼の底から這い出た粘着質な霧が、足首からゆっくりと絡みついてくるような――そんな不快な感覚だった。


彼が笑うたび、リセラのうなじの産毛が逆立つ。 唇は笑っているのに、瞳だけは死んだように動かない。 その漆黒の瞳の奥で、正体の知れない『ナニカ』が鋭い爪を立て、彼女をじっと見据えている。


それは紛れもなく、捕食者の目だった。


リセラは乾いた唾を飲み込んだ。恐怖が喉元までせり上がるが、吐き出せない。ルカスが一歩動くたび、室内の空気が消え失せ、真空になったかのように息が詰まる。


「……」


足が勝手に動いた。意識するよりも早く、彼女は後ずさっていた。彼が紡ぐ温かな言葉の一つ一つが、氷を削り出した刃となって心臓を狙っているかのようだ。


『口調は温かいのに……その奥にある感情は、底知れぬ深淵のように暗くて深い。その闇の中で、鋭い眼光を宿した怪物が、息を殺して私たちを睨みつけているみたい』


彼がふと視線を向け、目が合った刹那―― 彼女は笑顔の仮面裏でギラつく、冷徹な殺意を感知した。


だが、リセラは懸命に深呼吸をして、平静を装った。震える手を隠し、黙々と朝食の支度を続ける。


「ドランさん。作業台と木桶(きおけ)を少しお借りしても?」


「もちろんですとも。ご自由に」


イヒョンは作業台に籠を慎重に置くと、作業場の隅にあった空の木桶を持ってきてテーブルの横に据えた。


イヒョンがまたどんな新しく神秘的なことを始めるのか、興味津々のセイラは彼の隣にぴったりと張り付いて観察する。一方ルカスは、窓辺に斜めに寄りかかり、好奇心を湛えた顔でイヒョンの挙動を注視していた。


イヒョンが籠からカビの生えたメロンを取り出し、テーブルに置く。微細な胞子が粉のように舞い、空気中に漂った。


テーブルの上のメロンの皮には、細かい亀裂に沿ってふわふわとした青い毛玉のようなカビが広がっている。中心部は濃い藍色、外側へ向かうほど淡い青色へとグラデーションを描いていた。


イヒョンは小さなナイフでメロンを二つに割った。中の果肉はえぐり出して器に取り分け、カビの付着した皮は慎重に切り取って並べていく。


腐ったメロン特有の、酸っぱくて甘ったるい腐臭に、セイラは鼻をひくつかせ眉をひそめた。


「このカビはただ捨てられるだけのものかもしれないが……うまく使えば、極めて優れた薬の材料になるんだ」


手入れを終えた皮の欠片を、イヒョンは木桶の底へ、互いに重ならないよう丁寧に敷き始めた。


通気性を考えて隙間を作りつつ、皮を積み上げていく。その隙間をメロンの果肉で満たし、最後にカビが最も豊かに育った欠片を一番上に被せた。


作業を終えると、イヒョンはカビの詰まった木桶を作業場の隅、日陰になった場所へ安置した。


「ここなら温度も湿度も適当だろう。このまま数日も経てば……カビのコロニーが完全に定着するはずだ」


セイラは木桶の中を不思議そうに覗き込み、呟いた。


「本当に、この中で……お薬が育つのですか?」


「もちろん」


イヒョンは木桶の蓋をゆっくりと閉じながら付け加えた。


「こうして数日置いておくと……本当に魔法のようなことが起きるんだ。ここで『アオカビ』というやつが繁殖する。俺たちはそのカビから、ある特別な物質を得ることができる」


セイラは目を輝かせて尋ねた。


「それは……またどんな魔法のようなことなんですか?」


セイラは頭ではイヒョンの所業が魔法ではないと理解していたが、目の前の光景があまりに不思議で、やはり魔法のようだと感じてしまうのだ。


「病を治す魔法さ。とても強力なやつだ」


それまで静かに過程を見守っていたルカスが、すっと近づいてきた。


「実に興味深いですね。その魔法のようなお話、もう少し詳しく聞かせていただけませんか?」


彼は手慣れた様子で言葉を継いだ。


「私はよく、立ち寄った村の酒場でこうした話を語り聞かせるのです。面白い土産話があれば、宿を提供してもらえたり、酒を恵んでもらえたりしますからね。いわば、こういう珍しい話は私にとって金貨も同然というわけですよ。ははは」


