01-08.気絶
本格的な学園生活の幕開けは、エーリヒにとって天国と地獄が交互にやってくるような二日間から始まった。
初日の午前は、教室での座学講義だった。
一時間目の講義は「数学」だ。
教壇に立った年配の先生が、黒板に白いチョークでさらさらと課題の数式を並べていく。
それを見た瞬間、エーリヒは内心で小さく肩の力を抜いた。
(……これ、前世の感覚で言えば小学校の低学年レベルだな)
羊皮紙に記されていたのは、二桁の足し算や引き算、それに簡単な掛け算を使った物資の計算だった。
この世界の教育水準からすれば、十歳の子供が学ぶ最初の一歩としては妥当なのだろう。
だが、前世で機械工学の図面や数値計算を日常的に扱っていたエーリヒにとっては、筆を執るまでもなく答えが視界に浮かび上がってくるような問題ばかりだった。
教室の中を見渡せば、隣の席のヨハンをはじめ、クラスメイトたちは指を折ったり、羊皮紙の端に何度も筆算の跡を書き殴ったりしながら、真剣な顔で唸り声を上げている。
エーリヒは周囲から浮いてしまわないよう、あえて速度を落としてペンを走らせ、控えめに全問正解を並べて静かに筆を置いた。
続く二時間目の講義は「歴史」だった。
縁なし眼鏡の初老の先生が、教壇の後ろに掲げられた大きな大陸地図を長い指し棒で叩きながら、落ち着いた声で語り始めた。
「――諸君も知っての通り、我がロゼルシア王国の歴史は、今年でおおよそ三百五十年を迎える」
現国王フリードリヒ四世の名が示す通り、王統は大きな断絶もなく今日まで保たれてきた。
だが、その成り立ちは決して平穏な世襲ではなかったのだと先生は説く。
かつてこの地を支配していた前身国家は、王族や大貴族による放漫財政と汚職にまみれ、国庫の私物化が横行していた。
魔物の氾濫が起きても、中央の貴族たちは贅沢に溺れたまま前線の下級貴族や民衆に責任を押し付け、国は内側から崩壊寸前だったという。
「それを打ち破ったのが、国境警備を担っていた貧乏騎士爵出身の青年将校――のちの初代国王ルディガー一世だ」
ルディガーは疲弊した前線部隊と民衆を率いてクーデターを起こし、腐敗貴族たちを追放して王都を制圧した。
そして自ら王冠を戴く際、『王も貴族も、国土と民を預かる公僕に過ぎない』という『鉄の誓い』を立て、国名をロゼルシアと改めたのだという。
(なるほど……。王室の私費と国の公金を厳格に分ける法律や、不正を監視する独立監査院の仕組みがここまで発達しているのは、建国の祖がクーデターを起こした叩き上げだったからか)
講堂で見たクランウェル公爵のような名誉職の大貴族がいても、制度上は貴族が好き勝手に散財や圧政を行えないよう、歴史の中で幾重にも手枷足枷が嵌められてきた。
大貴族への忖度はあれど、法と監査による秩序が国家の屋台骨を支えている。
先生の指し棒は、地図の北側――広大な外海を示した。
「我が国は北を海に面し、北東にある王都は海運と交易の中心地として栄えている。一方で、西・南・東の三方は山脈を挟んで別の小国と隣接している。我が国を含めたこの一帯の七つの小国は、周囲を取り囲む軍事大国や中堅国家に対する緩衝地帯でもあるのだ」
小国同士が争っていれば、外の大国に呑み込まれるか、あるいは山脈の奥から定期的に湧き出す魔物の大群によって共倒れになってしまう。
「約二百年前、些細な国境紛争から隣国同士が争い、一方を併合してしまうという戦争があった。だが、その隙を突いて魔物の大群がなだれ込み、地域全体が壊滅的な被害を受けた。この痛烈な教訓以来、七小国の間では領土不可侵と対魔物での相互防衛が固く結ばれ、今日まで二百年間、小国同士の大規模な戦は起きていない」
(海運の利と、強固な法治。そして共通の敵である魔物と大国を前にした、小国連合の絶妙なバランス……)
歴史という鏡を通して、自分が生きるこの国の輪郭が鮮明になっていく。
前世の近代社会にも似た実利的な法体制に、エーリヒは深い知的好奇心と安心感を覚えていた。
しかし――そんな充実した知の時間は、午後のグラウンドで呆気なく粉砕されることになった。
「――全員、列を乱すな! まずは体を温める! グラウンドを三周走れ!」
午後の「基礎体育」は、大運動場にて第三クラスとの合同で行われた。
担当するのは、胸板の厚い筋骨隆々な大男、バウマン先生だ。
太い号令が青空に響き渡ると、土煙を上げて生徒たちが一斉に走り出した。
第三クラスの先頭を快走するのは、レオンだった。
「よーし、いくぞー!」と元気いっぱいに声を張り上げ、武門や騎士の家系が多い第三クラスの面々を引っ張っていく。
(レオン、あいつ凄いな。第三クラスでも周りを引っ張っていくような立場なんだな…)
一方、第四クラスの列の最後尾では、早くも命の危機に瀕している少年がいた。
(はぁ、息が……吸えない……足が、鉛みたいに重い……!)
