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フェラズの報告が終わっても、バラクソルは暫くの間、無言で地図を見下ろしていた。


やがて彼はゆっくりと視線を上げ、彼女を射抜く。 深き湖のように静謐せいひつな瞳。だがその水面下では、すでに荒れ狂う嵐が渦巻いていた。


沈黙を破り、フェラズが報告を継ぐ。


「アチェラ北門の戦線は……事実上、壊滅しました。モルカインが狂乱し撤退機を逃したことも大きいですが、敵の先鋒──あの『赤髪の騎士』が見せた武力は、常識を逸脱しています。何より、敵の規模が事前情報を遥かに上回っています」


バラクソルの眉間に、深い渓谷のようなしわが刻まれる。


「カルボリアから援軍が来るはずはないのだが……」


「まるで空から降ってきたかのような軍勢でした。被害規模は……ヘクサールの当初の予想の二倍以上でしょう。本隊兵力の大多数を失ったものと思われます」


彼女はバラクソルの強張った表情を慎重にうかがう。 表には出さずとも、内から立ち昇る圧倒的な憤怒が、肌を刺すほどに伝わってくる。


天幕の隙間から忍び込む夜風に松明たいまつが揺らぎ、長く伸びた影が室内の空気をさらに冷たく凍てつかせた。


バラクソルは卓上に身を乗り出し、組んだ手の上に顎を乗せる。 巨岩のような威圧感がフェラズにのしかかる。


「詳しく話せ。その正体不明の援軍について……掴んだのはそれだけか?」


重厚な問いかけに、フェラズは首を横に振り、低く答える。


「申し開きもございません。モルカインの状態があまりに危篤きとくで、追加偵察を断念し、急ぎ帰還せざるを得ませんでした。ただ、敵将の剣技が非凡の域を超えていた点、そしてその軍がアチェラ正規軍を凌駕りょうがする数と練度を誇っていた点だけは、確実です」


フェラズは声を潜め、付け加える。


「出過ぎた進言ですが、敵の戦力が明白になるまで、本隊を後退させるのが賢明かと存じます。今、下手に動けば、より大きな災いを招きかねません」


天幕の空気が鉛のように重く沈んだその時、バラクソルは卓から体を起こし、視線を虚空へと投げた。


「ヘクサールが生きて戻れば、奴の口から直接聞いて判断する。それと、モルカインが正気を取り戻したら……あの馬鹿も私の前へ引きずり出せ」


彼の視線がフェラズを掠めて遠ざかる。瞳の奥で渦巻く感情の波が、松明の光に照らされ、かすかに揺らめいていた。 フェラズは静かに頷き、後ずさる。


御意ギョイ。あの熊男が目を覚まし次第、直ちに報告いたします」


「ご苦労だった、フェラズ。待機していろ」


「はっ」


重苦しい空気が充満する指揮幕舎を後にすると、冷たい夜気がフェラズの頬を撫でた。 頭上では、無関心な星々だけが、彼女の疲れた背中を銀色に照らしていた。


------


一方、アチェラはクラベントゥスの群れを追い払った熱気で、天を衝くほどの高揚感に包まれていた。


数多の兵が命を落とし、傷を負ったが、敵を退けたことは紛れもない事実。 アチェラとヴァセテロンの戦士たちは、北門からの再侵攻を防ぐべく、バリケードの構築を急いでいた。その手つきは風のように素早く、疲労困憊ひろうこんぱいの肉体の中に、確かな「勝利の炎」が燃え上がっていた。


カシアンは、敵を城壁の外へ押し出した勝利の余韻を胸に刻み、兵士たちの護衛を受けながら堂々と王宮へと歩を進めた。 その威風堂々たる姿は、まさしく凱旋がいせんする英雄そのものだった。


