01-02.九歳の病み上がり
死の淵から引き返したあの日、母アンナの手を握り返したあとの記憶はほとんど残っていなかった。
張り詰めていた糸が切れたように深い眠りに落ち、目覚めたときにはすでに二日が過ぎていたらしい。
それからさらに三日。
峠を越えたエーリヒの身体は、カメのような歩みではあるものの、確実に快方へと向かっていた。
「……ふう、よし」
枕元に背中を預け、ようやく自力で上体を起こす。
たったそれだけの動作で肺が小さく軋み、額に薄っすらと汗が滲んだ。
三十五年の大人の記憶が頭にあっても、肉体は九歳の病み上がりそのものだ。
筋力は落ち窪み、腕は木の枝のように細い。
ふと視線を落とすと、部屋の隅にある真鍮の魔導ランプが目に入った。
数日前に目覚めたときと同じだ。
芯にある小さな魔石の周囲には、青白から淡い橙色へと移ろう光の靄が、まるで湯気のようにゆらゆらと対流している。
目を細め、じっと見つめてみる。
やはり消えない。
高熱で脳が焼かれた幻覚などではなく、何らかの理由で「見えて」しまっている、という感じだ。
それが何を意味するのかは分からない。『エーリヒ』の記憶にもこの光についてのことはなさそうだ。
ただ、魔石が灯りを生み出すプロセスに、前世で見た熱力学や流体力学のシミュレーションに近い規則性があることだけは、直感的に理解できた。
ぎぎ、と廊下の向こうから遠慮のない足音が響いてきたのは、そんな思考に沈んでいたときだった。
ドタバタと板張りの床を乱暴に踏み鳴らす音。
続いて、バタン! と立て付けの悪い扉が勢いよく弾け飛ぶように開かれた。
「おい! エーリヒ! 起きてるのか!?」
飛び込んできたのは、息を切らし、額にびっしりと汗を浮かべた少年だった。
手には、使い込まれてところどころが凹んだ樫の木の木剣。
粗末な麻の稽古着は土埃にまみれ、膝小僧にはすり傷が赤くにじんでいる。
クラインフェルト子爵家の四男、エーリヒと同い年の九歳になるレオンだった。
「……うるさいな、レオン。ノックくらいしてよ」
掠れた声でそう返すと、レオンは大きく目を見張り、その場にピタッと固まった。
それから、持っていた木剣を床に放り出し、埃っぽい服のままベッドの脇へ駆け寄ってきた。
「しゃべった……! 起き上がってるし! お前、本当に大丈夫なんだな!?」
「うん。まだ長くは動けないけど、熱はもうないよ」
埃と汗の匂いを漂わせるレオンの顔を、エーリヒはまじまじと見上げた。
同じ九歳。
だが、自分とはまるで違った。
第二夫人であるマルテの血を引くレオンは、骨太で、肌は陽に焼けて浅黒く、腕にはすでに引き締まった筋肉の筋が見え始めている。
毎日朝から晩まで中庭で素振りを繰り返し、指南役に怒鳴られながら駆け回っている、典型的な武門の少年の姿だ。
そのレオンが、いまにも泣き出しそうな顔で鼻の頭を赤くしていた。
「お前、あの日ちょっと目を覚ましたあと、また丸二日も起きねえから……! 母上もアンナ様も泣いてただろ! 俺、もうお前がこのまま息を引き取るんじゃないかって……!」
「……悪かったよ。心配かけたね」
前世の大人の意識が、素直になれない少年の不器用な情動を痛いほど理解してしまう。
武門の家にあって、生まれつき身体の弱い正妻の三男と、元気いっぱいだが立場としては側妻の四男。
周囲の大人たちがどうあれ、子ども同士の二人は、ずっと同じ屋敷の中で育ってきた遊び相手であり、兄弟だった。
レオンはぐすっと鼻をすすり上げると、誤魔化すように自分のポケットをごそごそとまさぐり始めた。
「ほ、ほら! これやるよ! お前が寝込んでる間に、裏の川原で見つけたんだ!」
そう言ってベッドの上に突き出されたのは、掌に収まるほどの丸っこい小石だった。
川の水で削られたのか表面は滑らかだが、泥の筋がついている。
子どもの宝物そのものだ。
「川の石……?」
「ただの石じゃねえぞ! 夕方になると、なんかピカピカ光るんだ! お前、昔からこういう変な石とか鉱石を集めるの好きだったろ? だから、持ってきたら起きるかと思って……」
言いながら、レオンはきまり悪そうに視線を泳がせる。
