19. メロン
市場の天幕が、一つ、また一つと取り払われていく。
通りには焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、人々の空腹を刺激する。 石畳を転がる荷馬車の車輪の音。人々の話し声。それらが混じり合い、都市の朝が活気とともに幕を開けた。
『まだ時間の余裕はある。都市に入ったのなら、必ず痕跡が残っているはずだ』
セルカインは焦る必要はないと判断した。 イヒョン一行の正確な目的地は不明だが、補給と休息のために、少なくとも数日はここコランに滞在するだろうと踏んだからだ。
彼は馬を降り、手掛かりを集めるべく市場の雑踏へと足を踏み入れた。
「こんにちは。これ……『ルバ』ですよね? 色がすごく鮮やかだ。いい品ですね」
「いらっしゃい! お客さん、お目が高い。ウチの商品は、この地区で一番ですよ。ハハハ! 料理に入れてもいいし、干してお茶みたいに煮出して飲めば、今の季節にはぴったりだ」
セルカインは人当たりの良い笑みを浮かべながら相槌を打つ。だがその裏で、目と耳は些細な情報一つ逃さぬよう、鋭く研ぎ澄まされていた。
「ここは思ったよりずっと活気がありますね。他所から来る人も多そうだ。私は珍しいものを見るのが好きでしてね、こうしてあちこち旅をしてるんですが……。最近この街で、何か変わったことや面白い話はありませんでしたか?」
商人は、大したことではないとばかりに肩をすくめた。
「ここはいつも新しいことだらけですよ。他所者もよく来るし、珍しい品物や人も毎日出入りしてますからな。ああ、そういえば……」
商人は思い出すように顎をさすった。
「ついこの間も、変わった恰好をした連中のせいで、神殿の前が一騒動あったらしいですぜ。俺は商売が忙しくて直接見ちゃいませんがね。ハハハ、まあ、そんな騒ぎは日常茶飯事ですが」
セルカインは興味津々といった様子で目を輝かせ、微笑んだ。
「ほう、そうですか」
「ま、探せば見物できるもんは山ほどありますよ。神殿は広場にあるんで、一度行ってみなさるといい」
「ありがとうございます。広場の方へ行ってみることにしますよ」
「必要なもんがあったら、いつでもまた来てくださいよ!」
コランの朝は、目映いほどに明るかった。だが、神殿の前を澱む空気は鉛のように重くのしかかっていた。
「ゴホッ、ゴホッ……」
乾いた咳の音が広場を埋め尽くす。 古びた毛布を被った老婆は、暖かな陽射しの下でも小刻みに震え、膝に黄色い膿が滲んだ包帯を巻いた男は、絶えず苦悶の声を呑み込んでいた。
高熱にうなされる子供を抱いた女の、力の抜けた背中。その向こうへ、病人たちの行列はまるで巨大な蛇がとぐろを巻くように、広場の柱を過ぎて市場の入り口まで長く伸びていた。 汗の臭いと、腐敗していく患部の悪臭が鼻を突く。
その時だ。 何事もなく歩いていたセルカインの肩が、ガクン、と崩れ落ちた。
ズルズル。 彼の左足が、まるで重い鉄塊でもぶら下げたかのように地面を擦り始めた。 背中は猫背に曲がり、鋭かった眼光は瞬く間に生活に疲れたような濁った色へと塗り替えられる。
完璧な偽装だ。 彼は何の疑いも抱かれることなく、うめき声を上げる群衆の最後尾に自然と溶け込んだ。
彼の前には、一人の初老の男が毛布を肩に掛け、震えながら座り込んでいた。
「長くなりそうですね。朝から結構な行列だ。街に入ったばかりなんですが、儀式を待つ人は元々こんなに多いんですか?」
毛布を被った男は、落ち窪んだ目でセルカインを見上げた。
「ここは並ばなきゃ診てもらえねえよ。神官の数も知れてるし、儀式一つ受けるのに半日はたっぷりかかる。……まったく、待ってる間に死んじまうよ」
「それでも皆、こうして根気強く待っているところを見ると、それだけの価値はあるんでしょうね。旅の途中で少し怪我をしてしまって、儀式を受けに来たんですが……こう列が長くては」
「それが……最近、妙に病人が増えてな。患者は溢れかえってるのに、神殿じゃすべて手に負えなくなってるんだ」
男は深い溜息をついた。
「神官たちも必死なのは分かるが、手が圧倒的に足りないらしい。そうすると、変な輩までしゃしゃり出てくる始末でな……」