アチェラ宮殿の内部──そこは、幻想の世界だった。


高いガラスのドームから銀色の月光が降り注ぎ、壁面を這う精巧な銀のつたは、今にも花開かんばかりに生き生きと伸びている。 まるで妖精の森の奥深くに座す聖域のように、空間全体が「常春とこはる」の息吹をはらんでいた。


アチェラ最高峰の職人たちが魂を削って彫り上げた柱には、宝石の紋様が燦然さんぜんと輝く。 充満する柔らかな光彩は、滑らかな大理石の床に降り注ぎ、優しく揺らめく。その光の帯は、足元に星の川が流れているかのように、宮殿全体を神秘の霧で包み込んでいた。


作戦室には、戦場の残り香と共に、張り詰めた緊張感が漂っていた。 溶岩が煮えたぎる火山の内部のように、そこは未だ熱い熱気を孕んでいる。


壁沿いの松明たいまつが踊るように揺らめき、長卓の上に広げられた地図と駒の影が、壁面で奇妙な舞踏を演じていた。


重厚な扉が開かれ、カシアンが姿を現した瞬間──。 室内から爆発した歓声は、山脈を揺るがす雷鳴のごとく轟いた。


「「「ウオオオオオオオッ!!」」」


その音は壁を震わせ、熱狂的な拍手と共に空間を埋め尽くす。勝利の波が海岸を洗うように、その熱気が全ての者をとりこにした。


兜を小脇に抱えたカシアン・エセンビアは、草原を統べる獅子のように勇壮だった。 嵐のような歓呼を受け、カシアンの口元に薄い笑みが広がる。それは雲間から射す陽光のように、周囲を明るく照らし出した。


長卓の端に立っていたヴァレリウス・アルゲントールは、入室したカシアンを見て満面の笑みを浮かべた。その眼差しは、見知らぬ将ではなく、旧友を迎えるかのように温かい。


カシアンがうやうやしく片膝をつき、礼をとる。


「ヴァレリウス・アルゲントール伯爵閣下にご挨拶申し上げます。カシアン・エセンビアと申します」


ヴァレリウスは破顔し、力強く応えた。


「おお! 君がカシアン総司令官か。セリアナから話は聞いているよ」


ヴァレリウスは跪くカシアンを見下ろし、手を差し伸べる。 春の微風そよかぜのように優しくカシアンの肩を抱き、自らの手で彼を立たせると、行動を持って深い敬意と感謝を示した。


「エセンビア司令官。君の勇猛さは、アチェラに昇る『明けの明星』のように燦然さんぜんと輝いていた。この戦場で君が流した血と汗が、アチェラの民を守り抜いたのだ」


ヴァレリウスの声は深き河のように流麗で、目尻に浮かんだ涙が、その感謝の深さを物語っていた。 彼がカシアンの手を固く握りしめる。その力強く温かい握手は、二人の英雄の結束を証明するしるしのようだった。


「君のような勇士が我らの傍にいてくれて、本当によかった」


その傍らには、セリアナがたたずんでいた。 彼女を包む『アイギス・フリジダ』は氷の結晶のように玲瓏れいろうと輝き、その高貴な姿を際立たせている。古代の女神が降臨したかのような存在感は、座中の視線を釘付けにしていた。


カシアンを見つめるセリアナの表情は、春の日の花園のように穏やかだった。 口元には慈愛の笑みが咲き、瞳に宿る温かな愛情がカシアンへと注がれる。


「カシアン……お前がここに立っているのを見ると、胸が熱くなるわ。お前が来なかった未来など……想像すらしたくない。一体どうやって危機を知り、ここまで駆けて来たの? その積もる話を聞かせておくれ」


彼女の声は朝露のように澄んでおり、その口調にはおいを案じる肉親の情が、母の懐のように深く滲んでいた。 安堵と歓喜が入り混じる瞳は、波のように揺らめきながらカシアンへの深い愛情を伝えている。


