16. コラン
焼きたてのパンの香ばしい匂い。路地裏に響く子供たちの笑い声。
その平和を引き裂くように、セルカインの体から黒い陽炎が立ち昇り、螺旋を描いて天を突いた。
澄んだ水に一滴の墨汁を垂らしたかのように、黒い気配は瞬く間に空を飲み込んだ。太陽は遮られ、巨大な黒いガラスのドームが村を覆う。光を奪われた村は、巨大な監獄のごとく息もできない闇に沈んだ。
刹那の静寂。
「ガシャンッ――!」
鼓膜をつんざくような破裂音が虚空を切り裂いた。漆黒の空に閃光のような亀裂が走ったかと思うと、ドーム全体が粉々に砕け散ったのだ。
それは、雨ではない。鋭く研ぎ澄まされた、数千もの黒いガラスの欠片だった。
空中でピタリと止まり、獲物を狙うかのように振動していた破片たちは、一斉に人々の胸を目掛けて突進した。
肉が裂ける音はしない。赤い血の一滴すら飛び散らない。 だが、胸を押さえた人々の肩が、不気味に震え始めた。
[ミラテルム]
破片は肉体を貫く代わりに、魂の最も深く、ジメジメとした隙間へと入り込んだのだ。
畑を耕していた農夫の瞳から生気が抜け落ち、代わりに濁った血走りが走る。彼は鋤を放り出し、隣人を睨みつけた。口元には卑しい冷笑が浮かんでいる。 赤ん坊を抱いていた母親の腕には、ブクリ、と血管が浮き出た。その眼差しにもはや、慈愛の色はなかった。
破片が抉り出した傷口から立ち昇る疑心と貪欲が、人々の顔を悪鬼のごとく歪ませていく。村人の目は瞬く間に凶暴なものへと変わり、互いに吐き捨てる言葉は刃のように鋭くなった。
不信。疑念。偏見。非難……。
黒い感情は野火のように村全体へと広がった。やがて人々は互いを突き飛ばし、怒号を上げ、獣のように取っ組み合いを始めた。
村は、自ら崩壊を始めたのだ。 そしてその混沌の中心で、セルカインは自身の黒い石板にまた一行を刻み込んだ。
「ソ・イヒョン、奴の浄化方法は一時的なものと判断する」
「あの夜、一体どこにいたんだ! 俺を見捨てて一人で逃げたんだろう!? ああっ!?」
耳をつんざくような怒鳴り声と共に、食卓がひっくり返された。皿が割れる音が、狂乱の合図となったようだ。
「あの子が飢えて死にそうだった時……あんた、パンを隠し持ってたでしょう!」
普段はおとなしい女が、隣家の男の胸倉を掴んで揺さぶった。彼女の目は裏返り、白目がぎらついている。口元には泡がたまっていた。男のシャツのボタンが引きちぎられたが、男も負けじと女の手首を砕けんばかりに捻り上げた。
「この狂人女が……あれはお前のせいだったんだ! お前が無能だから殺したんだろうが!」
プツン、プツン。
心の奥底、ほんの小さな隙間に突き刺さった黒い破片が、膿のような真実を爆発させた。信頼があった場所には、どす黒い殺意だけが残った。
村の広場は、瞬く間に闘技場と化した。 生涯の友として過ごしてきた二人の老人が、泥まみれになって互いの首を絞め合う。母親のスカートの裾を掴んでいた子供は、母親に睨まれると、恐怖に引きつって後ずさりした。母親の目は、我が子を見る目ではない。厄介な荷物を見るような、軽蔑の眼差しだった。
肉を捌いていた包丁が虚空を斬る。羊を追っていた樫の木の杖は、隣人の頭蓋を目掛けて振り下ろされた。
「死ね! みんな死んでしまえ!」
赤く充血した瞳の群れに、平和の欠片などどこにもない。ただ、溜め込んでいた、腐り落ちた傷口が弾け飛び、互いの喉笛を食い破っているだけだった。
「伝染病が流行った時……俺の家のドアを叩くんじゃなかったな! この汚らわしい連中め!」
鋤を振り回す男の口から、汚い唾が飛び散った。