エーリヒはその石をそっと指先で摘まみ上げた。
泥に混じって、ごくわずかに冷たい感触がある。
そして――エーリヒの目には、その石の内部に、針の先ほどの極小の「青い光の淀み」が宿っているのが見えた。
(これ……ほんのわずかに魔力を帯びた、天然の屑魔石か。川上から流れてきたんだな)
光の筋が、石のひび割れに沿って微かに漏れ出している。
普通の人間には、夕暮れの薄暗がりでなければ気づけないほどの微弱な輝きだ。
「……ありがとう、レオン。すごく綺麗な石だね。大切にするよ」
「だ、だろ!? お前がもっと元気になったら、また一緒に拾いに行ってやってもいいぞ! だから、もう変な熱出して寝込むなよな!」
レオンは誇らしげに胸を張り、それから床に落ちていた木剣を拾い上げた。
その時、廊下の奥から「レオン! 泥だらけの足で上がり込んで、またエーリヒを困らせているのですか!」と、第二夫人マルテの穏やかな、けれど芯の通った叱責の声が響いてきた。
「うわっ、母上だ! また怒られる……! エーリヒ、またな!」
レオンは慌てふためいて部屋を飛び出していった。
嵐のような静けさが戻ってきた部屋で、エーリヒは掌の中の小さな石を見つめ、思わずふっと笑みをこぼした。
身体は弱く、立っているだけで精一杯の自分。
けれど、この家には、自分の命を心から案じてくれる者たちがいる。
前世の薄暗い孤独な記憶が、じんわりと温められていくような気がした。
そのまた、三日後。
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熱が完全に引き、部屋の中を少しずつ歩けるようになっていたエーリヒは、二週間ぶりに一階の食堂へと下りることになった。
「無理をしてはいけませんよ、エーリヒ。少しでもふらついたら、すぐに言うのですよ」
母アンナが付き添い、ゆっくりと階段を下りる。
クラインフェルト子爵家の屋敷は、王都から馬車で二日ほどの距離にある本領の館だ。
派手な絵画や金箔の調度品といった過剰な贅沢はないが、手入れの行き届いた古い槍や盾が整然と並び、床の板張りも塵一つなく磨かれている。
決して派手ではないが、貴族の家としての品格と規律をしっかりと保っていた。
食堂の重い扉を開けると、湯気と共に、香ばしい肉と煮込みの匂いが鼻腔をくすぐった。
「おお、エーリヒ! よくぞ降りてこられたな!」
暖炉の前の長机。
上座に座っていた大柄な男が、太い眉を揺らして立ち上がった。
父ゲルハルトだ。
今年で四十四歳。
国軍の部隊を預かる指揮官であり、筋骨隆々の体躯と、顔に刻まれた細かな古傷が歴戦の武人であることを物語っている。
普段は滅多に感情を表に出さない厳格な父だが、その瞳には明らかな安堵の色が浮かんでいた。
「父上、ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
エーリヒが頭を下げると、ゲルハルトは大きな掌をエーリヒの細い肩にそっと置いた。
怪力を誇る軍人とは思えないほど、羽毛に触れるような優しい力加減だった。
「謝る必要などない。生き延びた、それだけで十分だ。さあ、座りなさい。身体を冷やしてはならん」
長机の周りには、家族が勢揃いしていた。
長男で二十歳のジークフリート。
父によく似た体格で、すでに領主代行として領内の政務や部隊の差配を学んでいる頼もしい跡継ぎだ。
弟を見るなり、破顔して大きく頷いた。
「本当によかったな、エーリヒ。父上も母上も、王都から早馬で駆け戻ってこられたんだぞ」
「ええ、本当に肝を冷やしたわ。これ以上寝込まれたら、私の持っている綺麗なリボンを全部お前の部屋に飾り付けてやろうかと思ったくらいよ」
そう言って柔らかく微笑んだのは、十七歳になる長女のエイミだ。
社交界デビューを控え、大人の女性らしい落ち着きを漂わせているが、弟をからかう口調には深い親愛が滲んでいる。
その隣には、穏やかな笑みを浮かべた第二夫人のマルテと、その膝の上で「おにいちゃま!」と手を振る六歳の妹イルゼ。
さっきまで素振りをしていたのか、髪を濡らしたレオンも端の席に座っていた。
やがて、給仕によって夕食が運ばれてきた。
