15. セルカイン
先ほどまで、漆黒の魔甲を纏い、大地を蹂躙せんばかりに疾走していた気配は、影も形もなかった。
奴の愛馬は、艶など見る影もなく、土埃で白茶けた灰褐色の毛が荒々しく逆立っている。 事あるごとに荒々しく鼻息を噴き出していた鼻面は力なく垂れ下がり、ゆっくりと瞬きをする瞳は、今にも眠りこけそうなほど大人しく見えた。
馬の背には、使い古されて擦り切れた革袋が一つ、寂しげに揺れている。 その横を歩くセルカインの肩にも、色褪せた茶色のマントが無造作に引っ掛けられていた。
彼は汗で濡れた亜麻色の髪を、武骨な手つきで掻き上げる。 炎天下の日差しに焼けた銅色の肌と、不精に伸びた髭は、どこからどう見ても田舎の青年のそれだった。
セルカインが荷物を背負い直そうと手を伸ばす。 掌と指の節々には、長年手綱やロープを扱ってできたであろう黄色いタコが、木の節のように硬く張り付いている。 貴族の剣を握る手というよりは、路傍の土の匂いが染み付いた、労働者の手だった。
徹底した偽善と、欺瞞だった。
彼はまず、村の広場の一角にある雑貨屋へと向かった。 かなり年季の入った小さな看板が、少し傾いて掲げられている。
古びた木の扉を押すと、奥から鈍い真鍮の鈴が『カランコロン』と鳴った。
セルカインが入ると、カウンターに座っていた初老の主人が顔を上げ、声をかけてきた。
「いらっしゃい。旅の方かね?」
「ええ、まあそんなところです」
セルカインは人の良さそうな笑みを浮かべて答えた。
「近くの都市まで行くのに、まだ数日はかかりそうでして。馬の飼い葉と乾パン、塩、干し肉……あ、それと香辛料なんかがあれば助かるんですが」
主人は頷き、注文された品物を一つずつ棚から取り出し、カウンターの上に並べ始めた。
「水は、要らんのかね?」
「水ですか? ここでは水も売っているんですか?」
「フォフォフォ、水を売るわけじゃないがね。この村じゃあ今、水も『浄化』して飲むのが習わしなんだよ」
「水を、浄化? 初耳ですね」
「最近は水にも気をつけんとならん。伝染病が一通り暴れ回った後だから、まだ心配する連中が多いんじゃよ」
「そうなんですか? 見たところ、そんな疫病が流行っていたようには見えませんが」
セルカインは何も知らない風を装い、巧みに問い返した。
「いやぁ、参ったよ」
雑貨屋の主人は、退屈を紛らわせるかのように、堰を切ったように話し始めた。
「酷いもんだった。本当に地獄を見るようだったよ。皆、上から下まで垂れ流して、バタバタと倒れていきおって……。大人も子供も関係なく死んでいった。気の毒な話だが、この村で家族を亡くさなかった家はないくらいさ。本当に、この村もおしまいかと思ったよ。 ……ところがだ。若い男と女、それに小さな子供の三人組が現れてな。村の井戸水が原因だと言って、決して触らせようとしなかった。最初はワシらも信じちゃいなかったんだが、その若者が『水を沸かせ』だの、『服は灰汁で煮ろ』だの、『手を洗え』だの……まあ、色々と注文をつけてきてな」
主人の話を聞くセルカインの瞳の奥で、一瞬、鋭い光が走った。
「そしたら、驚いたことに! その通りにしたら、嘘みたいに病が消えちまったんだ。病人を集めて治療するその姿ときたら、まるでアモリス様が遣わした『神の使徒』のようだったよ」
「……へえ、それは興味深いですね」
セルカインは笑顔で品物を受け取りながら、何食わぬ顔で付け加えた。
「そんな凄い方がいらっしゃったとは。その方のお名前をご存じですか? もし道中で会えたら、旅の無事を祈ってもらおうかと思いまして」
「若い男の名は、確か『イヒョン』と言ったな。口数は少なくて静かな奴だったが、随分と頭の切れる若者だった。治癒の魔法でもないのに、何か不思議な方法を使って、『浄化法』というのを教えてくれたんだ」
『浄化法? 神官が行う浄化の儀式ではないはずだが』
セルカインは一瞬、瞬きをした。 予想だにしなかった単語に、内面が大きく波打つ。 だが、彼は瞬時に平然とした仮面を被り直し、人好きのする笑みを浮かべて問い返した。
「浄化法……とおっしゃいましたか?」
