01-03.領地の台所事情
家族揃っての夕食から、さらに数日が過ぎた。
カブと白身魚のポタージュを毎日少しずつ喉に通し、母アンナに促されて部屋の中を往復するうちに、エーリヒの足腰には目に見えて頼もしさが戻りつつあった。
まだ階段を二往復もすれば息が上がって膝が笑ってしまうが、平坦な廊下をゆっくり歩く程度なら、壁に手をつかなくてもふらつくことはなくなった。
(そろそろ、部屋の外の空気を吸いに行っても怒られないはずだ)
自室の机の上には、レオンが川原で拾ってきてくれた、あの丸っこい小石が置いてある。
表面の泥を湿らせた布で拭き取ると、石のひび割れの奥から、針の先ほどの青い光が今もゆらゆらと漏れ出ていた。
この石の正体、そして自室の魔導ランプの灯りにまとわりつく、あのグラデーションの光。
それを確かめるためには、ベッドの上で寝転がっているだけでは足りない。
エーリヒは羽織を一枚羽織ると、部屋の重い扉をそっと押し開けた。
目指すのは、二階の東端にある小さな書斎だ。
記憶を手繰れば、そこには父ゲルハルトが国軍から持ち帰った戦術書や、領地の管理に必要な帳簿、そして歴代の子爵が集めた雑多な本が収められているはずだった。
板張りの廊下を、足音を忍ばせて進む。
ギシ、と古い床が鳴るたびに足を止め、息を整える。
前世の三十五歳だった頃なら鼻で笑ってしまうような短い距離だが、今の九歳の身体にとっては、これだけでも立派な運動だった。
書斎の扉は、わずかに隙間を開けて解き放たれていた。
中から、カリカリと硬質なペン先が羊皮紙を引っ掻く音が漏れてくる。
「……兄上?」
隙間からそっと顔を覗かせると、部屋の奥の大きなオーク材の机に向かっていた青年が、ハッと顔を上げた。
長男のジークフリートだ。
父ゲルハルトが国軍の部隊へと戻ったあと、実質的な領主代行としてこの本領の政務を一手に引き受けている二十歳の跡継ぎ。
太い眉を寄せて山積みの書類とにらみ合っていたが、エーリヒの姿を見るなり、目元をふっと緩めた。
「エーリヒか。もう歩き回っても大丈夫なのか? 母上に見つかったら、また小言を言われるぞ」
「廊下をゆっくり歩いただけですから、大丈夫です。……お仕事中でしたか?」
「ああ、王都へ納める税の計算と、秋に向けた領内の橋の修繕費の見積もりだ。数字を追っていると、剣を振るうより何倍も肩が凝るよ」
ジークフリートは自嘲気味に笑いながら、羽ペンをインク壺に戻し、大きく伸びをした。
机の上には、革表紙の分厚い帳簿と、領内の地図、そして数字が乱雑に書き殴られた計算用紙が散乱している。
エーリヒは促されるままに机のそばへ寄り、開かれた帳簿を何気なく覗き込んだ。
(……なるほど。四則演算の筆算か)
前世で機械工学の図面や数値計算を扱っていたエーリヒの目には、その帳簿の構造が一目で理解できた。
だが、この世界の計算技術はまだ発展途上らしい。
位取りのルールが不統一で、掛け算や割り算の途中で何度も繰り上がりのミスを消した跡があった。
「……兄上、この東街道の石橋の修繕費、小計が三十クーナほどズレているかもしれません」
「ん? どこだ?」
ジークフリートが怪訝そうに眉を寄せ、エーリヒの細い指先が差す部分を見つめた。
石工の人工と、運び込む石材の荷車代。
繰り上がりの計算を頭の中で反芻したジークフリートの目が、次第に丸くなっていく。
「……本当だ。おい、お前、一目で分かったのか? まだ九歳だろうに、誰に算術を教わったんだ」
「ええと……寝込んでいる間に、昔習った家庭教師の先生のノートを思い出して……」
危ない、とエーリヒは内心で冷や汗をかいた。
子どもの皮を被っていることを忘れて、大人の感覚で口を出してしまった。
だが、ジークフリートは疑うどころか、深く感心したようにエーリヒの頭を大きな手でくしゃりと撫でた。
「助かったよ。父上譲りで、俺はどうも数字の細かい帳尻合わせが苦手でな。……お前がもう少し元気になったら、この退屈な帳簿付けの助手を頼みたいくらいだ」
「僕で役に立つなら、いくらでも手伝いますよ」
エーリヒは苦笑しつつ、散乱した書類の端に目を留めた。
そこには、赤インクで二重線が引かれた見積書があった。
『水車小屋の魔導揚水機・修理工賃:小金貨二枚(約四千クーナ)』。
「……兄上、この水車の修理、見送られたのですか?」
「ああ。高すぎるんだ」
ジークフリートは溜め息をつき、椅子の背もたれに体重を預けた。
「第二都市から専門の魔導技師を呼ぶだけで、出張費として大銀貨が何枚も飛ぶ。その上、器具の内部にある術式回路を焼き直すとなれば、職人の言い値だ。我が家の台所事情では、おいそれと払える額じゃない。結局、村の若い衆を集めて、手動の滑車で水を汲み上げてもらうことにした」
