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138. 逆転

カシアンに躊躇ちゅうちょはない。 セリアナの無事を確認するや否や、彼は自軍の兵を暴風のように率い、ヘクサールとモルカインの部隊へ猛然と突撃した。 敵の隊形が一瞬揺らぐ──その致命的な隙を、カシアンが見逃すはずもない。


戦場の風向きが変わった。 鎮火しかけていた戦いの炎が、再び轟音を上げて燃え上がる。


ぎ払えッ!!」


カシアンの号令と共に、剣と剣が激突する甲高い音が響き渡る。 凄惨せいさんにして果てしない反撃の波が、雷鳴のごとき雄叫びを上げて戦場を飲み込んだ。


「た、隊列を立て直せ……!」


クラベントゥスの指揮官が喉も裂けよと絶叫するが、その命令は『ヴァセテロン騎兵隊』の蹄の音にあっけなく踏み潰された。 ほころびた盾の壁。その隙間に騎兵たちの槍が突き刺さる。 火花ではない。肉が弾け飛ぶ鈍い破裂音が広場を埋め尽くした。


虚空へ舞い上がった土煙は、生臭い血を吸って赤い雨となり降り注ぐ。 突き出された槍刃は敵兵の装甲を貫き、肩甲骨を粉砕し、その不快な振動が槍柄そうへいを伝って攻撃者の手首を痺れさせた。


足元は、すでに地獄だ。 ぶち撒けられた臓腑ぞうふと赤黒い泥が混じり合い、軍靴を絡め取る沼と化している。折り重なったしかばねにより、平坦だった広場は奇妙な『屍山血河しざんけつが』の稜線へと変貌していた。


鼻腔を麻痺させる錆びた鉄の匂い。 そして、焼ける肉の悪臭が、肺の奥深くまで毒のように染み込んでいく。


だが、アチェラの騎士たちは、その悪臭さえも闘志の燃料に変え、前のめりに突貫した。


クラベントゥスの陣形は、岩礁に砕ける波のように崩壊を始める。 兵士たちの掌には冷や汗が滲み、剣の柄を握る手は恐怖で強張り、膝は見えざる重圧に耐えかねて無様に折れた。 彼らの視線は、中空を泳ぐ巨大な死神の影に釘付けだ。背後で怒鳴り散らす指揮官の声など、耳鳴り程度にしか聞こえず、ただその場で右往左往するのみ。


戦場は阿鼻叫喚あびきょうかん坩堝るつぼ。 刃と刃が噛み合う金属音は加速し、まるで心臓を締め上げる不気味な拍動を刻む。悲鳴、金属音、そして骨の砕ける音が重なり合い、巨大な葬送曲を奏でていた。


その混沌の中──カシアンの動きは太陽のように強烈に輝いていた。


彼にとって、戦闘は闘争ではなく『遊戯』だ。 『喜び』と『歓喜』を触媒として『コルディウム』を操る戦士。戦場の激動の中にこそ快感を見出す異端者。 戦いが長引き、過酷になればなるほど、彼の剣は冴え渡り、その挙動は舞踏のように洗練されていく。


敵の強さが情熱のまきとなるかのように、クラベントゥスの精鋭が群がるほど、彼の刃は鋭さを増した。


カシアンは安全な後方の天幕ではなく、鮮血飛び散る最前線の泥濘でいねいへ躊躇なく踏み込む。 彼の大剣『エーテルノス』が空を裂くたび、重厚な風圧が周囲の雨粒さえも弾き飛ばし、鋭利な風切り音を撒き散らす。


荒々しく、それでいて奇妙なほど優雅。 大剣が一回転するたび、五、六人の兵士が悲鳴を上げる間もなく木の葉のように吹き飛び、その軌跡に沿って赤黒い血の円環が描かれた。