「変な輩、ですか?」
「昨日のことだが……儀式待ちの連中の中に、大怪我をした狩人がいたらしい。噂じゃ、猪に突かれて足がちぎれかけたとか何とか……。チッ、あの人は多分もう死んでるだろうよ」
「儀式が間に合わなかったのですか」
「そうじゃねえ。いきなり何処の馬の骨とも知れん余所者が、『俺が治してやる』とか抜かして連れてっちまったんだと。世も末だな、神官でもない奴がどうやって人を治すってんだ? ハハハ」
男は呆れたように、力なく笑った。
「神官じゃないのに治療を?」
セルカインは驚いたように目を丸くして聞き返した。
「どうせ待ってても死んでただろうがな。とにかく、病人の必死な足元を見たインチキ商売なんじゃねえかと思うよ。神官でもないのに治療なんて……。聞いた話じゃ、その若い男、妙な話し方をしてたらしい。俺が直接見たわけじゃねえが、随分と大層なことを言ってたようだ。はぁ……それでもそんなのを信じるとはな」
一瞬、セルカインの瞳の奥で鋭い光が走った。
「はあ、そりゃあ気の毒な話ですね。それで、その患者はどうなったんですか?」
「怪我人の友人の家に行ったそうだ。近くに住む解体屋の家だとか……何とか言ってたが、俺も詳しくは知らねえよ」
セルカインは静かに頷いた。
「興味深い話ですね。ちょっと気になったんですが、その解体屋の家っていうのはどの辺かご存じで?」
男は広場の方角を、弱々しい指で指し示した。
「さあな。俺もよく知らねえが、あっちの方へ少し行くと獣の首がいくつもぶら下がってる二階建ての家がある。多分そこじゃないかと思うがね。俺が解体屋に用があるわけでもなし。ま、見ればすぐに分かるはずだよ」
「なるほど。この列を見る限り、私が今日儀式を受けるのは無理そうですね」
「ところで、あんた。何か食い物は持ってねえか? 早朝から出てきたもんで、朝飯も食ってなくてよ」
「おっと、こりゃ残念だ。私も今コランに着いたばかりで、手持ちの食料がないんですよ」
「はぁ……」
男は毛布を首まで引き上げ直し、地面に沈み込むような溜息をついた。 セルカインは待機列からそっと抜け出し、男が教えてくれた方向へとゆっくり歩き出した。
『神官でもないのに治療をする余所者か……。あいつで間違いないな』
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ドランの家の窓から、柔らかな朝の陽射しが差し込んでいた。 夜通し働いていた暖炉の役割を引き継ぐかのように、暖かな光が部屋中を満たしている。
イヒョンは静かに起き出し、身支度を整えると、まずカレンの容体を確認した。
意識はまだ完全には戻っていない。 だが、イヒョンの作った薬が効いたのか、心拍、体温、呼吸、すべてにおいてかなり安定していた。蒼白だった顔色も、昨日よりずっと良くなっている。
イヒョンが1階の作業場へ降りると、ちょうど掃除をしていたドランが愛想よく声をかけてきた。
「よく眠れましたか? カレンが結婚してからは、俺が掃除をサボり気味だったもんでね」
「おかげさまで、熟睡できましたよ。早いですね」
「ええ。もうすぐ猟師たちが来る時間なもんで」
「こんな時間にですか?」
「夜の間に罠にかかった獲物を持ってくる連中がいましてね。ま、数は多くないですが」
「なるほど。あの……果物が少し欲しいんですが……。カレンさんのために、ちょっと特別な材料が必要でして。もし近くにいい店があるなら、教えていただけませんか?」
掃除の手を止め、ドランは革のエプロンを外しながら頷いた。
「一番大きな果物屋なら広場の北側にありますよ。掃除もあらかた終わったし、俺が案内しましょう。店主とは顔なじみだから、一緒に行けば融通が利くはずだ」
その会話が聞こえたのか、台所でリセラと共に朝食の準備をしていたセイラが、慌てて飛び出してきた。
「私も……一緒に行ってもいいですか?」
イヒョンは彼女を見つめ、快く頷いた。
「もちろんだ」
セイラは鞄にペンとメモ用紙の束を大急ぎで詰め込むと、ドランとイヒョンの背中を追って家を出た。