その声には、適度な好奇心と驚きが混ざり合っていた。
『浄化だと? 抽出されたコルディウムの結晶による疫病を、たかが神官風情が浄化できるはずがない』
「ええ、詳しいことは分かりませんがね。いやはや、あの方のやり方が通じたんですよ。フォフォフォ。手遅れで亡くなった方もいますが、助かった人の数に比べれば……。今じゃ村人全員が、イヒョンさんを命の恩人だと崇めているくらいですわ。ハハハ」
セルカインは人の好さそうな顔で頷いた。
「それは本当に、素晴らしい方ですね。……お会計をお願いします」
「へい。えーっと、パンとオートミールの菓子、干し肉、塩、それから香辛料……。締めて六二ペラになります」
代金を支払い、雑貨屋を後にした彼は、足早に酒場へと向かった。
酒場の中は落ち着いており、温かな空気が漂っていた。 内部は小奇麗に整頓され、一階の暖炉ではパチパチと薪が燃えている。
彼は一泊分の宿代と食事を注文した。前払いで四二ペラを支払い、主人が案内してくれたテーブルに腰を下ろす。 食卓には水の入った素焼きの壺が置かれ、すぐに温かく素朴な食事が運ばれてきた。
だが、セルカインの視線を奪ったのは料理ではなかった。
客といえば村の住民か、コランへ向かう商人、あるいは旅人がたまに立ち寄る程度の田舎の酒場にしては――内部が『異様なほど』清潔だったからだ。
彼は食器をつぶさに観察した。
金属のスプーンとフォーク、木を削って作ったカップは、水垢一つなく完璧に乾燥しており、器もまた塵一つなく磨き上げられている。 スープ皿の縁には汚れの拭き残しさえなく、テーブルは木目の隙間まで磨かれ、艶光りしていた。
素焼きの壺の表面には、沸かしたての湯を冷ましたかのように、じわりと露が結んでいる。 テーブルの隅に置かれた畳まれた手拭いさえも、煮沸されたかのように白く、清潔だった。
この徹底された清潔さは、セルカインにとってさえ馴染みのない、奇妙なほど厳格な方式だった。
セルカインは静かに息を吸い込んだ。 周囲の人々に悟られぬよう、隠密に『コルディウム』の痕跡を追い始める。
だがそこには、かつて自分たちが散布した結晶化コルディウムの微かな残滓だけが漂っており、それ以外の力の痕跡は一切感じられなかった。
『痕跡がない。その『ソ・イヒョン』という者が使った浄化法……コルディウムを用いた異能ではないことは確かだな』
見た目は田舎の青年に偽装していたが、彼が見聞きし、判断したすべての情報は、脳内の石板に漏らさず記録されていた。
食事を終えたセルカインは、酒場の内部をゆっくりと見渡し始めた。 そして、壁際に置かれた『奇妙な物体』で視線を止めた。
無骨な釜のような金属の筒が三つ、縦に連結されており、その上には細い管が曲がりくねって水桶へと繋がっている。
まるで誰かが、古びた鍋を継ぎ接ぎして作った粗悪な玩具のように見えたが、セルカインは一目で、それが特定の物質を抽出するための『精製装置』であることを見抜いた。
彼は主人を呼び、控えめに尋ねた。
「あの……あれは何ですか? 生まれて初めて見る道具ですが」
主人は誇らしげな笑みを浮かべて答えた。
「ああ、あれのことですか? 先日、この村を救ってくださったイヒョン様が、直々に作ってくださった物です。葡萄酒を煮て『浄化水』を作る装置なんですが、理屈はよく分かりません。ですがお陰様で、病人は劇的に減りました。傷口に塗れば膿むこともなく治りますしね。最初は皆、出鱈目だと信じちゃいませんでしたが、今じゃ誰も馬鹿にする奴はいませんよ。治癒の神官様がいらないくらいですから」
『こんな粗雑な道具と浄化水が、奴の行った浄化の正体か』
イヒョンの痕跡は、村の至る所に根付いていた。 そしてその痕跡こそが、ノクトリルの実験が、イヒョンの主張する『浄化』によって徹底的に失敗したという、動かぬ証拠だった。
『これは単なる実験の失敗ではない。奴は、インテルヌムにとって巨大な脅威となり得る』
長きにわたり情報を収集し、分析を重ねてきたセルカインは、ソ・イヒョンという男を『確実な危険因子』に分類せざるを得なかった。
