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139. フェラズ

フェラズの翼が空を切り裂き、天へと駆け上がる。 クラベントゥスの本陣から飛び立ったその影は、黒雲に紛れ、アチェラの北門めがけて矢のように飛翔した。


「今回が最後だぞ。あのクソ忌々しい野郎め」


一度や二度の話ではない。 モルカインが狂気の炎に焼かれ、理性を手放して暴走するたび、その首根っこを掴んで連れ戻すという退屈で厄介な任務は、決まって彼女の役回りだった。 フェラズは思わず眉をひそめ、奥歯を噛みしめる。


バラクソル様の厳命でなければ、あの狂犬が肉片となって散る様を見ても、眉一つ動かさなかっただろう。


胸の奥から湧き上がる苛立ちが、羽ばたきをより荒々しくさせる。だが、あるじの判断に狂いがないという事実が、余計に彼女の機嫌を損ねていた。


司令官の命は見えない鎖となり、翼を重く縛り付ける。 彼女は漏れ出しそうなため息を飲み込み、雲の上へと躍り出た。


巨大な翼が風を切ると、冷気が無数の羽根を撫で、耳元で不吉な予感を囁く。 高度が上がり、視界が一瞬にして遥か彼方まで開けた。


眼下には、血と土で描かれた巨大な地獄絵図が広がっていた。 兵士たちの悲鳴が、遠い幻聴のように鼓膜を震わせる。 大地に刻まれた傷跡のような暗い谷、崩れ落ちた城壁、山と積まれた死体、そしてその下を流れる血の河。 その混沌の全てが、鋭敏な鳥の視界に鮮明に焼き付く。


戦場を俯瞰ふかんするフェラズの瞳孔が、鋭く収縮した。


「あそこで……一体何が起きているというの?」


ヘクサールの伝令により、アチェラに援軍が到着したとのしらせは受けていた。だが、現実は予想を遥かに超えて粉々になっていた。


北門へ撤退するヘクサールの騎兵隊は、荒波に揉まれる小舟のように頼りない。残されたモルカインの部隊に至っては、すでに波に飲まれ砕け散る寸前だ。


剣戟の音、コルディウムの爆音。 アチェラの兵士たちと援軍は巨大な津波となり、クラベントゥスの兵を飲み込みつつあった。


フェラズは翼を滑らせ、高度を下げる。 尋常ならざる気配が、翼の先から伝わってきた。彼女は標的を探すべく、都市の心臓部へ鋭い視線を向ける。


モルカインの居場所を特定するのは、造作もなかった。


彼の大斧が暴風のように振るわれる軌跡。 それに抗い、黄金の閃光が花火のように炸裂する光景が、戦場の全てを圧していたからだ。


黒雲を纏った巨大なカラスの影は、悠然と旋回しながら、その混沌の中心を捕捉した。


巨躯きょくが大地を踏み砕き、前進する。 大気を引き裂かんばかりに振るわれる斧の軌跡。 モルカインはすでに狂気のとりことなり、万物を粉砕する『破壊の化身』へと変貌していた。


対するは、黄金の甲冑を纏う騎士。 太陽の如ききらめきを背負い、彼と対峙する。


「貴様のその狂気、ここで終わらせてやる」


騎士の声が響き渡り、戦場の空気をさらに重く押し潰した。


土煙舞う円形の空間。周囲を支配するのは、荒い息遣いのみ。 兵士たちが後ずさりして生まれた『沈黙の結界』の中、モルカインが巨大な双刃斧を振り上げた。


ドォォォォン……!


彼が斧を叩きつけるたび、大気は悲鳴を上げ、大地は地震のように亀裂を走らせる。


「死ねェェェッ!!」


人の声というよりは、飢えた獣の咆哮。 カシアンはその暴風のごとき軌道を、滑るように潜り抜ける。斧刃が剣身を斜めに滑るたび、黄色い火花が残像を焼き付けた。


カァァァンッ!


鋭い金属音が、悲鳴のように空気を切り裂く。


松明たいまつの揺らぎに、黄金の甲冑が閃く。隙を逃さず、重心を沈めて大剣を突き入れるカシアン。 切っ先がモルカインの肩の筋肉へ毒蛇のごとく食らいつこうとした刹那──巨躯が奇妙なほど滑らかに傾いた。


回避の安堵を感じる間もなく、地をこするような低い軌道で斧がカシアンの下半身を薙ぐ。


だが、そんな単純な攻撃がカシアンに通じるはずもない。 彼は余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)と斧を受け流し、重い刃は虚しく空を切った。


「このクソ野郎……! テメェを真っ二つにしてやる!」


モルカインの叫びは野獣のそれだ。瞳は血色の炎で燃え盛っている。


対照的に──カシアンの口元に浮かぶ笑みは、戦闘の恍惚こうこつに酔いしれる彼の内面を赤裸々にさらけ出していた。 その笑みは野火のように広がり、赤い瞳に宿る輝きを一層濃くしていく。