半周も走らないうちに、エーリヒの肺は刃物で削られるような痛みを訴え、心臓が早鐘のように暴れ出した。
前世の知識を総動員し、「鼻から吸って口から吐く」「重心を低く保つ」と理屈で制御しようとしても、肝心の心肺機能と筋肉というハードウェアが絶望的に足りていない。
一周目の第三コーナーを曲がったあたりで、足首の力が完全に抜けた。
「わっ、おいエーリヒ!?」
すぐ前を走っていたヨハンが叫んだ瞬間、エーリヒの視界は真っ暗に反転し、地面に向かって崩れ落ちていた。
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……次に目を開けた時、エーリヒはグラウンド脇にある巨大な樫の木の木陰に横たわっていた。
涼しい風が、汗で濡れた額をそっと撫でていく。
「……あ、気がつきましたか?」
鈴を転がすような、穏やかで控えめな声が上から降ってきた。
視線をやると、木陰のベンチに座った一人の少女が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
品の良い丸顔に、柔らかな茶色の瞳。手入れの行き届いた淡い亜麻色の髪を後ろで一つに束ね、エーリヒと同じ第四クラスの制服を着ている。
「僕……倒れたのか……」
「はい。走っている途中でパタッと倒れちゃって。バウマン先生がここまでおぶって運んでくれたの。……お水、飲めますか?」
差し出された木製の水筒を受け取り、エーリヒは恐る恐る喉を潤した。
冷たい水が染み渡り、激しく乱れていた息がようやく整っていく。
「ありがとう……助かったよ。君も、どこか悪いの?」
「あ、ううん。私は……その、最初の準備運動の屈伸と腕立ての段階で息が上がっちゃって。先生から『無理をせず木陰で見学していなさい』って言われちゃったんです。」
少女は恥ずかしそうに頬を赤らめ、小さく肩をすくめた。
「私、クララって言います。クララ・フォン・ベルン。西部の小さな男爵家の出身で。昔から走ったり跳んだりするのが本当に苦手で……入学試験の体力測定も、受かったのが不思議なくらい酷かったんです」
「そうだったんだ。僕はエーリヒ・フォン・クラインフェルト。……僕も見ての通り、試験の駆け足で倒れかけて、このクラスになったんだ」
エーリヒが情けなさそうに苦笑いをこぼすと、クララは丸い目をパチクリと見開き、それからふふっと吹き出すように笑った。
「なんだか同じですね。あの掲示板で筆記三席だったクラインフェルト様が、まさか私と同じ見学組だなんて思わなかったです」
「様なんて付けなくていいよ、クララ。同じクラスだし、エーリヒでいいよ」
「じゃあ、私のこともクララって呼んでね。……なんだか、すごくホッとしちゃった。この学園、みんな活発で元気な人ばかりに見えて、私だけついていけないんじゃないかってずっと不安だったから」
「僕もだよ。身体を動かすことに関しては、どうあがいても人並みにはなれそうにないからね」
運動場の中央では、レオンが嬉々として腕立て伏せの号令をかけている姿が遠くに見えた。
眩しい日差しの下で汗を流す元気な生徒たちを眺めながら、木陰のベンチで「体力ゼロ同盟」を結んだ二人は、互いの境遇に顔を見合わせて小さく笑い合った。
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そして迎えた二日目の午後。
同じく第三クラスとの合同で行われたのは、エーリヒが最も待ち望んでいた「魔力操作」の実技講義だった。
場所は石造りの広い大演習場。