圧倒的な武力(暴力)を前に、敵は戦意を喪失し、後ずさりする。 血の霧の中で黙々と刃を振るう彼の背後には、まるで神話から抜け出してきた闘神の影が長く伸びていた。

「一匹たりとも生かして返すな!」


彼の声が戦場を貫き、響き渡る。 この凄惨な地獄絵図にあって尚、笑みを絶やさず戦うその姿は──まさしく、真なる戦場の支配者だった。


一方、シエラはカシアンの影となり、その背中を守り抜いていた。 悲しみの『コルディウム』を操る彼女の力は、カシアンを庇護ひごする見えざる城壁となっていた。


彼女が展開するのは、かつてカルヌスの猛攻からベルティモを守り抜いた守護の結界。


「『パルウム・コンソラティオ(慰めの外套)』──!」


四方から降り注ぐ敵の矢も、鋭利な剣撃も、その透き通った氷の如き幕の前では力を失い、虚しく地面へと滑り落ちる。


「カシアン殿! 伯爵様が大変案じておられました。どうか、ご無理をなさらぬよう!」


シエラの叫びには、切実な懸念が滲んでいた。


「ハハハ! 流石は『ヴァセテロンの至宝』だ! 感謝するが、私は構うな。私のことより、他の兵たちを頼む!」


カシアンが敵陣を蹂躙じゅうりんし突き進むたび、シエラは背後から隠密かつ完璧に彼を補佐した。 死角からカシアンを狙う刃は彼女の力に弾かれ、彼女のコルディウムが触れた場所では、敵の動きが泥沼にまったかのように鈍化する。


その刹那の隙を、カシアンが見逃すはずもない。


巨大な大剣を羽根のように振るい、戦場を掻き回すその姿。 それはまるで、戦場の神へ血の生贄いけにえを捧げる狂気の舞踏のように、神秘的でありながら致命的だった。 彼の大剣が通り過ぎた後には、ただ無残なしかばねと、濃密な血の匂いだけが残された。


ヘクサールは、眼前の惨状を目にしてもなお、信じることができなかった。 あの赤髪の騎士が蒼き霧を裂き、疾風のごとく現れる直前まで、勝利の女神は間違いなく自分たちに微笑んでいたはずだ。


当然、アチェラの陣営は崩壊し、クラベントゥスの旗が風にはためき、勝利の喊声かんせいが四方を埋め尽くすはずだったのだ。


だが──奴らの突然の乱入が、全てを狂わせた。


赤髪の騎士の剣撃は暴風のように部下の首をね飛ばし、共に現れた蒼きマントのコルディアールは、クラベントゥスの猛攻をことごとく無力化している。


蒼き光と霧が噴き上がった、ほんの僅かな時間。 その空白が生んだ結果は明白だ。数においても、勢いにおいても、もはや奴らの怒涛の進撃を食い止めるすべはない──冷酷な現実が、ヘクサールを圧殺しようとしていた。


憤怒と混乱で顔を歪めたヘクサールは、モルカインの元へ急いで馬首を向け、怒鳴った。


「モルカイン! これ以上は持ち堪えられん。全軍撤退だ! 残存戦力だけでも温存せねばならん!」


しかし──モルカインの瞳孔は、すでに血色の狂気にき尽くされていた。


返り血で濡れそぼり、テラテラと光るその巨躯きょく。 荒い呼気が周囲の空気を焦がすほどに熱い。平時であれば戦況を鋭く読む将であったが、自ら狂戦士と化した今の彼は、理性を失ったただの化物に過ぎなかった。


眼前の敵を殺す──それだけが、彼の精神を支配している。


悲鳴を上げ倒れる兵士たち、大地を揺らすカシアン部隊の足音。その全ての騒音が、彼の血管を業火ごうかのように焚きつけた。 ヘクサールの合理的な提案など、彼は鼻で笑うように一蹴する。


「撤退だと? 戯言ざれごとを抜かすな、ヘクサール! このクソ野郎共を全員引き裂くまで、俺は止まらねぇッ!!」


獣の咆哮が戦場に木霊こだまする。 彼は斧を滅茶苦茶に振り回し、前へと突進した。足元で敵味方の死体が踏み潰され、肉の泥となるのも構わず、ただカシアンの首を求めて猛進する。


アチェラの兵士が一人、立ち塞がった瞬間──モルカインの斧がその胸板を容易く切り裂いた。鮮血の噴水が高く上がる。


「死ね! 全員、死に晒せェッ!!」


モルカインは完全に激怒のとりことなった狂戦士。 戦略など眼中にない。あるのは、目の前の敵を叩き潰し、粉砕するという破壊本能のみ。


カシアンへ向けて疾走するモルカインは、邪魔な兵士を手当たり次第に薙ぎ払っていく。 四方へ飛び散る熱い血が、彼の狂気を栄養分として炎を煽る。彼は顔にかかった血の雫を舌で舐め取り、その生臭い味をたのしむように口元を歪めた。