いつの間にか、灰褐色の馬は黒い甲冑を纏った本来の姿へと戻っていた。
彼は黒いマントを翻して鞍に跨る。その手の中から再び黒い煙が立ち昇り、セルファルクが現れた。
「コルディウムの痕跡消失により、追跡者は使用不可。イヒョンの痕跡は北、コランへ向かった模様」
セルファルクは炎の揺らめく空を切り裂いて飛び去った。セルカインは手綱を引き、車輪の痕跡を追い始めた。
その轍は、都市へと続く街道に繋がっていた。
砂埃にまみれて、丸三日。 傾きかけた午後の日差しが、イヒョンのまつ毛に滲む汗を刺す。
うねる坂道の果て、視界がパッと開ける。ついに『コラン(Collan)』がその威容を現した。
それは都市というより、巨大な山峰のようだった。 丘の稜線に沿って層を成す建物群。その中心には、灰白色の尖塔が猛獣の牙のごとく突き出し、日光を弾いている。目が眩むような白の饗宴だ。
城壁を前にして、イヒョンは思わず生唾を飲み込んだ。
「これが……城壁だって?」
首を九十度に曲げなければ頂上が見えないほどの高さ。カミソリ一枚通さないほど密に噛み合った巨石が、息詰まるような威圧感を放っている。
その鉄壁の城門には、翼ある獅子と天秤が刻まれていた。石造りの獅子の瞳は、門をくぐる者の罪を秤にかけるかのように、冷ややかに見下ろしている。
だが、その威圧感も束の間。城門の内側から噴き出す熱気が一行を包み込んだ。
砂利道を削る荷馬車の音、商人の怒号にも似た掛け声、弾けるような子供たちの笑い声。 死の静寂に沈んだあの村とは対照的な、目眩がするほどの生命力が、そこには波のように押し寄せていた。
その光景を前にしたエレンは、目を丸くして言葉を失っていたが、やがて感嘆の声を上げた。
「見て見て! あれ……あれ全部お家なの?」
エレンは大事にしていた小さな鞄も放り出し、荷車を引くイヒョンの背中をトントンと叩く。
「城壁がお山みたいに高いよ。あそこの人たち……あの模様は何? ほら、門の上に描いてあるやつ!」
セイラが微笑んで答える。
「あれはコランの紋章よ。この地域を治める家門の象徴が、翼のあるライオンなの。だからライオンの絵があるのよ」
「城門があんなに大きいのにも理由があるの?」
「コランは商業が盛んな街なの。エフェリア西部の交通の要衝で、馬や馬車がたくさん出入りするから、城門も大きいのよ」
「ヨウショウ?」
「とても重要な場所、っていう意味」
矢継ぎ早なエレンの質問にも、セイラは嫌な顔一つせず丁寧に答えていく。前で黙々と荷車を引いていたイヒョンは、内心その忍耐強さに舌を巻いた。
「わぁ……すっごく大きくて、いっぱいある。こんなの初めて見た」
エレンは感嘆しきりでキョロキョロと辺りを見回している。まるで新しい世界に飛び込んだかのように、瞳をキラキラさせていた。
イヒョンはそんなエレンを見て、ふっと笑みをこぼした。こうしていると、エレンはどこにでもいる普通の子供と変わらない。
「ずいぶんと賑やかな場所ですね」
イヒョンは低く呟き、セイラを見やった。
「この地域では一番大きな都市ですから」
「近隣の村からはみんなここに来て物を売り買いするんです。神殿を訪ねたり、移住しようとする人も多いんですよ。私もついこの間まで、ここで行政の補助をしてましたし」
だが、街の活気とは裏腹に、イヒョンの表情は優れなかった。 村で手に入れた物資は底をつく寸前、手持ちの金など一銭もないからだ。
「当面はここに滞在して、稼ぐ方法を見つけないとですね」
リセラを振り返るイヒョンの顔には、申し訳なさが滲んでいた。