イヒョンは軽く頷くと、以前セイラの故郷であるセルノ村で起きた出来事を簡潔に説明してやった。


話を聞き終えたルカスは、心底感心したといった表情を浮かべた。


「本当に……不思議ですね。『浄化』などというのは神官たちが成す奇跡の領域だというのに、そのアプローチが完全に異なるとは」


「そんな大層なものではありません。理屈さえ知っていれば、誰にでもできることです」


イヒョンは淡々と答えた。謙遜ではなく、事実を述べているだけの態度だ。 ルカスは頷き、次の話題を切り出した。


「それに、怪我をした狩人の話も聞きました。もしよければ……彼に会わせてもらえませんか?」


イヒョンはきっぱりと首を横に振った。


「彼はまだ回復の途中で、絶対安静が必要です。今はそっとしておいた方がいいでしょう。ですが、昨日の状況についてでしたら簡単にお話しできますよ」


彼はカレンの傷の状態や止血のための応急処置、そして動物の腱や馬の尾毛(びけい)を利用して血管や皮膚を縫合した手術の過程について詳細に語った。


ルカスは目を輝かせてしきりに頷き、時折膝を打っては驚きの声を上げた。


一通りの説明を聞いたルカスは、重ねて礼を言い、家を後にした。


しばらくして。 パカッ、パカッ……。 ルカスの乗ってきた馬の蹄(ひづめ)の音が遠ざかると、リセラがイヒョンに歩み寄り、恐る恐る口を開いた。


「あの、イヒョン様。ルカスというあの方……何かがおかしいです」


イヒョンが振り返り、彼女を見つめる。


「どうしてそう思うんです?」


リセラはルカスが出ていった扉をちらりと見て、案じるような声で囁いた。


「いつも笑顔で礼儀正しく、物腰も柔らかいのに……その奥から感じる気配が、見た目とあまりにかけ離れています」


彼女は自身の体を抱くようにして、身震いした。


「まるで、感情が黒い霧で覆われているような。……うまく言えませんが、彼の振る舞いすべてが、本心ではない演技のように感じられるのです」


イヒョンは顎を撫でながら少しの間思案し、静かに口を開いた。


「あのルカスという方は、長く旅をしているそうですから。おそらく、酸(す)いも甘(あま)いも噛み分けてきたのでしょう。過酷な経験を重ねるうちに、本心を隠すのが習い性になっているのかもしれません」


「それなら、いいのですが……」


リセラの言葉尻が濁る。イヒョンは彼女を見つめ、安心させるように微笑んだ。


「あまり心配しないでください。とはいえ、用心するに越したことはありません。リセラさんの忠告、肝に銘じておきます」


リセラは無言で頷いた。 だが、胸の奥に残った釈然としないしこりは、依然として消えずにいた。


ドランの家を辞したルカスは、手綱を引いて通りをゆっくりと歩き出した。


早朝から慌ただしかったコランの街路は、時間が経つにつれてさらに人通りが増し、喧騒に包まれている。


彼は大通りの外れにある、古びてはいるが格式の高そうな宿屋の前で足を止めた。繋留杭(けいりゅうぐい)に馬を仮留めし、扉を開けて中へと入る。


落ち着いた空気が漂うロビーで、宿の主人が彼を出迎えた。


「いらっしゃいませ」


「静かな部屋を一つ頼む。数日ほど逗留(とうりゅう)する予定だ」


主人はルカスの身なりをさっと値踏みすると、手慣れた様子で鍵を取り出し、愛想笑いを浮かべた。


「一泊40ペラになります。20ペラ追加していただければ、温かい朝食もお付けできますが」


「朝食は結構だ。とりあえず三日分を前払いしよう」


「お食事は後からでも追加できますので、気が向いたらお申し付けください。こちら、三階の『月の間』の鍵です。一番静かな部屋ですよ」


ルカスは鍵を受け取ると、三日分の宿代として1デント20ペラを支払った。


「馬は裏の厩舎(きゅうしゃ)へ?」


「はい、裏手に回っていただければ。厩番(うまやばん)に心付け(チップ)を渡していただければ、特によく世話をさせますので」


ルカスは厩番に馬を預けた後、三階の廊下の突き当たりにある部屋に入った。


ガチャリ。 扉を静かに閉め、施錠する。 その瞬間、彼の瞳から、人の好い旅人の色が消え失せた。


彼は低く声を潜め、召喚の言葉を紡いだ。


「Voca, Serphalque(来たれ、セルファルク)」


指先から濃密な影がインクのように滲み出し、やがてセルファルクの形状へと凝縮された。


ルカス――いや、インテルヌムの工作員セルカインは低く囁き、組織へ詳細な報告を行った。


「報告します。対象は神の力を借りずして、神の如き奇跡を行使しています。異邦人の知識は、エフェリアの秩序と真っ向から衝突します。『地球』という場所から持ち込まれた、理解不能な知識と技術……危険だと判断します」