「いいぞ、貴様のその狂気……悪くない。だが、まだ足りんッ!」


カシアンの号令が響くと同時、彼の足がモルカインの懐深くへ踏み込む。 大剣が瞬時に巨大な孤を描いた。


ザシュッ。


鋭い斬撃がモルカインの胸を切り裂く。 分厚い鎧が紙のように裂け、鮮血の噴水が上がった。モルカインがよろめき、巨木が倒れるかのように揺らぐ。


しかし──血が大地を濡らし、口から呻きが漏れてなお、怪物は止まらない。 双刃斧が旋風のごとくカシアンの頭部を襲い、それを剣で受け止める金属音が、雷鳴のように轟いた。


周囲の兵士たちの呼吸さえ止まったその瞬間。 戦場の風が、血と塵を巻き上げ、二人を包み込んだ。


上空のフェラズは、眼下の光景を見下ろしながら、黄金の甲冑を纏った騎士をつぶさに観察していた。 徐々に劣勢へと追い込まれていくモルカインを確認し、彼女はゆっくりと高度を下げ始める。


「あの馬鹿……が悪いわね」


彼女の唇から、ため息混じりの独り言が漏れた。


地上では、カシアンの赤髪が踊る炎のように風になびいていた。 黄金の鎧の照り返しの中、その口元に浮かぶ笑みは、戦慄せんりつするほどに晴れやかだ。


「やるな。だが、そろそろ幕引きの時間だ、友よ。ハハハ!」


カシアンの哄笑こうしょうが戦場に木霊こだまし、彼は大剣を持ち上げ、その切っ先でモルカインの心臓を狙い定めた。


「殺す……殺す! お前を引き裂いてやるッ!!」


発狂に近いモルカインの絶叫が、血泡と共に弾ける。 飛び散った血の雫が地面に落ち、黒赤こくせきの花を咲かせるように滲んでいく。


荒い息を吐くモルカインの瞳は、より濃い血の色に染まっていた。 野獣のような咆哮と共に、彼の巨大な斧が旋回し、カシアンの頭蓋ずがいを砕かんと殺到する。


カシアンは体を軽く捻り、その重量級の一撃を紙一重でかわす。 同時に、彼の剣はいつの間にかモルカインの脚を鋭く斬り裂いていた。


ザシュッ。


肉が裂け、骨が削れる音が不気味に響き渡る。 膝が折れそうな激痛。だが、モルカインは痛みさえ忘れ、ただ殺意のみを動力として前へ進む。


立ち込める土煙が視界を遮る中、二つの影は互いに砕け散らんばかりに激突した。


ガギィンッ!


カシアンの剣撃がモルカインの肩に深く食い込む。 鎧が引きちぎられ、血柱が噴き上がり、モルカインの口から低い呻き声が漏れた。


「いいぞ、いいぞ。もっと遊びたい気持ちは分かるが……これでお別れだ」


空を引き裂くような大剣の唸り。 カシアンがトドメの一撃を放つべく、虚空を蹴って跳躍した。


上空からその様を見守っていたフェラズは、不吉な予感が全身を駆け巡るのを感じた。


二つの影が交錯する稲妻のごとき刹那。彼女の本能が強烈に警鐘を鳴らす。


──死ぬ。 赤髪の騎士の次の一撃が、モルカインの骨を砕き、心臓を両断し、彼を永遠の死へと引きずり込むという確信があった。


「……見てられないわね」


フェラズは迷うことなく、身を投げた。


カシアンの剣先から噴き出す『コルディウム』が、あかい霧となってモルカインを飲み込もうとした、その刹那。 彼女の巨鳥の姿が、流星のごとく地上へ一直線に突き刺さった。


フェラズの羽ばたきが暴風となって轟き、広げられた漆黒の翼が、戦場に巨大な影を落とす。


瞬間、周囲の大気が圧縮されたように重く沈んだ。 同時に、彼女のくちばしから放たれた鋭利な怪鳥音が、天を引き裂く絶叫となって戦場を巻き込んだ。


おぞましき恐怖の咆哮。


「『クラモル・フォビアエ(恐怖の絶叫)』!!」


その音波はガラス片のように鋭く鼓膜を突き破り、聞く者の全身を麻痺毒のように駆け巡る。


カシアンの足が、止まる。 虚空を斬り裂くはずだった剣先が、見えざる壁に阻まれたかのように凍りついた。モルカインもまた、斧を振り上げた姿勢のまま、石像のように硬直する。


周囲の兵士たちの身体が石化し、その瞳から光が消え、虚ろな殻となっていく。 戦場に、一時的だが絶対的な静寂が舞い降りた。


騒音が消え、風の囁きだけが血塗れの大地を撫でていく。 街が息を潜め、倒れ伏す者の呻きさえも途絶えたその空白の時間──フェラズの影が、モルカインを覆うように滑り込んだ。


揺らめく巨鳥の輪郭が、人の形へと収束していく。 顕現した彼女の手から、鎖の鞭が毒蛇のようにうごめきながら解き放たれた。


「この馬鹿……またこうやって後先考えずに暴れ回って。モルカイン、そこまでだ! 命令よ。お家に帰る時間だわ!」


フェラズの唇が不快げに歪む。 苛立ちの滲むその声には、腐れ縁の同志に対する呆れと、僅かながらの嫌悪が入り混じっていた。


ヒュンッ!