「宿も取らなきゃいけないし、食料も蓄えないと……。リセラさんの故郷まで行くなら、準備は万全にしておかないと駄目だ。『ラティベルナ』までどれくらい掛かるか、見当もつきませんから」
一行は雨風をしのげる宿を探し、街の中心街へと向かった。 かなり大きな都市だからか、通りは人々でごった返していた。砂埃を被った旅人や行商人があちこちでたむろして話し込み、商人たちの威勢のいい掛け声が路地を埋め尽くしている。
瑞々(みずみず)しい果物が山積みになった果物屋、香ばしい匂いを漂わせるパン屋、槌音が響く鍛冶屋が軒を連ね、裏路地へと続く道には荷車が所狭しと並んでいた。
飲食店も多く、どこからか漂う焼きたての肉の匂いが鼻腔をくすぐる。 商店街を抜けると、都市の心臓部へと続く広い大通りが現れた。
城門から続くその大通りに沿って広場に出ると、純白の優美な建物がイヒョンの目を奪った。
「あそこ……あの建物、見えますか?」
イヒョンの言葉に、リセラとセイラも視線を向ける。
都市の中心、大通りの一等地に、白大理石の柱で支えられた巨大な建造物がその威容を誇っていた。 建物を支える太い柱には精巧な彫刻が施され、その上には巨大なドーム型の屋根が鎮座している。
『まるで、地球の国会議事堂だな……』
滑らかなドームの側面には、透明な原石がびっしりと嵌め込まれていた。 陽の光が原石を掠めるたび、砕けた星屑のような五色の光の欠片が神殿の前庭へと降り注ぐ。足を踏み入れるだけで浄化されそうな、息をのむほどの神聖さだった。
その圧倒的な風景の中で、イヒョンの視線を捕らえたのは、入り口の両脇に垂れ下がる長い旗だった。 風が吹くたび、巨大な白絹がゆったりと波打つ。そこには赤い糸で緻密に刺繍された、心臓を包み込む手の形が鮮明に浮かび上がっていた。その背後に広がる金色の太陽の紋章は、光を受けるたびに本物の炎のように揺らめいて見えた。
「随分と雄大な建物ですね」
「治癒の神殿よ」
セイラが神殿を見上げながら言った。
「あの旗は、治癒の神殿を象徴する紋章ですよね?」
「あれは愛の神『アモリス様』を象徴する旗なの。ほとんどの治癒神殿は、アモリス様を祀っている場合が多いから」
「治癒の神殿で、他の神様を祀ることもあるんですか?」
「ええ。たまにガデサ様やトリスティエル様を祀る場所もあるけれど、基本的にはアモリス様ね」
優雅な神殿の外観とは裏腹に、入り口には少なくとも数十人の人々が長蛇の列を作っていた。列は神殿の入り口から始まり、長く尾を引いて、曲がり角の向こうまで続いている。
「どうしてあんなに並んでるんです?」
イヒョンの問いに、リセラが少し悲しげな表情で答えた。
「治癒の神官様が足りないの。儀式一つに結構時間が掛かるし……順番を待っている間に病気が悪化してしまうことも多いわ。儀式を受けられればまだ幸運な方よ。待ちくたびれて、そのまま亡くなる人だっているもの」
「治癒を受けるにも、金が必要なんでしょうね」
イヒョンが苦々しく尋ねた。
「そうね……。お金持ちは高額な寄付金を払って、神官様を家に呼んで治療を受けたりもするわ」
リセラが俯きながら付け加えた。
「だから、一般庶民の列は余計に長くなるのよ」
列の最後尾あたり。古ぼけた板の上に横たわる男が、イヒョンの目に入った。 全身は血と泥で汚れ、布でぐるぐる巻きにされた左足からは、絶えず赤黒い血が滲み出していた。
その傍らでは、悲痛な面持ちの女が男の脂汗をハンカチで拭いながら、とめどなく涙をこぼしていた。隣には、仲間か友人と思しき男が膝をつき、祈るように手を握りしめ、何事か呟いている。
転がっている弓や矢筒、へし折れた槍の柄が、ことの次第を物語っていた。