三人はコランの石畳をゆっくりと歩き始めた。 早朝の市場は、ちょうど店を開けて商売を始める活気に包まれつつあった。
イヒョンの後ろをついて歩いていたセイラが、イヒョンの横にぴたりと寄り添い、遠慮がちに口を開いた。
「ルメンティア……あの、聞きたいことがあるんですけど……」
イヒョンはセイラを見やり、質問してもいいという合図を目で送る。
「その……昨日の薬のことなんですけど。ニンニクとか生姜、蜂蜜、玉ねぎで作ったやつです。あれって全部、料理の材料ですよね? そんなものが本当に薬になるんですか?」
イヒョンは少し考え、流暢に答え始めた。
「ニンニクには『アリシン』という抗菌成分があるんだ。潰したり熱を加えて細胞壁が破壊されると、その物質が抽出されやすくなる。その時に出るアリシン成分が殺菌作用を起こして、カビやバクテリアを殺すんだよ」
イヒョンの説明は止まらない。
「それに生姜には『ジンゲロール』、『ショウガオール』という物質が含まれていて、これは炎症を抑えたり体温を上げるのにいい。玉ねぎには『ケルセチン』というフラボノイド抗酸化物質が豊富で、細胞の損傷を遅らせる効果があるしね」
彼は歩みを止めぬまま、淡々と語った。 だが、説明が続くにつれて、隣で聞いているセイラの顔は、まるで逆さまに持った本を読まされているかのように、困惑の色に染まっていく。
「カ、カビ……は分かりますけど。バクテリア……アリ……シン……? ショウガ……オール……? ケ……フラ……何ですって?」
彼女は手帳に単語を書き留めようとしたが、ペンを持ったまま口をぽかんと開け、呆然と立ち止まってしまった。
「それ全部……魔法の材料の名前ですか?」
彼女の瞳は、深い森の中で迷子になったかのように不安定に揺れ動いている。
「私……ただ熱を下げて傷を治す薬草みたいなものだと思ってたのに……こんなに多くて複雑だとは思いませんでした」
イヒョンは振り返り、短く笑った。
「ハハ、説明が早すぎたかな。一つ一つ見ていけば、そんなに複雑じゃないよ」
「でも……それを煮込んだら、その変な名前のモノたちが、液体の中に全部残るんですか?」
「水で煮出して、必要な成分を抽出したからね。ちゃんと残ってるよ」
セイラは言葉を失ったまま、手帳を閉じて顔を上げた。
「……ルメンティア。正直に言いますと……ちんぷんかんぷんです」
「初めてだからだよ。その難しい名前を、今すぐ全部覚える必要はない。今はニンニク、生姜、玉ねぎを使ってこういう薬が作れるってことだけ、分かってれば十分だ」
「それを全部知ってるのが……不思議でもあり、ちょっと怖くもあります」
セイラは複雑な表情でイヒョンを見つめた。
「ただの木の皮や葉っぱ一枚から、そんなにたくさんのことを見抜いちゃうんですもん。私はただ、いい匂いがして温まればいいとしか思ってなかったのに……」
「俺も昔、師匠から教わったことや、本を読んで身につけた知識だよ」
セイラは意外そうに目を丸くした。
「ルメンティアも、教わったんですか?」
「ああ。俺だって全部学んだことさ」
彼女はそれまで緊張していたのが嘘のように、はにかむように笑い、再び手帳を開いた。
「じゃあ、難しくても……頑張って覚えます。知りたいですから。だって、それを知っていれば……誰かを助けられるでしょう?」
セイラは歩きながらも、さっき聞いた内容を熱心に書き留め始めた。
「それを……一緒に煮込むと、そんな効果が出るんですか?」
「正確には、煮出すことで中の有効成分を抽出するんだ。熱で一部の成分は壊れるけど、その分、吸収しやすい形に変わったりもする」
セイラは目を輝かせて頷いた。
「じゃあ……柳の皮は? あれは何の役目なんですか?」
イヒョンは淀みなく答えた。
「柳の皮には『サリシン』という物質がある。体に入ると肝臓で代謝されて『サリチル酸』になるんだ。痛みを和らげて、炎症を抑えてくれる」
セイラは必死にメモを取りながら、呪文のように呟いた。
「サリシン……肝臓で代謝……サリチル酸……」
「一度に全部覚えようとしなくていいよ」
イヒョンはふっと笑って付け加えた。
「必要なら、また教えてやるから」
「いいえ、全部覚えます。忘れないうちに書いておかないと」