複数の先生たちが厳しく見守る中、頑丈な作業机の上には、手のひらサイズの直方体をした金属製の魔導具が置かれていた。
「この器具は、魔力の測定と制御の基礎訓練に用いる基礎魔導器だ。天面の金属板に手を当て、ごく微量の魔力を流し込んでみろ。内部の術式が励起し、中央の魔導針が目盛りの『一』を指せば合格だ。決して力を込めすぎるなよ、針が跳ね上がって安全装置が作動するぞ」
先生の説明を受け、生徒たちが交代で魔導器に向き合い始めた。
「うわっ!? 針が一気に『五』まで振り切れたぞ!」
「あ、光がチカチカして安全弁が落ちちゃった……」
あちこちから困惑の声が上がる。
第三クラスの血気盛んな生徒たちは、持ち前の豊富な魔力に任せて力を注ぎ込みすぎるため、針が暴れて安定しない。
魔力を「勢いよく出す」ことはできても、「蛇口を絞るように一定量を保つ」という繊細なコントロールは、十歳の子供たちにとって極めて難易度が高かった。
「――おや、クラインフェルト家の三男坊だな」
エーリヒの作業机に歩み寄ってきたのは、白髪交じりの豊かな髭を蓄え、丸眼鏡をかけた小柄な老人だった。
見覚えがある。入学試験の魔力測定の際、測定台の奥で鋭い眼光を光らせていた上席魔導士のグローバー先生だった。
「グローバー先生……ですね」
「うむ。試験の時の魔力波形、実に美しかったぞ。さて、実技の方も見せてもらおうかの」
グローバー先生が穏やかな笑みを浮かべ、机の上の魔導器を手で示した。
エーリヒは深呼吸を一つし、魔導器の天板にそっと右手のひらを乗せた。
(大電流を力任せに流すんじゃない。針の穴に、細い絹糸を一本だけ静かに通すように……)
体内の魔力溜まりを意識し、ごくわずかな魔力の滴を指先へと手繰り寄せる。
無駄な熱や光として外へ漏れ出さないよう、回路の太さを極限まで絞り込み、一定の圧力で金属板へと送り込んだ。
カチ……。
微かな作動音とともに、魔導器の中央にある繊細な針が、スッと滑らかに持ち上がった。
針は目盛りの「一」の線の上でピタリと静止し、微動だにしない。
針先の震えも、魔力の波打ちも一切なく、まるで最初からそこに固定されていたかのように静止し続けている。
「……ほう!」
グローバー先生の丸眼鏡の奥の瞳が、カッと見開かれた。
老魔導士は思わず身を乗り出し、器具の側面にある魔力流動の計測窓を食い入るように覗き込んだ。
「揺らぎがない……。魔力の供給圧が完全に一定じゃ。普通、この年齢の子供は心拍や呼吸に合わせて魔力が脈動するものだが……お主、体内で流量を完全に整流しておるのか?」
「ええと……息を止めずに、一定のリズムで流すように意識しているだけです」
エーリヒが控えめに答えると、グローバー先生は豊かな白髭を何度も撫で回し、心底感心したように声を漏らした。
「素晴らしい。実に美しいコントロールじゃ。魔力の総量こそ平均的じゃが、この緻密さと安定性は、上級生でもそうはお目にかかれんぞ。……基礎を粗末にせず、己の魔力をよく理解しておる証拠じゃな」
先生の惜しみない賞賛に、周囲で苦戦していた生徒たちが「あいつ、すげえ……」と驚きの視線を向けてくる。
昨日の体育で見事な失神を晒したエーリヒだったが、こと技術と制御の領域においては、自分の進んできた道が決して間違っていなかったことを確信していた。
(体力作りの道は果てしなく遠いけれど……僕の戦い方は、やっぱりここにある)
木陰で出会った新しい友人と、老魔導士から得た確かな手応え。
波乱に満ちた二日間の授業を終え、エーリヒの胸には、学園生活を生き抜くための静かな自信が確かに灯り始めていた。