長机の中央には、大麦を混ぜて香ばしく焼き上げた黒パンと、塩漬けの豚肉とカブを煮込んだ濁りスープ、それに蒸したジャガイモに似た根菜が大皿にたっぷりと盛られている。
質素ではあるが、武門の家らしく滋味とボリュームにあふれた温かい料理だ。
ジークフリートやレオンの皿には、山盛りの肉とパンが次々と取り分けられていく。
だが、エーリヒの前に置かれたのは、それらとは別に用意された白い陶器の小鉢だった。
湯気を立てているのは、丁寧に裏ごしされたカブと玉ねぎ、それに川魚の白身を細かく解してミルクで煮込んだポタージュだった。
パンも、エーリヒの分だけは薄く切られ、スープに浸して柔らかくできるように配慮されている。
「エーリヒ、これ、マルテさんと一緒に作ったのですよ。まだ胃が驚いてはいけませんからね」
アンナが優しく微笑み、隣のマルテも柔らかく頷く。
「ええ。塩気も薄めにしてありますから、喉を通しやすいはずです。無理に全部食べなくてもいいのですよ」
「……ありがとうございます、母上、マルテ様」
木のスプーンを手に取り、ポタージュをひとすくい口に運ぶ。
じんわりとした野菜の甘みと、滋味あふれる魚の出汁が、弱った胃袋に染み渡っていく。
男所帯の荒っぽい食卓の中で、病弱な自分のためにこれほど手間のかかる料理をわざわざ別仕立てで用意してくれた。
その温かさに、胸の奥が熱くなる。
食卓では、穏やかな歓談が続いていた。
父ゲルハルトが数日後には王都の国軍部隊へ戻らねばならないこと。
留守中の領地の見回りや街道の整備について、ジークフリートがしっかりと引き継ぎを受けていること。
レオンが指南役に褒められたと胸を張り、エイミが「自慢するなら服の泥を落としてからにしなさい」とたしなめる声。
その温かいやり取りを耳にしながら、エーリヒはスープを啜りつつ、少年の記憶を一つ一つ、大人の意識で手繰り寄せていた。
(ここは……ロゼルシア王国。小国がせめぎ合う地帯にある、中世風の国だ)
前世の地球とはまったく違う。
部屋の明かりにも、レオンが拾ってきた小石にも「魔力」が宿り、魔導具や魔法という超常の技術が当たり前に生活や戦争に組み込まれている世界。
そして、貴族の掟。
家と領地を継ぐのは長男のジークフリートだ。
次男のカールは万が一の予備役でもあるが、まずは騎士として外で身を立てるべく学校で学んでいる。
四男のレオンも同じく騎士を目指して鍛錬に励んでいるところだ。
この国では、家を継ぐもの以外の子は、原則として十八歳までに自らの看板を掲げて独り立ちしなければならない。
(十八歳までの、あと九年……)
今はこうして、両親も兄姉も自分を心から愛し、温かく守ってくれている。
だが、武芸も振るえず、身体も弱く、家を継ぐ立場でもない三男坊が、いつまでもこの優しい庇護に甘え続けられるわけがない。
大人になって何の役にも立たないまま実家にぶら下がり続ければ、いずれ家の重荷になり、家族の関係すら歪ませてしまう。
前世の自分は、三十五歳で突然の事故に遭い、両親にまともな恩返しもできないまま命を落とした。
だからこそ――今世では、この心優しい家族の重荷になるわけにはいかなかった。
(生き残るだけじゃダメだ。この身体でも、自分の足で立てるようにならなきゃいけない)
剣を振るうことはできない。
重い鎧を着て戦場を駆けることも、この身体では不可能だ。
だとしたら、自分に何ができるのか。
この世界にはどんな知識があり、どんな技術があるのか。
自分の目に見えているあの「魔力の光」は何なのか。
(まずは体力を戻すこと。そして、この世界のことをもっと知らなきゃ始まらない)
いま口にしているポタージュの温かさを噛み締めながら、エーリヒは心の中で静かに誓った。
焦る必要はない。
まだ自分は九歳だ。
まずは立ち上がり、本を開き、この世界で自分の足で生きていくための「道」をじっくりと探していくのだ。
「エーリヒ、おいしい?」
隣で妹のイルゼが、無邪気に顔を覗き込んできた。
「うん、すごくおいしいよ、イルゼ」
エーリヒは柔らかく微笑み、もう一口、温かいスープを口へと運んだ。