しばらくして。 セルファルクを通じて転送された報告は、インテルヌムの本部、『黒の塔』の中枢にいるアズレムのもとへと届いた。


セルカインからの報告を聞いたアズレムは、しばし目を閉じて沈思黙考(ちんしもっこう)した。 やがて、彼はゆっくりと手を掲げ、重々しく厳粛な命令を下した。


『その者が我らの計画に益すると判断せば、生け捕りにせよ』


アズレムの声には、抗いがたい重圧が込められていた。


『だが、もし捕縛が不可能、あるいは我らが大業(たいぎょう)の妨げになると判断した場合は……速やかに排除せよ』


セルファルクを通じてアズレムの勅命(ちょくめい)を受けたセルカインは、ベッドに身を投げ出し、目を閉じた。


闇に沈む部屋の中。 彼は脳内で静かに、そして緻密に、狩りの計画を練り始めた。


------


翌朝早く、ルカスは再びドランの家を訪れた。


いつもと変わらぬ人好きのする表情、柔らかな微笑み。 その手には、小さな小瓶が一つ握られていた。


コンコン。 扉を叩くと、セイラが出てきて彼を迎えた。


「あ、ルカスさん。またいらしたんですね?」


「鹿革を買いに来ると約束しましたからね。ははは」


彼は笑って、持参したガラス瓶を差し出した。


「それとこれ、市場で手に入れた蜂蜜です。昨日小耳に挟んだんですが、マリエンさんが使う蜂蜜が少し足りないようでしたので」


「あ、お気遣いありがとうございます。でも、ドランおじさんとマリエンお姉ちゃんは、カレンさんを連れて神殿へ行きました。つい先ほど出かけちゃって……今は留守なんです」


「そうですか。では……お邪魔でなければ、少し中で待たせてもらっても?」


セイラが一瞬ためらっていると、奥の部屋から人の気配を感じたイヒョンが出てきて尋ねた。


「セイラ、誰か来たのか?」


「ルカスさんよ。昨日いらっしゃった……」


「ああ、おはようございます。どうぞ、中へ」


セイラが扉を開けると、ルカスはいつものように恭しく頭を下げ、作業場へと足を踏み入れた。


イヒョンは朝、ドランが出かけに預けていった鹿革の束を棚から取り出し、作業台の上に置いた。


「ここに鹿革があります。ドランさんから預かっておりまして。一枚35ペラと伝言を受けています」


ルカスは満足げな顔で、よく鞣(なめ)された鹿革を検分すると、1デント75ペラをテーブルの上に置いた。


購入した革の束を整理しながら周囲を見回していたルカスの目に、何か異質な光景が飛び込んできた。


作業場の奥の部屋の壁面。 そこには、ルカスには到底理解できない、奇怪な絵が貼り付けられていた。


「ほう……あれは何です? ずいぶんと不思議な絵ですね」


「ああ、あの絵ですか? 授業の最中だったんですよ」


「授業、ですか?」


部屋の壁には、イヒョンがセイラに教えるために自ら描いた人体解剖図が貼られていた。


イヒョンはセイラに人体の構造、骨の形状や筋肉、そして血管と神経の走行方向を教えていたのだ。


「授業とは……一体何を教えておられるので?」


「ああ……大したことじゃありません。私が以前学んだ知識を教えているだけですよ」


「はあ、そうですか。何か相当難しそうに見えますが……私も少し拝聴してもよろしいですか?」


「少々恥ずかしいですが、構いませんよ。ははは」


イヒョンはセイラと共に小部屋へ戻り、解剖図を指しながら再び説明を続けた。


その説明は沈着かつ詳細で、セイラは小さな手帳に一言一句逃すまいとするかのように、懸命に書き留めていた。


「すべての動脈は心臓から出て各器官へと向かい、それらは再び静脈を通じて……」


セルカインは、彼の声からいかなる感情も感じ取ることができなかった。 イヒョンはただ淡々と、乾燥した口調で、セルカインには理解不能な異質の知識を伝達していた。


セルカインはその光景を見て、背筋が凍るような違和感を覚えた。


正確に言い表すことはできないが、人間をバラバラに解体し、部品のように一つ一つ確認しているような不快な感覚。 それは確実に、セルカインが知るこの世界の知識とは一線を画していた。