インテルヌムが抽出したコルディウム、そしてこの村に散布された絶望の結晶体。 いかなる神官といえど解決できぬ強力な生物兵器だと確信していたが、たった一人の異邦人によって、こうも呆気なく無力化されるとは。
いくら実験段階とはいえ、あのような取るに足らない道具で計画を阻止されたという事実に、セルカインは警戒を強めた。
彼は席を立ち、主人が割り当ててくれた二階の客室へと向かった。
古びた酒場の客室もまた、驚くべきものだった。
窓の隙間から差し込む夕日が、テーブルと棚を淡く照らしている。 木枠に干し草を詰め、清潔な布を被せただけの簡素なベッドからは、どこの宿でも鼻をつくあの特有のカビ臭さが、一切しないのだ。
床には靴の泥を落とすための分厚い布切れが敷かれ、部屋の隅には水桶と洗面器を備えた簡易洗面台が、整然と配置されている。
『驚きの連続だ。この村の至る所に、あの浄化とかいう痕跡が残っている。それに、コルディウムの気配が全く感じられないのが、さらに不気味だ』
セルカインは窓辺に立ち、掌を天井に向けたまま目を閉じ、低く詠唱した。
「 Voca Serphalque.(ヴォカ・セルファルク)」
『セルファルク召喚』
セルカインが広げた何もない掌の上で、周囲の空気が一瞬にして凍りつき、漆黒の煙がとぐろを巻いて音もなく立ち上った。 煙の柱はまるで生きている心臓のように不規則な収縮と膨張を繰り返し、やがて粘り気のある重たい質感を持った実体へと凝縮されていく。
それは、異質なものを無理やり繋ぎ合わせたような、奇怪な形状をしていた。
滑らかな鱗に覆われた長い蛇の胴体が、虚空でしなやかにとぐろを巻く。 その両脇に広がるのは翼だったが、羽毛は一枚たりともない。 羽ばたくたびに、黒鉛を削ったような微細な黒い粉が、煌めきながら雪のように舞い散る。
胴体の先端についているのは、猛禽の嘴ではなく、鋭利な蛇の頭だった。 その頂点で、炯々(けいけい)とした紫電のような閃光が二つの瞳となり、闇の中で不気味に明滅した。
完全な形態を整えた『セルファルク』が、黒い粉を撒き散らしながら緩やかに翼を揺らす。 冷たい冷気を漂わせながら、主人の手の甲に音もなく舞い降りた。
セルカインはセルファルクに囁くように口を開いた。 まるで闇そのものに秘密を打ち明けるように、静かで低い声音で自身のメッセージを吹き込む。
「ソ・イヒョン。彼は実験対象の村を『浄化』という手法で、コルディウムの干渉を無力化。実験は失敗。対象は危険因子と判断される」
彼の囁きが怪生物に触れると、セルファルクの体が細かく震え、メッセージを吸収していった。
【セルファルク】
セルカインが創り出した伝令。
当初は単に彼の研究記録のために開発された実験体だったが、伝令としての効率性と隠密性が立証され、現在ではインテルヌム全体で使用されている使い魔だ。
セルカインは彼が見て、聞いて、感じたすべての情報をセルファルクに注入した。 情報をすべて飲み込んだセルファルクは、空中で身をよじって浮かび上がると、そのまま壁をすり抜けて姿を消した。
奴は空を切り裂き、禁じられた地、インテルヌムの城塞へ向かって一直線に飛んでいった。
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しばらくして。 セルファルクはインテルヌム城塞の深部、アズレムの部屋へと到達した。
セルファルクの気配を感じたアズレムは、執務机からゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめた。 固く閉ざされた窓を音もなくすり抜けて入ってきたセルファルクは、数回翼を羽ばたかせると、窓辺にある金属製の止まり木に、蛇のように絡みついて止まった。
アズレムの前に到着したセルファルクは、彼に向かってゆっくりと首を巡らせた。 奴の紫色の瞳が淡く発光し始めると、そこからセルカインの声が再生される。
無言で報告を聞き終えたアズレムは、すぐに部屋を出て、ベルダクのもとへと向かった。