「テメェら……俺の手で、終わらせてやるッ!」


ヘクサールはその光景を見つめ、胸の内で重い嘆息を飲み込んだ。 もう、制御不能だ。


「全軍撤退せよ! 北門へ引くぞッ!!」


号令が下ると、クラベントゥスの騎兵隊は慌てふためき動き出した。 蹄が大地を蹴り土煙を上げ、旗が揺らぎながら後退するその様は……つい先ほど、セリアナが殿しんがりを務める間にアチェラの兵と市民が逃げ惑っていた光景を、鏡のように映し出していた。


攻守逆転。


今やモルカインとその部隊が単独で前線を死守し、カシアンという巨大な波を受け止める防波堤となり、ヘクサールの騎兵隊がその後ろを逃げ延びる──皮肉にも、そんな形勢が出来上がっていた。


戦場の風向きが変わったことを悟ったアチェラ軍の喊声が、一層高く響き渡る。 クラベントゥスの兵士たちは、撤退の混乱の中で互いを押しのけ合いながら、北門へと雪崩れ込んでいった。


ヘクサールは馬首を巡らせ、撤退する自軍を確認する。だが、その足は重い。 モルカインを見捨てるという選択に、踏ん切りがつかないのだ。


今や目の前の敵を殺すことしか頭にない狂人と化しているが、奴はクラベントゥス騎士団の中核。その武力と忠誠心は、代えの利かない貴重な資産なのだ。


結局、ヘクサールは覚悟を決め、槍を握り直すとモルカインへ向けて馬を飛ばした。


「モルカイン! この大馬鹿野郎が、いい加減にしろ! 今退かねば犬死にするだけだぞ!」


怒号は背後で炸裂したが、モルカインは敵をほふることに没頭している。 ヘクサールは馬を限界まで加速させ、モルカインの横っ腹へ食らいつくように並走し、喉が裂けよと叫んだ。


「止まれ、このいのしし武者! 自分の首が地面に転がる様を見たいのかッ!」


戦場の渦が、二人を飲み込まんと迫る。 カシアンの部隊が雪崩れ込み、剣と槍が激突する衝撃音が、雷鳴のように大地を揺るがす。モルカインの斧は依然として猛獣のごとく敵を引き裂き、四方へ血の雨を降らせていた。


ヘクサールの悲痛な叫びも虚しく、モルカインの呼吸は荒くなるばかり。 血色の狂気でぎらつく瞳孔は、ただ斬り伏せるべき敵だけを映している。


「退かぬ……奴らに終焉しゅうえんを……。邪魔立てするなら、ヘクサール……テメェも引き裂くぞ」

ヘクサールは無理やり引き剥がそうと手を伸ばすが、理性を失った怪力の前には、いかなる干渉も無意味だった。


「クソッ、この分からず屋が!」


モルカインの視線は、カシアン一点に固定されている。


「あいつ……あの赤髪さえれば……全て終わる……」


呪詛じゅそのような呟きが耳を掠める。ヘクサールは、さらに強く彼の肩を揺さぶった。


「モルカイン! いい加減に目を覚ませ! 今こそ退く時だ!」


だが、その絶叫も虚空へ散るのみ。


斧が一閃するたび、敵の肉片が空中で赤い花火のように弾け飛ぶ。 彼の足元にはしかばねの山が築かれ、その下にはヌルつく血の沼が広がっていた。


時間の経過と共に、カシアンの本隊が巨大な津波となって押し寄せる。 取り残されたクラベントゥスの兵たちは、為す術もなく蹂躙じゅうりんされていく。これ以上留まれば、その波はモルカインのみならず、ヘクサールの命までも飲み込み、軍を霧散させるだろう。


「チッ、このまま見殺しには……だが……ッ!」


風が運ぶ血臭と塵、松明から爆ぜる火の粉が視界を霞ませる。 その地獄絵図の中で、兵士たちの断末魔が野獣の咆哮のように絶え間なく響く。


葛藤するヘクサールの額から冷や汗が流れ落ち、唇は屈辱と焦燥で歪んでいた。


まさしく、断腸の思いだった。 死んでも選びたくない、屈辱的な決断を下さねばならなかったのだ。


ヘクサールは荒々しく馬首を巡らせ、北門へ向けて疾走しながら『セルファルク』を召喚した。 手の中から黒い霧が立ち込め、蛇の胴体に鳥の翼を持つ、異形の使い魔が具現化する。