鎖が風を切り、モルカインの太い首に巻きつく。冷たい鉄の感触が皮膚に食い込み、気道を締め上げた。 モルカインの体が微かに痙攣けいれんするが、恐怖に麻痺した筋肉は、指一本動かす反抗さえ許さない。


フェラズの瞳が夜の深淵のごとく暗く沈み、指先が鞭をさらに強く引き絞る。


「『ノクティス・コンストリクタ(夜の絞殺)』!!」


『闇の拘束』が発動した。


恐怖の霧を血管に注入するかのように、モルカインの精神を強制的に闇の奈落へ引きずり込む。 血走っていた瞳が白濁し、狂気の炎が消え失せると、巨躯は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


本来は敵を拉致、あるいは暗殺するための技だが、今の暴走した彼を鎮めるには、これ以外に手段がない。


血管を焦がしていた熱が冷め、狂った精神が恐怖のとばりに覆われる。 フェラズは安堵と苛立ちの入り混じった溜息を吐き、再び黒い霧を纏って巨鳥へと姿を変えた。


鋭い鉤爪かぎづめが、弛緩したモルカインの体を鷲掴みにする。 重い肉塊が宙に浮き、傷口から滴る血がポタポタと虚空へ落ちた。


「はぁ……。全く、世話が焼けるわね」


長い嘆息が風に千切れ、彼女はバサリと黒き翼を羽ばたかせ、空高く舞い上がった。


「ぬおおおおおッ!!」


気合一閃。 カシアンの咆哮と共に、身体を縛っていた金縛りが弾け飛んだ。 抑圧されていた息を吐き出し、彼は鋭い眼光で空を睨みつける。


「あの鳥女とりおんな……何者だ? 面白い手品を使ってくれる。だが──あなどれんな」


カシアンは剣を構え直し、遠ざかるフェラズとモルカインのシルエットを睨んだ。 だが、黒い影はすでに空の彼方、北門の外へと消え去ろうとしていた。


麻痺が解け、戦場の静寂が破られる。 硬直していた兵士たちが我に返り、散発的な剣戟の音が戻り始めた。しかし、戦意を喪失したクラベントゥス兵たちは、すでに総崩れとなって北門へ雪崩れ込んでいる。


今、北門の外へ深追いするのは無意味だ。 城門の向こうには、侵略者どもの本陣が手ぐすね引いて待っているはず。虎の尾を踏むようなものだ。


アチェラ軍は隊列を整え、防御陣形を再構築せねばならない。 辛くも敵の攻勢を凌ぎ、甚大な被害を与えたとはいえ──アチェラが負った傷もまた、あまりに深く、凄惨せいさんだった。


________________________________________


一方、クラベントゥスの指揮幕舎へと向かうフェラズは、冷ややかな視線を足元へ落としていた。 鉤爪かぎづめに吊り下げられ、意識を失ったモルカイン。その巨体からは、未だ温かい血がポタポタと滴り落ちている。


「この駄犬だけんめ……。バラクソル様がどう処分なさるか、見ものね」


闇を穿うが松明たいまつが焚かれた野営地の上空。フェラズはゆっくりと高度を下げた。


バッ。


爪を開き、モルカインを放す。 肉の塊が、地面へ向かって真っ逆さまに落下した。


ズシンッ──!


鈍い轟音と共に、もうもうと土煙が舞い上がる。 手荒すぎる着陸。周囲の兵士たちがギョッとして駆け寄ってくるのが見えた。 フェラズの眉がピクリと動く。 いっそこのまま、この役立たずを地中深くに叩き埋めて、息の根を止めてやりたい衝動に駆られたが──彼女は理性でそれを押し殺した。


兵士たちが慌ててモルカインの手足を持ち、呻き声を上げながら天幕の中へと運び込んでいく。気絶したモルカインの顔は、青白い月光を浴びて死体のように白く浮き上がっていた。


黒い霧が晴れ、彼女の姿が人間の輪郭を取り戻す。 風に乱れたマントを払うと、彼女は迷いのない足取りで指揮幕舎へと入った。


幕舎の中。 揺らめく松明の炎が彼女の顔を照らし出し、その影に沈んだ瞳が、待ち構えていたバラクソルの視線と虚空で交錯した。


「ご苦労だった、フェラズ」


バラクソルの低く、重厚な声。 フェラズは軽く頭を下げ、御前へと進み出た。


「バラクソル様。戦況は……ヘクサールの報告よりも遥かに深刻です。敵の援軍──その戦力は、想定を遥かに凌駕りょうがしています」



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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