「直せる人間は、この領内にはいないのですか?」
「いるわけがないだろう。魔導具の構造なんてものは、王都や第二都市の限られた工房が特許のように抱え込んでいる秘術だ。俺たちのような田舎の武門貴族は、高い金を払って完成品を買い、壊れたらまた高い金を払って直してもらうしかない。……まったく、割に合わん商売だよ」
ジークフリートの愚痴混じりの言葉は、エーリヒの胸に鋭く突き刺さった。
(魔導具の修理が、九千クーナ………。1クーナは日本円にすると約百円くらいだと元エーリヒの知識から計算ができた。だから……この修理だと約九十万円くらいか……。)
前世で言えば、特殊な産業ロボットの基盤修理を専門メーカーに依頼するようなものだ。確かに妥当ではある。
地方都市の中小企業が泣く泣く手作業で代用する光景と、酷く重なって見えた。
技術がブラックボックス化され、独占されているからこそ、治せる人間の価値が跳ね上がる。
「兄上、少し本をお借りしてもいいですか? 部屋で読みたいのですが」
「ああ、好きなのを持っていけ。父上の昔の戦術論か? それとも歴史書か?」
「……魔法や、魔石の基礎について書かれた本があれば」
「魔法か?」
ジークフリートは少し意外そうに目を瞬かせたが、すぐに立ち上がり、部屋の隅にある埃をかぶった本棚の一角を指差した。
「その棚の下段に、昔、俺やカールが基礎教育で使った古い手引書があるはずだ。魔術師の適性を見るための、ごく初歩的な教本だがな。……お前は身体を動かせない分、そういう知識に興味があるなら、いくらでも読むといい」
「ありがとうございます、兄上」
エーリヒは棚の底から、革の表紙が擦り切れた分厚い一冊を抜き取った。
ずっしりとした重みが、細い両腕に心地よい負荷を与える。
自室に戻ったエーリヒは、机の上に本を広げ、貪るようにページをめくった。
『初等魔導概論――現象の模倣と術式の基礎』。
数十年前の古い版のようだが、書かれている内容はエーリヒが求めていた基礎そのものだった。
本を読み進めるうちに、この世界の魔法の「常識」が輪郭を現していく。
第一に、魔法とは本来、自然界に満ちる現象そのものであること。
第二に、人間がその現象を自らの体内で再現するために、「火・水・風・土」の四大属性に分類されたスクロール(象徴と祝詞が描かれた巻物)を用いて、頭の中に世界観のイメージを構築すること。
第三に、体内の魔力を練り上げ、呪文の詠唱と共にそのイメージを空間へ押し出すことで、初めて現象として具現化すること。
(なるほど……自然界の物理現象を、人間の脳内でシミュレーションするためのインターフェースが『スクロール』というわけか)
前世のプログラミングや制御回路に酷似していた。
人間が生身のままでは扱えない膨大なエネルギーを、決められたシンボルと構文(詠唱)を通すことで、安全に出力させているのだ。
だが、教本を読み進めるほどに、エーリヒの眉間の皺は深くなっていった。
教本には、こう書かれていた。
『魔術の威力と規模は、術者の体内に宿る魔力の総量に比例する。大いなる火球を放つには、大いなる魔力を惜しみなく注ぎ込むべし』
『未熟な者は魔力の放出に澱みが生じ、現象が不発に終わる。魔力は奔流の如く一気に解き放つのが肝要である』
(……大雑把すぎる)
エーリヒは思わずため息を漏らした。
「出力を上げたければ燃料をドバドバ燃やせ」と言っているようなものだ。流路の抵抗も、空気中への放熱ロスも、何一つ考慮されていない。
コン、と控えめなノックの音がして、扉が開いた。
盆の上に湯呑みを載せて入ってきたのは、母のアンナだった。
「エーリヒ、お薬の時間ですよ。……まあ、もう机に向かって本を読んでいるのですか? あまり根を詰めては毒ですよ」
「あ、母上。すみません、少し気になって」
エーリヒは教本を伏せ、アンナが差し出してくれた煎じ薬を受け取った。
独特の苦味が喉を焼くが、身体を温める効果があるのか、胸の奥がじんわりと軽くなる。
湯呑みを盆に返しながら、エーリヒは机の隅に置かれた魔導ランプへ、何気ない調子で視線を向けた。
ランプの火屋の中では、今も青白い色を中心にうっすら黄色、淡い橙色へと、美しいグラデーションを描く光の流体がゆらゆらと立ち上っている。
「母上」
「なあに、エーリヒ?」
「このランプ、とても綺麗ですね。……火屋の周りに、こう、湯気のような、色のついた煙みたいなものが揺れて見えませんか?」
できる限り、子どもの無邪気な感想を装って問いかけてみた。
アンナは不思議そうに目を細め、ランプの火屋をじっと見つめた。
それから、困ったように柔らかく微笑んだ。
