01-07.ガイダンス
「――さて、全員席に着いているな。まずは入学おめでとう」
教壇に立ったのは、縁なしの眼鏡をかけた三十代半ばほどの男性の先生だった。
仕立ての良い紺色の服をきっちりと着こなし、手元の書類の束を整えてから、教室の三十名を見渡した。
「私はこの第四クラスの担任を受け持つ、ヴァイス・ランゲだ。担当科目は初等法学と領地実務。一年間よろしく頼む」
落ち着いた声の挨拶に、教室の生徒たちも姿勢を正して「よろしくお願いします」と礼儀正しく返した。
隣の席のヨハンも、居住まいを正して耳を傾けている。
「初日の今日は、一年生のカリキュラムと学園生活の流れについて説明する。羊皮紙を配るから、後ろへ回してくれ」
ヴァイス先生の手から最前列へ、講義の予定表が手渡された。
エーリヒの手元にも、端正な書体で印刷された一覧表が届く。
「すでに入学案内でも確認しているだろうが、この学園の一年次カリキュラムは、第一クラスから第四クラスまで原則としてすべて共通だ。扱う教科書も、時間割の骨格も違いはない」
ヴァイス先生はチョークを手に取り、黒板に講義の区分を書いていく。
「一学期は座学が七割、実技が三割だ。座学では数学、基礎魔法学、基礎法学、そして、歴史、内政を学ぶ。実技は、基礎的な魔力操作の訓練と、体力作りのための基礎体育だ。どのクラスであっても、この一年間で身につけるべき最低限の土台に変わりはない」
そこで先生はチョークを置き、眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
「……ただし、だ。学園の理念は公平だが、生徒の理解度や習得速度には当然ながら個人差がある。講義の課題を早く終えた者、あるいはより高度な知識を求める者には、担当教員から個別に発展課題が与えられる仕組みになっている」
教室の空気が少し引き締まった。
「第一や第二クラスの生徒たちは、家柄の重圧や将来の官僚登用を見据えて、競い合うように予習を重ね、先の内容を貪欲に吸収していくだろう。だが、諸君らが焦って背伸びをする必要はない。この第四クラスの講義は、全員が着実に基礎を定着させることを最優先に進める。もちろん、意欲がある者が発展課題を求めるなら、私はいくらでも付き合うつもりだ」
先生は生徒たちを穏やかに見つめ、言葉を継いだ。
「諸君らの中には、十八歳での自立や実務への就職を見据えている者も多いだろう。だからこそ、ここで身につける読み書き、計算、正確な書類作成の技術は、将来必ず諸君らを助ける確かな武器になる。まずは目の前の基礎を一つずつ、丁寧に自分のものにしてほしい」
現実を見据えた、誠実で温かみのある言葉だった。
教室の生徒たちも安心したように頷き合っている。
(全クラス共通の教科書で、進度は個人の習得に合わせて伸ばせる……。僕にとっては、これ以上なくありがたい環境だ)
エーリヒは手元の予定表を見つめながら、内心で深く息を吐いた。
無理に背伸びをして周囲と競う必要はなく、自分の体調を管理しながら、余った時間を図書館での自習や独自の魔力制御の研究に充てることができる。
「ガイダンスは以上だ。今日はこのまま解散とする。各自、寮の自室へ向かい、荷物の整理と身の回りの準備を済ませておくように。明日の朝から本格的な講義が始まるから、遅刻しないようにな」
先生の言葉で、初日のホームルームは静かに幕を閉じた。
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「ふぅ……。ヴァイス先生、すごく真面目でいい先生そうでよかったな」
鞄を抱えたヨハンが、隣から声をかけてきた。
「うん、教え方も分かりやすそうだし、安心したよ。ヨハンはどの部屋になったの?」
「俺は東寮の四階、四十二号室だ。エーリヒは?」
「三階の三十八号室だよ」
「三階か! 階段の上り下り、身体がきつかったら無理するなよ? じゃあ、また明日な!」
「ありがとう、また明日」
気さくに手を振るヨハンと別れ、エーリヒは校舎を出て、敷地の奥に位置する「東寮」へと向かった。
学園の敷地東側に建つ東寮は、五階建ての古い石造りの建物だった。
中央棟に近い豪華な西寮――上級貴族向けの建物とは異なり、こちらはかつて旧校舎の寄宿舎として使われていたもので、質素で重厚な佇まいを見せている。
一段一段、擦り減った石の階段を、息を乱さないよう確かめながら登る。
三階の薄暗い廊下を進み、真鍮プレートに「三十八」と刻まれた扉の前に立った。
鍵穴に鍵を差し込んで回すと、カチャリと重い金属音が響く。
蝶番が少し軋む音を立てて、扉が開いた。
「……よし、ここが僕の部屋か」
部屋の広さは四畳半ほど。
石壁の内側には木板が張られているが、年季が入っていてあちこちの木目が浮いている。
窓枠にはわずかな隙間があり、春の風がかすかに吹き込んでいた。
備え付けの家具は、壁際の木製ベッド、薄いマットレス、角の丸くなった机と椅子、そして小さなクローゼットが一つ。
天井の中央には、手のひら大の簡素な魔導ランプがぶら下がっているだけだ。
だが、エーリヒにとって、この部屋は決して不満なものではなかった。
むしろ、前世で初めて一人暮らしを始めた時の、何もないワンルームのアパートを思い出させて、どこか懐かしく、心地よい静けさがあった。