『インテルヌム』の伝令、セルファルク。 それが翼を羽ばたかせると同時に、ヘクサールは本隊へ向け、焦燥に満ちた伝言を託した。


「行け……バラクソル様のもとへ! く!!」


主の叫びに呼応し、セルファルクは鋭い鳴き声を残して北門の外へと弾丸のように飛び去った。 その影が空を裂いていく間も、地上では剣と剣が激突する破砕音が絶え間なく響いていた。


北門の外。 クラベントゥスの本陣は、黒い天幕が連なる巨大な野営地となっていた。荒涼とした風が幕を叩き、闇の中で揺らめく松明たいまつが、兵士たちの影を長く引き伸ばしている。


その時、総司令官バラクソルは、本陣が位置する尾根から、戦場と化したアチェラの北門を見下ろしていた。


バササッ……。


空気を切り裂く羽音。 バラクソルの視線がゆっくりと天へ向く。肩に舞い降りた伝令は、ヘクサールの切迫した声を、寸分の狂いもなく再生した。


『正体不明の援軍により、戦況は完全にくつがえされました。撤退は不可避……ですが、モルカインが狂乱し、退くことを拒絶しています。至急、ご処断を』


報告を聞いた瞬間、バラクソルの眉間に深い渓谷のようなしわが刻まれた。地図を握る指先が、微かにピクリと動く。


腹の底から激情が突き上げるが、彼は冷徹な理性でその熱を飲み込み、首を横に振った。 援軍の正体も、その底知れぬ戦力も把握できていない状態で、無策に増援を投じるなど愚の骨頂。燃え盛る炉に乾いたまきをくべて火を消そうとするようなものだ。


風が天幕を揺らし、低い口笛のような音を立てる。 外を行き交う兵士たちの足音がせわしない中、バラクソルはゆっくりと振り返り、指揮官席へと歩を進めた。


「フェラズ」


バラクソルの声が響くと、闇の奥から一人の女が音もなく歩み出た。 彼女はバラクソルの前でうやうやしく頭を垂れ、片膝をつく。


フェラズ。 クラベントゥス騎士団においても唯一、正面戦闘を避け、影のように隠密行動をとる特殊部隊の指揮官。


「モルカインを連れ戻せ。あの馬鹿がまた、狂気に飲まれて暴れているらしい」


バラクソルの言葉が終わるや否や、フェラズの眉が呆れたように跳ね上がった。


「バラクソル様。あの愚鈍な熊男が、また正気を失ったのですか? いつまであんな無能を側に置かれるおつもりで? いっそ見捨てて、マシな将を新しく育てた方が有益ではありませんか?」


不満に満ちた物言いには、鋭いとげがあった。 だが、バラクソルは指揮官席に身を預け、淡々と答える。


「お前の言う通り、奴の頭のネジは数本飛んでいる。だが──その破壊力に並ぶ者が稀有けうである事実も変わらん。いつかその愚行で命を落とすだろうが、今ではない。不平を漏らすな。直ちに回収してこい」


バラクソルの断固たる命令。 フェラズは不服そうな気配を隠そうともしなかったが、反論はせず深く頭を下げた。


クラベントゥスにおいて、バラクソルの指示は絶対だ。 仮に自害を命じられたとしても、迷わず従うだろう。理由は問わない。いや、彼が命じるならば、その先には必ず深遠なる意図があると信じているからだ。バラクソルの洞察は、いつだって正しかったのだから。


御意ギョイ。……ですが、あいつがまた馬鹿な真似をして手こずらせるようなら、今回は首だけ狩って持ち帰るかもしれませんよ?」


殺伐とした冗談を残し、フェラズは指揮本部を後にした。 崖際に立った彼女は、漆黒の羽根のマントで全身を包み込む。


「『メタモルフォシス・コルヴィナ(鴉の変身)』」


低く紡がれた詠唱。 肉体が黒い霧のように溶け出したかと思うと、瞬く間に巨大なカラスの姿へと変貌した。


バサリと黒き翼を広げ、彼女は空へと舞い上がる。 そして、激戦の続く北門へ向け、隠密かつ迅速に滑空していった。



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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