カシアンは顔を上げ、快活に笑って彼女を見つめ返した。 その屈託のない笑顔は、戦場の疲労さえ一瞬で忘れさせるほど、太陽のようにまぶしい。


「セリアナ叔母上おばうえ。積もる話は、夜を明かしても足りないでしょう。ですが、回顧に浸る前に──まずはすべきことがあります」


カシアンは身を翻し、ヴァレリウスを真摯な眼差しで見つめた。


「アルゲントール閣下。先にご紹介せねばならない方々がおります。──今日、この勝利をもたらした、真の主役たちです」


------


ヴァセテロンの海岸。


冬の間、内陸から吹き付け肌を刺した寒風はいつの間にか鳴りを潜め、代わって訪れた柔らかな薫風が、沖合できらめく海面みなもを優しく撫でていた。 紺碧の波が切り立った断崖の下で白く砕け散る様は、それだけで荘厳な光景だ。


港を要塞のごとく抱く巨大な石壁。 そこに朝日が斜めに射し込み、舞い散る飛沫しぶきを黄金色に染め上げる。その間を抜け、遠くから近づく商船の帆が風をはらんで膨らむ姿は、まるで神話の巨人たちの行進のように威風堂々としていた。


風が吹くたび、潮の香りと港特有の活気が混じり合い、鼻先を心地よくくすぐる。


早朝だというのに、ヴァセテロンの港は拡張工事の熱気で沸き返っていた。 堅牢な木材と鉄骨で補強された埠頭ふとうは、絶え間なく行き交う労働者たちの荒い息遣いと、大地を踏みしめる力強い影で溢れている。


そこには、エリセンドの天才的な設計が生んだ、口径250mmと150mmの怪物じみた巨砲が威容を誇っていた。


これらの新型砲には、旧来の原始的な導火線式ではなく、衝撃を利用した『撃発式点火装置』が導入されている。さらに、巨大な歯車とクランクを噛み合わせ、砲身の仰角と射角を精密に調整する最新鋭のギミックまで搭載されていた。


労働者たちは汗でびしょ濡れになったシャツをまくり上げ、太い綱を肩にかけ、肉重な砲台を引きずる作業に没頭している。


「おい! 気を抜くんじゃねぇ! 手を滑らせたら全員あの世行きだぞ! 呼吸を合わせろ!」


巨漢の男が砲台の台座を押し、首に青筋を立てて怒鳴る。 傍らにいた若い人足が、肩で息をしながらもニカっと笑って応じた。


兄貴アニキ。この大砲が敵船を粉砕するとこ想像するだけで、血がたぎりませんか? こないだの試射、凄かったっすよね。まだ耳がキーンとしてますよ」


巨漢の男は、木の台座から一瞬手を離し、豪快に笑った。


「おうよ。俺の人生で、あんな光景は初めてだったぜ。ドカン! と来た瞬間、鳥肌が立ったもんだ」


「でもこれ、城壁の上にも上げるって聞いたんすけど、マジっすか? こんな重いもん、どうやって?」


「さあな。詳しくは知らんが……『トレッドホイール・クレーン』を使うらしい。今俺たちが運んでるこいつだけで、重さは5万ポンド超えだ。……これを考えた奴も、造った奴も、頭のネジが飛んでるぜ(怪物だ)」


「トレッドホイール・クレーンでも、この重量に耐えられますかね? 想像しただけで肩が抜けそうだ」


「あんな化け物じみたモンを創り出す連中だ、何とかしちまうさ。ハハ、無駄口叩かず手を動かせ。こいつが完成すりゃ、俺たちの港は不沈要塞だ」


彼らの掛け声に合わせ、砲台がゆっくりと所定の位置へ収まる。 鎖が悲鳴を上げ、ズシンッという重い地響きと共に台座が固定される音が、港全体に重厚に木霊こだました。


兵士たちも加勢し、砲身を固定する巨大なボルトを締め上げながら、互いに決意に満ちた視線を交わす。 額に浮かぶ汗が太陽の下で輝く様は、まるで勝利を準備する戦士たちの厳粛な儀式のように見えた。