「色のついた煙……? いいえ、何も見えませんよ。ランプの魔石が、白っぽく光っているだけです。……エーリヒ、もしかして、まだお熱が残っていて目がかすんでいるのではありませんか?」
心配そうに額へ手を伸ばしてくるアンナの手を、エーリヒは慌てて「なんでもありません」と笑顔で押し留めた。
「少し、光が眩しく見えただけみたいです。熱はありませんから、大丈夫です」
「そう? なら良いのですが……無理はいけませんよ。読み終わったら、すぐに横になるのですよ」
アンナが部屋を出ていき、再び静寂が戻ってきた。
エーリヒは椅子の背もたれに深く体重を預け、冷めやらぬ吐息をそっと吐き出した。
(……やっぱりだ)
見えていない。
母が嘘をついているはずがない。
ということは、母だけではないのだ。
さっきの教本にも、魔石から漏れ出すエネルギーの対流などといった記述は一行たりとも存在しなかった。
ただ「魔石は輝き、熱を放つ」としか書かれていなかった。
(この光の靄……エネルギーの流れそのものが色として知覚できているのは、僕だけなんだ)
前世の知識と、この病弱な身体の変異が合わさった結果なのか、理由は分からない。
だが、確信できることが一つだけあった。
(これは……絶対に、誰にも言ってはいけない)
もし「魔力の流れが色で見える」などと言いふらせば、奇病扱いされるか、あるいは得体の知れない異能として教会や高位貴族に目をつけられる。
武門の弱小子爵家の、何の力もない病弱な三男が抱え込んでいい看板ではない。
エーリヒは呼吸を整え、机の上に転がっていたレオンの小石――天然の屑魔石を右手の掌に乗せた。
目を凝らす。
泥の落ちた滑らかな石の内部に、米粒ほどの大きさの「青い光の淀み」が固まっている。
ランプの魔石に比べれば、あまりに小さく、頼りない輝きだ。
(教本には、人間の中にも魔力が流れていると書いてあった)
エーリヒは左手の人差し指を立て、じっと自分の指先を見つめた。
意識を集中する。
前世で、微小な電気回路にテスターの端子を当てる時のように、神経を極限まで研ぎ澄ませていく。
すると――自分の指先の皮膚の下に、かすかな、本当に微弱な「淡い黄色の光の筋」が走っているのが見えた。
血管よりも細い、頼りない糸のような光。
(あった……! これが、僕自身の魔力か)
教本が言うような「奔流」には程遠い。
小さな毛細血管のような、心許ない出力だ。
だが、エーリヒにとってはそれで十分だった。
息を止め、左手の人差し指を、掌の上の屑魔石へとゆっくり近づけていく。
触れるか触れないかの、紙一重の距離。
指先の淡い黄色の光を、石の中にある青い光の淀みへと、そっと伸ばすイメージを描く。
ドバッと押し出すのではない。
二つの接点を繋ぐ、最小限のバイパスを架けるように。
カチリ、と頭の奥で何かが噛み合うような感覚があった。
指先の黄色い光が、石のひび割れを通じて青い光と接触した瞬間――。
パチッ!。
静電気のような微かな音と共に、屑魔石の表面が、ほんの一瞬だけ鮮やかな青白さに跳ね上がった。
同時に、エーリヒの指先に、ピリッとした心地よい痺れと、ほんのりとした温もりが伝わってくる。
「……っ」
わずか数秒の干渉。
それだけで、エーリヒの頭にズキンと鋭い立ちくらみが走り、視界がぐらりと揺れた。
慌てて指を離すと、石の光は元の静かな青い淀みに戻り、指先の黄色の光も皮膚の奥へと引っ込んでいく。
「はぁ……はぁっ……」
机に両手をつき、荒い呼吸を整える。
心臓が激しく脈打ち、指先が微かに震えていた。
魔力を使ったことによる、肉体的な疲労だ。
本当に、呆れるほどキャパシティが小さい。
教本に書かれているような初級の火球魔法など使おうものなら、発動する前に卒倒してしまうだろう。
だが――エーリヒの口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。
(繋がった……!)
見えた通りに魔力を流せば、魔石は反応する。
大魔力で強引に押し流す必要などない。
回路の結節点を正しく捉え、最小限の力で触れてやれば、石のエネルギーは引き出せるのだ。
魔導具の修理費は、小金貨二枚。
田舎の武門貴族が悲鳴を上げるほどの高額な技術。
そして、自分には、他の魔導師には決して見えない「回路の淀みと流れ」が、色温度のグラデーションとして見えている。
(十八歳までに、自立する……)
剣も振るえず、鎧も着られず、大魔法をぶっ放すこともできない。
けれど、この目と、前世の論理的な思考があれば、道は必ず作れる。
壊れた魔導具の回路を解き明かし、最小の魔力で組み替え、修理する技術者としての道が。
エーリヒは掌の中の冷たい小石をそっと握りしめ、前世から染み付いた職人の血が、静かに熱を帯びていくのを感じていた。




