01-09.週末の市場
入学から数日が過ぎ、平日の講義と訓練のリズムが掴めてきた頃。
放課後の東寮三十八号室で、エーリヒは腕まくりをして自室の手入れと整理に励んでいた。
母アンナが持たせてくれた薬瓶や乾燥生姜の包みは、机の上の棚へ綺麗に並べ直した。
引き出しには長男ジークフリートから貰った上質な筆記具と紙を収め、クローゼットには制服を几帳面に掛ける。
そして机の最も日当たりの良い一角には、川原でレオンが拾ってくれたあの天然の屑魔石を、柔らかい敷布の上にそっと飾った。
大切な弟からもらった宝物だ。
触れるたびに、武門の屋敷で過ごした日々と弟の真っ直ぐな言葉が思い出され、不思議と心が落ち着いた。
「……よし、荷物は片付いた。次はここだな」
手に入れた蜜蝋を布に塗り込み、木枠が歪んで隙間風が鳴っていた窓の縁を丁寧に目張りしていく。
ついでに、開け閉めのたびに甲高い音を立てていた扉の蝶番へ、小瓶の油を一滴差した。
嫌な軋み音は綺麗に消え、部屋の気密性と静けさは見違えるほど向上した。
一息ついて、エーリヒは部屋に備え付けられた魔道具を見上げた。
天井の中央から真鍮の鎖でぶら下がっている、簡素な吊り下げ型の魔導ランプだ。
壁のスイッチを捻ると、カチリと音がしてランプの奥に明かりが灯る。
目を凝らし、色温度のグラデーションを観察してみる。
器具の構造自体は極めて単純で、真鍮の台座に小さな魔石が嵌め込まれているだけだ。
だが、その光は一定の周期で細かく明滅し、青白い中心部が時折濁った黄色へと揺れていた。
(……やっぱり、魔石がかなり劣化しているな)
長年使われてきたせいか、魔石の表面に微細なひびが入り、エネルギーの放出に激しいムラが生じている。
本を読むには少し目が疲れそうだ。
新しい魔石に取り替えれば解決するのだろうが、備え付けの消耗品を交換するには自腹で買い直す必要がある。
手元の小銭入れを思い浮かべ、エーリヒは小さく肩をすくめてスイッチを切った。
ロゼルシア王国の暦は、一週間が七日間で回っている。
五日間の講義を終えたあとの「六曜日」と「七曜日」の二日間は、学園の公式な休校日だった。
初めて迎えた休日の午前中。
エーリヒは寮の一階にある男女共用の談話室の丸テーブルにいた。
使い込まれたソファと暖炉が置かれた質素な空間には、同じように課題を広げる生徒たちがちらほらと集まっている。
「――あーっ! もうダメだ、頭がパンクする……! なんで羊の毛を刈るだけでこんなに分数がややこしくなるんだよ!」
頭を抱えて机に突っ伏したのはヨハンだった。
開かれた羊皮紙には、数学の課題である物資計算の筆算が書き殴られている。
「ふふ、ヨハン君、そこは分母を揃えてから引かないとダメだよ」
向かいの席でクスクスと笑ったのは、淡い亜麻色の髪を揺らすクララだった。
手元には、初等法学の条文を几帳面な文字でまとめたノートが置かれている。
「ヨハン、ここだよ。全体の収穫量をまず十二で割って、領主への上納分と保管分を引くんだ。ほら、図を描いて整理すると分かりやすいよ」
エーリヒが羊皮紙の余白に簡潔な線画を描いて見せると、ヨハンは顔を上げ、目を瞬かせた。
「……あ! なんだ、そういうことか! すげえなエーリヒ、先生の説明より十倍分かりやすいぜ!」
ガリガリとペンを走らせるヨハンを見守りながら、クララが温かいハーブティーをエーリヒの前に差し出してくれた。
「はい、エーリヒ。乾燥生姜とカモミールを少しブレンドしてみたの。お腹を温めるのにいいと思って」
「ありがとう、クララ。すごくいい香りだね」
一口含むと、優しい甘みとピリッとした生姜の温もりが喉を通っていった。
木陰の見学席で知り合って以来、同じ第4クラスで机を並べるこの三人は、自然とこうして集まるようになっていた。
課題が一段落したところで、ヨハンが懐から革の小銭入れを取り出し、中身をテーブルの上にジャラリと広げた。
真鍮や青銅でできた、大小さまざまなコインが転がる。
「……はぁ。それにしても、頭の痛い計算の次は、財布の計算だよ」
「仕送りの確認?」
エーリヒが尋ねると、ヨハンは渋い顔で頷いた。
「ああ。俺の家は領地のない騎士だからさ、学費と寮費を引いた後の生活費として、月に五百クーナしか送ってもらえないんだ。……エーリヒの家は子爵家だから、もっと多いんだろ?」