その言葉にイヒョンは無言で前を向いたが、口元には微かな笑みが浮かんでいた。 弟子を教えるこの感覚、本当に久しぶりだった。
しばらくして、セイラがまた尋ねてきた。
「……あと……昨日のことなんですけど。その……あの血が吹き出すのを止めたの、あれはどうやったんですか?」
イヒョンは頷きながら説明した。
「ああ、あれは動脈を縫合したんだ。裂けた血管の両端を掴んで、糸で縫い合わせる。昨日使った糸は動物の腱と馬の毛だ。糸で血管をしっかり縫えば、出血を止められる。もちろん、ちゃんとやらないと再破裂したり、壊死することもあるけどな」
「……何をおっしゃっているのか……よく分かりません」
セイラは消え入りそうな声で言った。
「本当に凄いことをしてるのは分かるんですけど、今のお話はちっとも理解できませんでした。なんか……まるで魔法の呪文みたいで。速くて、複雑で……私とは全然関係のない世界の話みたい」
セイラは手帳にイヒョンの言葉を懸命に書き留めると、しばらくの間イヒョンを見上げた。
「……本当に不思議です。ルメンティアは……神官よりもっと神官らしくて、実は私には、神様みたいに見えるんです」
イヒョンは照れくささに何も答えず、足を速めた。 だが、背中越しに伝わってくる真摯な想いに、胸の奥がくすぐったいように微かに震えた。
「追いかけようとしても、絶対に追いつけない……もうあんなに先で……次から次へと何かを取り出されるのに、私はそれを掴もうとして取り逃がしている気分です」
イヒョンは振り返り、セイラを見つめて言った。
「あとで最初から説明してやるよ。ゆっくり、一つずつな。お前が理解できるように」
セイラはペンの持ち方を直し、力強く頷いた。
やがて、ドランが指で前方の店を示した。
「あそこです。この街で一番いい果物を仕入れてる店ですよ」
大きな木陰に構えられたその店には、瑞々しい果物が籠いっぱいに盛られ、並べられていた。 イヒョンは陳列台に近づき、どんな果物があるか物色した。
その中で、一際大きなメロンがイヒョンの目に留まった。
イヒョンはメロンを一つ手に取った。掌にずしりとした重みを感じる。 あちこち角度を変えてメロンを眺めていた彼は、プッと吹き出した。
セイラはメロンを持って笑うイヒョンを、怪訝な目つきで見つめた。
「……それはまた……どうしてですか?」
「もっと効きのいい薬を作るためさ」
イヒョンは笑みを浮かべて答えた。
「メロンで……?」
「ああ。過程は少し汚いかもしれないがね。でも、すごく役に立つ」
「どんな?」
「直接見れば分かる」
イヒョンは新鮮で大きなメロンには興味がないと言わんばかりに、元の場所にポンと戻した。
「店主、もし傷んだ果物はどう処理されてますか?」
メロンを整理していた果物屋の主人が顔を上げた。
「傷んだやつ? そりゃあ、店の裏に積んどけば肥料が欲しい農夫が持ってくがね。……なんでです? 腐ったのが欲しいんで?」
「ええ。ちょっと見せてほしくて」
「好きに見なせえ。店の左の路地に入って最初の木の扉を開ければ、隅に積んである木箱が見えるはずだ。農夫たちが来てから少し経ってるから、まだ残ってるだろうよ。……ただ、食えるもんがあるなんて期待しなさんなよ」
イヒョンは籠を手に取り、主人が教えてくれた通りに店の裏へと向かった。セイラは依然として手帳を持ったまま、イヒョンの横にぴたりとついて来る。
「箱の中から、カビが生えたメロンを探してくれ」
「ルメンティア……相変わらず理解に苦しむことをされますね」
二人は熱心に木箱の中を漁り始めた。 ドランは全く訳が分からないといった顔で腕を組み、木の扉に寄りかかってその様子を眺めていた。
「あった」
「こっちにもありますよ。こんなのでもいいんですか?」
「いいぞ。とりあえず持って行こう」
そうして彼らは、カビだらけのメロン――他人から見ればただの生ゴミ――を数個抱えて、ドランの家へと戻っていった。
いつの間にか陽射しは路地の奥深くまで差し込み、長く伸びていた影は徐々に短くなっていた。
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