「怪我人のようですね。傷は深いかもしれません」
イヒョンは淡々とした表情で、荷馬車をゆっくりと進めた。
「狩人のようだけど……顔色がひどく悪いわ」
リセラが小さく囁く。
男は荒い息を吐き、ぐったりと力なく横たわっている。この長い列を待ち、治癒の儀式を受けるまで──果たして、命が持つかどうか。
その時、セイラがおずおずとイヒョンを見上げた。
「ルメンティア。あの人……助けてあげるべきではないでしょうか?」
イヒョンは答えなかった。今の彼に、そんな余裕などあるはずもない。陽はすでに傾きかけている。今夜の宿も、食い扶持さえも確保できていないのだ。一刻も早く仕事を見つけ、金を作らねばならないという焦りで頭がいっぱいだった。
今ここで負傷者に関わるということは、今夜、街のド真ん中で野宿確定を意味する。旅の途中に森で野営するのと、治安の知れない街角で眠るのとでは、危険度が段違いだ。
リセラもその厳しい現実を理解しているからこそ、暗い顔で押し黙る。エレンは急に重苦しくなった空気を察し、大人たちの顔を交互に窺っていた。
「僕たちはまだ、今夜眠る場所さえ決まっていないんです」
イヒョンが慎重に言葉を選んだ。
「食料だって……」
その言葉にセイラは一瞬たじろいだが、すぐに決意を秘めた瞳で胸に手を当てた。
「私……私のルメンティアは……そんな方ではないと信じています。私たちを見捨てなかったあのお姿、私は死ぬまで忘れません」
彼女はソ・イヒョンの返事も待たず、荷馬車から飛び降りると、板の上に寝かされた狩人のもとへ駆け出した。ソ・イヒョンは慌てて馬車を止める。
「大丈夫ですか!? 私たちが手当てします!」
彼女は狩人の容体を確認すると、仲間に短く声をかけ、即座に応急処置に入った。腰のポーチから小瓶を取り出し、傷口を消毒していたセイラが、切迫した様子でソ・イヒョンを振り返り叫ぶ。
「ルメンティア! 出血がひどすぎます。全身が火のように熱いんです!」
セイラが広場中に響き渡るほどの声で『ルメンティア』と叫んだせいで、列に並んでいた人々はおろか、通りすがりの通行人の視線までもが、一斉にイヒョンたちに突き刺さった。
彼女の声はあまりにも大きく、その響きは明瞭すぎた。
無理もない。『ルメンティア』とは『光の導き手』を意味する言葉。エフェリアにおいては、尊敬を集める高位聖職者や戦争の英雄、あるいは徳の高い領主に対してのみ許される、最高級の尊称なのだから。
「あー……あー……はぁ……」
イヒョンは困り果てた顔で、深く長い溜息をついた。
降り注ぐ視線は痛いほど重いが、もはや選択の余地はない。イヒョンは観念して荷馬車から医療鞄をひっつかむと、患者が横たわる板の上へバタバタと駆け寄った。
彼はセイラに鞄を預け、患者の状態を素早くスキャンする。
「ち、血が止まらないんです。呼吸もすごく弱くて……」
「鞄の内ポケットに圧迫包帯がある。出してくれ。まずは止血だ」
患者が視界に入った瞬間、イヒョンの中から先ほどまでの迷いは消え失せた。そこにあるのはただ、眼前の命を救うという意思のみ。
彼は機械的とも言える迅速な手つきで、男の脚に雑に巻かれていた布を解いた。
数多の群衆の視線、祈るような女の涙、そして仲間の狩人の不安げな眼差し。その中心で、イヒョンは重い責任とプレッシャーを同時に感じていた。だが、その重圧こそが自身の内側に眠っていた慈愛と憐憫の感情を呼び覚ましていることに──彼はまだ、気づいていなかった。
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