「うちは月に千クーナだよ。武門の家だから贅沢はさせないっていう方針でね」
前世の感覚で言えばおよそ十万円。
十歳の子供の小遣いとしては大金に見えるが、この学園生活においては決して裕福とは言えない額だった。
「千クーナかぁ、うちの倍だけど……それでもカツカツだよな」
ヨハンが指を折って計算を始める。
「学園の食堂、一番安い定食でも一食で六クーナから十クーナはするだろ? 朝昼晩と毎日三食きっちり食べてたら、それだけで月に七百から八百クーナ??かな?それくらいは消し飛ぶ計算だ。俺なんか、一日二食に減らすか、昼は硬いパン一個で我慢しなきゃすぐに破産しちまうよ」
「そうなんですよね……」
クララも困ったように眉を下げた。
「上級食堂なんて、一食で五十クーナから二百クーナもするそうですし……あちらは月パスだけで五千クーナもかかるって聞きました。私たちのような下級貴族には、とても手が出ません」
一食五十クーナ以上の白パンや肉料理を湯水のように平らげる上級貴族。
一食六〜十クーナの下級食堂では最低限の量の定食を食べている下級貴族。
そして、街の庶民たちが暮らす平民街では、一食二〜三クーナで腹を満たす屋台や食材が並んでいる。
「……ねえ、二人とも。今日はせっかくの休みだし、アイゼンガルドの街を見に行かないかい?」
エーリヒが提案すると、ヨハンがパッと顔を上げた。
「おっ、観光か! いいな! まだ学校の敷地から一歩も外に出てなかったし、気晴らしに行こうぜ!」
「私も行ってみたいです! 街の様子、まだ馬車の中からしか見ていませんでしたから」
三人で身支度を整え、重厚な学園の正門をくぐり抜けた。
春の陽光が降り注ぐ第二都市アイゼンガルドは、平日以上の活気に包まれていた。
整然と敷き詰められた石畳の街道を、荷馬車や着飾った人々が行き交う。
海に近い王都が魚介や交易品の街であるのに対し、内陸の要衝であるアイゼンガルドは、山の幸と肉、そして防衛を支える武具の街だった。
「うわあ……いい匂い!」
クララが立ち止まった通りの角では、屋台の主人が分厚い豚肉の塊を鉄板で豪快に焼き上げていた。
ジュウジュウと脂の弾ける音と、香ばしい煙が鼻腔をくすぐる。
串焼き一本が二クーナ。
食堂の半額程度だ。
「すげえ活気だな! あっちには大きな時計塔があるぞ!」
はしゃぐヨハンに連れられ、大通りから中央広場、立ち並ぶ石造りの歴史ある建築を巡る。
十歳の子供らしい素直な好奇心で街を歩き、エーリヒもまた、中世の息吹がそのまま息づく重厚な街並みを心から楽しんでいた。
通り沿いにある魔導具店の店先を通りかかったとき、エーリヒはふと足を止めた。
ガラスケースの中に、親指の爪ほどの小さな照明用魔石が並んでいる。
「……すみません、これ、いくらですか?」
エーリヒが店主に尋ねると、職人風の男が値札を指差した。
「一番小さい灯火用で、小銀貨一枚――百クーナだよ、坊主」
(ひゃ、百クーナ……!?)
思わず息を呑んだ。
部屋のランプのチラつきを直すためだけに、月の仕送りの十分の一が消し飛ぶ計算になる。
今の懐事情では、とても気安く手を出せる金額ではなかった。
(やっぱり、魔道具や魔石は完成品を買おうとするととてつもなくに高いな……。無駄遣いは絶対にできない。生活費をもっと切り詰めないと)
ため息をついて店を離れ、広場を抜けた先――露天商がひしめく平民街の「市場」へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい! 獲れたてのジャガイモに泥付きの玉ねぎだよ! 一籠で二クーナ!」
「豚の端肉、ひと包みで一クーナポッキリだ!」
威勢のいい八百屋や肉屋の声が飛び交っている。
エーリヒはその値札を見て、目を丸くした。
(……安い。食堂の値段と比べると桁が違うぞ)
大振りのジャガイモが五、六個入った籠が二クーナ。
スープの出汁にうってつけな豚の端肉が、ひと包み一クーナ。
固焼きの大きな黒パンも、一本一クーナで売られている。
「……エーリヒ? どうしたの、そんなに熱心に野菜を見つめて」
不思議そうに覗き込んでくるクララに、エーリヒは振り返って微笑んだ。
「ねえ、二人とも。寮の地下にある共同炊事場って、生徒が自由に使っていいんだよね?」
「え? ああ、薪と鍋は自由に使っていいはずだけど……まさか、お前、自分で料理する気か!?」