一方、エリセンド率いる工房では、昼夜を問わずハンマーと金属音が響き渡っていた。


彼女は作業台に埋もれるようにして、図面を修正し続けている。 すでにエセンビア伯爵の指示通り大砲は完成し、配備段階に入っているが、兵器の完成度を極限まで高めようとする彼女の執拗な熱意は、図面を片時も手放させなかった。


また、火薬の原料を生み出す『ニトロ・ベッド』は、管理人イヒョンの直接的な監督がなくとも、すでにシステムとして体系的に稼働し始めていた。


エセンビア伯爵の命で創設された砲兵司令部は、これら全ての工程を統括。 体系的な砲兵訓練と火薬製造、そして次世代砲の生産に拍車をかけている。


かくしてヴァセテロンは──迫りくる巨大な嵐に備え、静かに、しかし確実に牙をぎ澄ませていた。


久々の甘美な休息を得たイヒョンは、エリセンドの工房へと足を運んだ。


進捗しんちょくはどうですか?」


だが、研究に没頭していたエリセンドの耳には、イヒョンの声など届いていないようだった。 図面を睨みつけていた彼女が、突如として両手で髪を掻きむしり、奇声を上げた。


「うわあああああっ!!」


背後で見守っていたイヒョンは仰天し、慌てて彼女に駆け寄る。


「な、何か問題でも!?」


「あ! びっくりした……君か」


「驚いたのはこっちですよ。急に頭を掻きむしるから、どこか発作でも起きたのかと思いました」


「アハハハ。見られちゃった? こりゃ参ったね、恥ずかしいところを」


エリセンドはバツが悪そうに笑い、ボサボサになった髪を適当にかき上げた。 イヒョンは苦笑しながら、作業台の傍らにある椅子に腰を下ろした。


「一体どんな難題があって、天下のエリセンド様がそれほど苦しんでいるのですか? 伯爵様からの依頼は、すでに完遂したはずでしょう」


「ああ、そうさ。アレはもう終わった。納品も問題ないし、性能も完璧だ。だがね……」


「だが?」


エリセンドは深いため息をつき、椅子の背もたれにドサリと身を預けた。


「全て素晴らしい。本当に気に入ってるよ。大砲の威力も、火薬の爆発力もね。……だけどさ、あの『装薬そうやく』と『砲弾』を別々に入れなきゃならないのが、どうもかんに障るんだ。保管も面倒だし、緊急時に装薬の量を間違えるリスクもある。これを残したまま、果たして『完璧』に終わったと言えるかい? モヤモヤして死にそうなんだよ」


イヒョンはブツブツと不満を漏らす彼女を見て、内心で感嘆していた。


彼女は本能的に、兵器開発の次なる段階──『薬莢やっきょう』を渇望しているのだ。 装薬と弾丸を一つに統合した『一体型弾薬』。 それを実現するには、大砲の設計思想そのものを覆さなければならない。導火線に火をつける旧時代的な方式ではなく、撃針げきしん雷管らいかんを叩き、薬莢内の火薬を爆発させる構造が必要だからだ。


「先日お話しされていたアイデアですね。砲弾と火薬を一つにまとめたい、という」


「イヒョン、覚えていてくれたのかい?」


「ええ、もちろんです。実は……その構造に対する概念なら、私も大まかには知っています。実際の設計として具現化するのは貴方の領分でしょうが、作動原理なら説明できますよ」


イヒョンの言葉に、エリセンドの目が皿のように丸くなった。 死にかけていた彼女の瞳孔が、瞬く間に好奇心と興奮でギラギラと輝き始める。


「本当か!? 君が、その方法を知っていると?」


彼女が椅子ごとズズッと詰め寄り、イヒョンの袖をガシッと掴んだ。


「早く言ってくれ! もしかしたらそれが、私の詰まった脳みそを貫く鍵になるかもしれない。さあ、早くッ!」



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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