(誰にも気兼ねせず、自分のためだけに使える空間だ。十分すぎる)
上着を脱いで椅子の背もたれに掛け、エーリヒは手際よく荷物を解き始めた。
母アンナが持たせてくれた胃腸薬の小瓶や乾燥生姜の包みは、机の上の棚へ綺麗に並べた。
引き出しには、長男ジークフリートが持たせてくれた上質な筆記具、予備のインク壺、白紙の羊皮紙を収める。
クローゼットには、替えの制服と肌着を几帳面に畳んで収納した。
そして最後に、ハンカチに包んであった「それ」を取り出した。
本領の川原でレオンが拾ってくれた、天然の屑魔石だ。
机の中央にそっと置き、窓から差し込む夕暮れの光に透かしてみる。
石の奥底で、針先ほどの青白い光が静かに揺らめいていた。
「……うん、いい部屋になりそうだ」
窓枠の隙間風や扉の軋みは、後で手頃な蜜蝋や油を手に入れて手入れをすればいい。
一通り片付けを終えて息をついたその時、部屋の扉がリズミカルにノックされた。
トントントン、と元気のいい音。
「エーリヒ! いるかー?」
聞き慣れたレオンの声だった。
エーリヒが鍵を開けて扉を引くと、第三クラスの制服に身を包んだレオンが、満面の笑みで立っていた。
「ここか! ちょっと迷ったぜ」
「レオン、早かったね。どうぞ」
「お邪魔しまーす! ……うわ、なんだか随分と古風な部屋だな。ちょっと狭くないか?」
部屋に足を踏み入れたレオンは、珍しそうにキョロキョロと見回しながら、ベッドの端に腰を下ろした。
「俺の部屋は二階なんだけどさ、二人部屋だけどこれの倍くらい広くて絨毯も敷いてあるぞ。やっぱり部屋によって結構違うんだな」
「一人で静かに過ごすには、このくらいがちょうどいいよ。掃除もすぐに終わるしね」
「相変わらずだな、お前は。……ほら、もう夕方だぜ。食堂に行こうって約束してただろ? 腹減った!」
「うん、片付けも一段落したし、行こうか」
鍵をかけ、二人は並んで下級寮の階段を下りた。
夕暮れ時の中央食堂は、新入生と上級生たちの賑やかな声で溢れていた。
高いアーチ天井を持つ大ホールには、百人以上が一度に座れる長い木製テーブルが整然と並んでいる。
厨房のカウンターの奥では、白いエプロンをつけた料理人たちが、湯気を立てる大鍋を忙しなく動かしていた。
カウンターで受け取った夕食は、素朴だが温かみのある定食だった。
大きな木皿に盛られた焼きたての黒パン、塩漬け豚肉とキャベツ、豆がたっぷりと入った具沢山のシチュー。
そして、水で割った林檎のノンアルコールシードルが注がれた木製のカップ。
二人は空いている長テーブルの端に並んで腰を下ろした。
「うわ、美味そう! いただきます!」
レオンは待ちきれない様子でスプーンを握り、シチューを一口運んだ。
「あふっ、熱っ……! でも美味い! 肉の味がちゃんとするぞ!」
「ふふ、火傷しないように気をつけて食べなよ」
エーリヒもスプーンを取り、シチューを口に運んだ。
豚肉の適度な塩気と、煮崩れたキャベツの甘みがスープによく溶け出している。
少し固めの黒パンをシチューに浸して柔らかくすると、今の細い胃袋にも無理なく収まってくれた。
「で、レオン。そっちの第三クラスはどうだった?」
「それがさ! 担任の先生、昔は国軍の重装歩兵隊にいたっていう大柄な人でさ。声がすっごく大きくて迫力満点なんだ。『騎士たる者、まずは強靭な足腰を作れ』って言われて、明日の放課後から早速走り込みがあるんだぞ!」
「……走り込みか。僕なら半周で倒れるね」
「ははっ、お前は絶対無理だな! でも、同室の奴は北部の男爵の子でさ、剣の手入れの話ですぐ仲良くなったんだ。結構強そうで、明日の実技が楽しみなんだよ」
筋肉痛も訓練の厳しさも、レオンにとっては新しい挑戦の始まりでしかないようだった。
生き生きと目を輝かせる弟の姿を見て、エーリヒの口元も自然とほころぶ。
武門の空気が肌に合っているようで、本当に何よりだった。
「エーリヒの方はどうだったんだ? 第四クラス」
「こっちも、すごく落ち着いていて良かったよ。担任のヴァイス先生も真面目で誠実な方だし、隣の席になったヨハンっていう子とも仲良くなれた。自立のために基礎をしっかり学ぼうっていう人たちが多くて、安心したよ」
「へえ、友達できたのか! よかったじゃん! ……あ、でも、勉強ばかりして部屋にこもりきりで倒れるなよ? 父上に手紙で言いつけるからな」
「分かってるよ。倒れたら元も子もないからね」
シードルを喉に流し込むと、ほのかな林檎の酸味が疲れた身体に心地よく染み渡った。
大ホールの入り口からは、第一クラスや第二クラスの生徒たちが何人か連れ立って歩いていく姿が見えた。
彼らは一般席の賑わいから少し離れた、追加料金が必要な奥の特別食堂へと向かっていくようだったが、エーリヒにもレオンにも、それを羨むような気持ちは微塵もなかった。
自分の足で立ち、自分の目標に向かって進むための場所が、それぞれの手の中にある。
「ごちそうさま。……美味しかったね」
「おう! 明日の朝も一緒に食おうぜ!」
「いいよ。早起きできたら、ここでね」
夕暮れの食堂の灯りの下、二人の少年は満足そうに笑い合い、それぞれの新しい生活へと歩みを進めていた。