巨大なホールの中、ベルダクは無数の書物に囲まれていた。 その一部は重力を無視して宙に浮き、自らページをめくっている。
ベルダクは、足早に入室してきたアズレムを見下ろした。
「成果はあったか?」
「はっ、ベルダク様。しかし、私の予想とは少々異なる報告が上がってまいりましたので、急ぎ参上いたしました」
「ほう?」
ベルダクの重厚な声が、石造りの壁に反響する。
「対象は、我々が進行中の『結晶によるコルディウム拡散実験』を無力化させたとのことです。その手法は、既存のいかなる魔法体系とも異なるものでした。水を煮沸し、手を洗い、食器や物品を拭き清めるなどの行為……それらは、感情汚染の根源までも希釈させる効果を見せたようです」
「ふむ。アズレム、お前の見立てはどうだ?」
アズレムは主君の問いに少し考え込み、慎重に口を開いた。
「セルカインの報告に、間違いがあった試しは一度もございません。ですが、報告の内容をすべて鵜呑みにするには……あまりにも常識外れです」
ベルダクは、恭しく頭を下げるアズレムを忍耐強く見つめた。
「ソ・イヒョン……その者が持つ力がどの程度なのか、現時点では正確に測りかねます。しかし、奴が行っている『浄化』なる行為は、この世界のコルディウムの秩序そのものを崩壊させかねない――それほどまでに、危険であると愚考いたします」
アズレムの言葉に、ベルダクはしばし沈黙した。
やがて、彼は空中に指を走らせた。 まるで虚空に文字を刻むような仕草だった。
「Perpetua record. (ペルペトゥア・レコード)」
『永遠の記録』
彼が指でなぞった空間に、別次元へと繋がる亀裂が走り、そこから一冊の書物がゆっくりと吐き出される。
ベルダクは指先一つ触れず、宙に浮くページをパラパラとめくらせた。
「ふむ……」
数ページほど目を通したベルダクが、厳かに口を開く。
「ある程度予想はしていたが、想定以上だな。だが……」
ベルダクは何かを言いかけて止め、アズレムに命を下した。
「セルカインの報告に不可解な点があるとはいえ、尋常ならざる事態であることに変わりはない。我らの計画の助けになるかもしれん。必ず生け捕りにしろ。……だが、必要とあらば、排除しても構わん」
彼の声は、空間全体を震わせる轟音の如く、深く重く響き渡った。
「実験に失敗した村は、如何いたしましょうか?」
「奴が残した浄化法とやらが広まっては面倒だ。……消せ」
「御意」
自室に戻ったアズレムの脳裏に、『古の門を開きし者たち』に関する伝説が過った。
だが、彼はすぐに首を横に振った。 それは単なる御伽噺に過ぎない、そう自分に言い聞かせて。
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窓枠に舞い降りたセルファルクが伝えてきた、背筋も凍るような戦慄。 それに呼応するように、セルカインのカッ! と目を見開いた。 彼は迷いなく寝台から身を起こす。
外に出ると、ちょうど赤い太陽が地平線を引き裂くように昇り、青白い黎明の残滓を払拭しようとしていた。
「キャハハッ!」
路地の向こうからは、早起きした子供たちの駆け回る音が、小鳥のさえずりのように弾けていた。 煙突ごとに立ち上る白い煙は朝霧と混じり合って溶け、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、薪の燃える懐かしい香りが、鼻先を温かく包み込む。 これ以上ないほどに、生気に満ち溢れた朝だった。
セルカインは、その平和な風景を土足で踏み荒らすように横切り、村の広場の中央に立った。 彼は肺の奥深くまで生命の気に満ちた空気を吸い込むと、ゆっくりと虚空へ手を伸ばした。
「Miratellum.(ミラテルム)」
「絶望の幕開け』
低く詠唱された呪文が唇を離れた瞬間。 彼の足元から、黒い影がタールのように粘り気を帯びて噴き出した。 闇は瞬く間に彼の体を這い上がり、燦然と輝く朝の光を貪り食い始めた。
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