01-01.プロローグ
死ぬ瞬間というのは、意外なほどあっけないものだった。
深夜の高速バス。
雨で滑った大型トラックのヘッドライトが網膜を焼いて、激しい衝撃のあと、意識のブレーカーが落ちた。
三十五年の短い人生の、あまりにあっけない幕切れだった。
――なのに、まだ息がある。
喉が焼けるように熱く、胸が鉛のように重い。
「……ん、う……」
掠れた声を絞り出しながら、少年はゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたオフィスの蛍光灯でも、無機質な病室の天井でもない。
節の浮き出た無骨な木目の梁と、白漆喰で固められた高い天井だった。
頭の芯がずきずきと痛み、二つの記憶が濁流のように混ざり合っていく。
日本で三十五年間を生きた大人の記憶。
そしてもう一つ――元々病弱でここ数年も寝込みがちだったところへ、質の悪い流行り病をもらい、二週間近く生死の境をさまよっていた九歳の少年の記憶。
(……二週間も寝たきりだったのか。よく生き残れたな、これ……)
毛布から這い出た自分の腕を見てみる。
白く、骨の形が浮き出るほど細い。
ただ起き上がろうと体重を支えただけで肘が小刻みに震え、心臓が早鐘を打って激しいめまいが襲ってきた。
筋力も体力も底をついている。
今ここで風邪でもぶり返せば、本当に命を落としかねない脆さだ。
だが、身体の限界以上に気になったのは、目の前の「光景」だった。
部屋の隅に置かれた真鍮製の置き型ランプ。
その火屋の奥にある小さな鉱石から、ぼんやりとした光の靄が立ち上っている。
いや、光というよりは「熱の分布」に近い。
中心部は澄んだ青白色に輝き、外縁部に向かって黄色から淡い橙色へと、色温度のグラデーションを描いて空気に溶け出していた。
(なんだこれ……? 魔石……だよな。こういうものなのか……?)
少年の記憶を探っても、それが生活に使われる「魔石」というものだということくらいしか分からない。
魔石の明かりというのは、普通こんな風に周りへ色温度の流体のようなものが立ち上るものなのだろうか。
それとも、二週間も高熱で寝込んでいたせいで、網膜が焼き付いておかしな見え方をしているだけなのか。
ぎぎ、と重い木製の扉がきしむ音を立てて開いた。
「……! エーリヒ……? ああ、神よ……! 気がついたのですね!」
盆に湯呑みを載せて入ってきたのは、質素なドレスを纏った女性――母親のアンナだった。
軍人の妻らしく普段は凛とした佇まいを崩さない人だが、今はなりふり構わず駆け寄り、ベッドの縁に膝をついて少年の手を固く握りしめた。
「母上……」
「よかった……本当に、よかった……! 熱が下がらなければ、もう手の施しようがないとお医者様に言われていたのですよ。お父様も、ジークフリートも……みんな心配していました」
アンナの目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
前世では親孝行らしいこともできず、突然の事故で先に逝ってしまった。
その苦い後悔が胸の奥をチクチクと刺す。
この細く頼りない手で母親の手をそっと握り返しながら、少年――エーリヒは小さく息を吐いた。
「ご心配をおかけしました。……もう、大丈夫ですから」
喉を通る掠れた声は、自分でも頼りない。
それでも、奇跡的に二度目の命を拾ったのは事実だ。
(まずは、ちゃんと生き延びなきゃな)
今はまず、この折れそうな身体に少しでも肉をつけ、息を整え、二度と高熱で倒れないように体調を管理すること。
死なずに生きること、それが今の自分に課せられた最初の、そして最大の目標だった。
エーリヒは枕元の棚に置かれた、不思議な色温度のグラデーションを揺らす魔導ランプをぼんやりと見つめながら、静かに再び目を閉じた。