ヨハンが驚いて声を上げた。
「うん。ここで食材を買って自炊すれば、一食あたり一クーナから二クーナで済むよ。授業のある日は食堂を使うとしても、時間のある週末だけでも自炊にすれば、月の食費を大幅に節約できるはずだ」
「じ、自炊かぁ……! 確かに言われてみればそうだけど、料理なんてしたことないぜ」
「私も……お屋敷では厨房に入ったことすらありませんでした」
クララも目を白黒させている。
無理もない。
いくら下級とはいえ貴族の子弟だ。
家では料理人が腕を振るい、食事は運ばれてくるものというのが常識だった。
だが、エーリヒは迷わず懐から小銭を取り出し、八百屋と肉屋で買い物を済ませた。
黒パン一本、ジャガイモと玉ねぎの籠、そして豚の端肉の包み。
これだけ買い込んでも、支払ったのはわずか四クーナだった。
夕暮れ時。
寮へ戻ったエーリヒは、東寮の地下にある薄暗い共同炊事場へと降り立った。
煤けた石造りの部屋には、大きな薪竈と鉄の平鍋、それに使い込まれた寸胴鍋が並んでいる。
すでに先客が何人かいた。
第3クラスの鍛錬着を着た男子生徒や、エプロンをつけた第4クラスの上級生が、慣れた手つきで鍋を火にかけている。
領地を持たない貧乏貴族や騎士爵の三男坊が集まる下級寮では、仕送りを節約するために自炊をする生徒は珍しくない。
だから、エーリヒが食材を持って入ってきても、からかったり冷やかしたりする者はいなかった。
ただ――エーリヒの制服の襟元にある、クラインフェルト子爵家の銀の留め具を見た上級生が、少しだけ物珍しそうに眉を上げた。
「おいおい、子爵家のお坊ちゃんがこんな地下で鍋を振るのかい? 珍しいこともあるもんだな」
「ええ、少し生活を節約してみようと思いまして」
エーリヒが気さくに頭を下げると、上級生は「へぇ、しっかりしてるな。
竈の火、空いてるから使いな」と笑って場所を譲ってくれた。
変な見栄を張らないこの下級寮のからっとした空気が、エーリヒには何より心地よかった。
持参したナイフを手に取り、調理を始める。
前世の一人暮らしで染み付いた手つきだ。
泥を水で洗い流し、ジャガイモは煮崩れないよう大きめの乱切りに、玉ねぎは甘みが出るよう厚めのくし切りにする。
鉄鍋に少量の油を引き、豚の端肉を炒める。
ジュッ、と香ばしい脂の匂いが立ち上り、鍋肌に肉の旨味が焼き付いていく。
そこへ切った玉ねぎとジャガイモを投入し、表面が透き通るまで軽く炒め合わせたあと、木桶から水をたっぷりと注ぎ入れた。
味付けは至ってシンプルだ。
持参した粗塩をふたつまみ、それに乾燥ハーブの葉を一枚。
竈の薪をくべ、火力を落としてコトコトと煮込んでいく。
前世でよく作った、素朴なポトフのような塩味スープ。
やがて、肉の脂と野菜の甘みが溶け合った、えも言われぬ美味そうな湯気が炊事場いっぱいに広がった。
部屋に戻り、机の上に夕食を並べる。
窓の外はすっかり藍色の夜空に包まれ、天井の古びたランプが頼りなく揺れながら木皿を照らし出していた。
深皿に盛られた、大振りのポテトと玉ねぎがゴロゴロと入った熱々の塩スープ。
皿の横には、ナイフで厚めにスライスした香ばしい黒パン。
「……いただきます」
木のスプーンでスープをすくい、一口運ぶ。
豚肉のコクと塩気、そしてじっくり煮込まれた玉ねぎの甘みが、疲れた身体にじんわりと染み渡っていく。
柔らかく煮崩れたジャガイモを口に含むと、ホクホクとした滋味が口いっぱいに広がった。
少し固い黒パンを熱いスープに浸してかじると、パンの酸味とスープの塩気が絶妙に調和して、いくらでも食べられそうだった。
(美味い……。食堂のシチューより、ずっと口に合うな)
食堂で普通に食べれば一食あたり六クーナから十クーナ――日本円にして千円近くかかる。
だが、この自炊スープとパンなら、一食あたりせいぜい一クーナから二クーナ、百円から二百円程度で済んでしまう。
たまにしっかり食べたとしても、三百円から六、七百円もあれば十分すぎるほどの豪勢な食事が作れる計算だ。
(時間のある週末は、市場で安い食材を買って自炊しよう。浮いたお金をコツコツ貯めれば、あの高い魔石もいつか買えるし、研究や本にも回せる)
チラチラと瞬く天井の明かりを見上げながら、エーリヒは確かな自立への手応えを噛み締めるように、最後の一滴までスープを飲み干した。