『これは……あまりにも……』


これまで彼が知っていた世界は、『感情』こそが秩序の中心であり、力となる場所だった。だが今、目の前で繰り広げられるイヒョンの講義内容は、未知であるどころか、恐怖すら抱かせるものだった。


反面、少女は異常なほど真剣だった。 彼女はこのおぞましく奇異な内容を恐れもせず、不快にも思っていない。ただ集中し、すべてを理解し受け入れるために必死で食らいついている。


彼はふと、自分でも知らぬ間に拳に力が入っていることに気づいた。 冷や汗が背筋を伝い落ちる。


『この者が行った所業、そしてこの奇怪な知識の伝播(でんぱ)……こんなものが広まり始めれば、統制が不可能になる。もしこの者に従う輩(やから)が増えれば、彼の存在はインテルヌムのみならず、エフェリア全体に対する明確な脅威だ。生かしておいてはならない』


そう考えた瞬間、セルカインは自分がイヒョンを『恐れている』という事実を自覚した。


『コルディウムもなしに治癒や浄化が可能だという事実が、あの少女にこれほど自然に受け入れられているとは……』


イヒョンは彼の視線を感じたのか、顔を上げて尋ねた。


「ルカスさんも、医学に興味がおありですか?」


「それを医学と呼ぶのですか? いやあ、ははは。そうですねえ……私には理解できない、まったく別次元の何かのように思えます」


「神の祝福や儀式がなくとも、傷を癒やし病を治すことはできます。原理(りくつ)さえ知れば、誰にでも可能です」


その言葉に、ルカスは低く沈んだ声で問うた。


「果たして、そんなことが可能なのでしょうか?」


「もちろんです。可能ですとも」


「信じられませんね。そのようなことは、神の領域ではありませんか?」


「ははは。そうではありませんよ。医学は人間の領域です。まだよく知られていないだけのことです」


「ふむ……もしかして、あなたは神を信じていますか?」


イヒョンは顔を上げて彼を見つめ、しばし沈黙した。5年前、彼が経験した悲惨な事件が脳裏をよぎる。


「信じてはいません」


ルカスが頷こうとした刹那、イヒョンが再び口を開いた。


「ですが……いてくれればいいとは、思います」


「それは、どうしてです?」


「本当に神がいるのなら、この世の混乱や偽りを、ただ見過ごしたりはしないでしょうから」


イヒョンは短く息を吸い込んだ。


「人間には、どんなに辛く苦しい状況でも、誰かが自分を見守ってくれていて、最後には報われるのだという『希望』が必要だと思うんです。私が神を信じていないにもかかわらず、神がいてくれたらいいと思うのは、まさにそういう理由からです」


ルカスはそれ以上、問わなかった。


彼はイヒョンに丁寧に別れを告げた後、静かに宿へ戻った。 その胸中には、冷徹な決意が固まっていた。


セルカインは再びセルファルクを召喚し、インテルヌムへ新たな緊急報告を打電した。


「報告。対象『イヒョン』は神の存在を否定し、コルディウムなしで病や傷を治癒するなど……この世界の秩序に真っ向から挑戦する危険思想を保有。即時排除すべき対象と判断する」


しばしの静寂。 やがて、闇を切り裂いて戻ったセルファルクは、インテルヌムからの返信を吐き出した。


今回はアズレムではない。 それは、ベルダークの声だった。


彼の音声は、まるで天井から滲(にじ)み出る死の影のように低く、重く、その場を圧迫した。


『統制なき感情による、無秩序なコルディウムの乱用は……この世界を混沌(こんとん)へと追いやるであろう』


ベルダークの声が、鼓膜ではなく脳髄(のうずい)を直接震わせるかのように響く。


『だが、コルディウムなくしては、人間など何もできぬ無力な存在に過ぎぬ。それゆえ、この世界は絶対者の統制下にあって初めて、平穏かつ持続可能となり得るのだ』


続くベルダークの声には、凍てつくような、絶対的な威圧感が込められていた。


『だが、ソ・イヒョン』


その名が呼ばれた瞬間、大気が凍りついた。


『あの男の知識と技術は、既存の秩序に従わぬ。むしろ秩序を超越し、体制そのものを崩壊させる危険を孕(はら)んでいる。奴は、我らが築こうとする「統制された世界」における巨大な障害だ』


勅命(ちょくめい)は、短く、冷徹だった。


『奴を、排除せよ』


ベルダークの命を受けたセルカインは、ゆっくりと窓を開け放った。


静寂に包まれたコランの夜空。 その暗闇を見据える彼の瞳に、冷たい殺意と、固い決意が宿った。



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


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