01-13.賑やかな夕食
入学から二週間が過ぎようとしていた。
講義の進め方や時間割にもすっかり慣れ、第四クラスの教室には落ち着いた日常のリズムが定着しつつあった。
週の後半、午前中に行われたのは、すでに何度目かの受講となる「基礎魔法学」の講義だった。
教壇に立つ女性の先生が、黒板に大きく四大属性――「火」「水」「風」「土」の文字を書き、チョークを鳴らす。
「――さて、これまでも学んできた通り、魔法を放つための第一歩は『頭の中の明確なイメージ』です。炎を呼び出したいのに、水や風の生ぬるさを思い浮かべていては、魔力は形を成しません」
先生は教卓から一本の古びた羊皮紙の巻物――初歩のスクロールを広げて見せた。
そこには炎の象徴紋様と、短い祝詞のような文言が記されている。
「人間は、頭の中だけでゼロから完璧な自然現象を想像することはできません。だからこそ、先人たちが体系化したこの『スクロール』に書かれたシンボルや構文を見て、頭に焼き付けるのです。巻物に描かれた属性の象徴を心に描き、決められた構文――すなわち『詠唱』を紡ぐことで、初めて体内の魔力が決められた型へと流し込まれ、狙った現象となって空間へ放たれます」
教室の生徒たちは頷きながら、手元の教本にペンを走らせている。
エーリヒもまた、教科書の余白に自分なりの整理を書き留めていた。
(なるほど……。実家の本で読んだ時も思ったけれど、すごく分かりやすいな。人間が直感的に扱えない巨大な魔力エネルギーを、スクロールという『設計図』と詠唱という『実行コマンド』を通して、安全に出力させているわけだ)
大雑把に見えた魔法の詠唱も、暴走を防ぎつつ誰でも同じ現象を再現するための合理的な手順なのだと納得がいった。
続く二時間目の講義は、担任のヴァイス先生による「基礎法学」だった。
縁なし眼鏡を押し上げたヴァイス先生は、黒板に大きな三角形のピラミッド図を描いてみせた。
「……さて、今日は我が国の『法の仕組み』について整理しよう。法学と聞くと無数の難しい条文を丸暗記するものだと思いがちだが、基本の形は至って単純だ」
先生はピラミッドの一番頂点をチョークで強く叩いた。
「まず、我がロゼルシア王国のすべての法律の頂点に君臨し、絶対に揺るがしてはならない唯一無二の根本原理が存在する。それが、三百五十年前の建国時に初代ルディガー王が定めた『鉄の誓い』だ」
教室の空気が、自然と引き締まる。
「『王も貴族も、国土と民を預かる公僕に過ぎない』という誓約だな。そして、この最も偉大な頂点の誓いから枝分かれするようにして、その下に『領地統治法』や『国軍軍律』があり、さらにその下へと、街の商取引や水利権、税の徴収基準といった具体的で細かな法律が、何百、何千と連なってぶら下がっている」
(……要は、前世でいう『憲法』みたいなものか)
エーリヒは内心で深く頷いた。
「ここで重要なのは、下にあるどんな法律や領主の命令であっても、一番上にある『鉄の誓い』に反することは絶対に許されない、という点だ。どれほど大貴族であろうと、民を理不尽に搾取したり法を無視して私腹を肥やせば、根本の誓いに背いた罪として、容赦なく領地を召し上げられる。法律とは、弱い者を縛る鎖ではなく、権力を持つ者が暴走しないための重石なのだ」
隣の席のヨハンをはじめ、教室の少年少女たちは真剣な顔でピラミッドの図をノートへ写し取っていた。
王や大貴族の我が儘を通さないための、厳格な法治ピラミッド。
前世の近代法治国家の理念がそのまま根付いているこの国の仕組みに、エーリヒは改めて深い敬意と安心感を抱いていた。
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そして迎えた五曜日の放課後。
明日からは待ちに待った二日間の休日だ。
東寮の一階、男女共用談話室のソファで、エーリヒはヨハン、クララと一緒に並んで座り、雑談をしていた。
「明日は休みだし、またいまから市場へ行こうと思ってるんだ。夜は地下の炊事場でスープを作って自炊しようかなって」
エーリヒが言うと、ヨハンが目を輝かせた。
「いいな! 前にエーリヒが作ってたあのスープ、めちゃくちゃ美味そうだったもんなぁ。俺も一口食ってみたいぜ」
「ふふ、私もです。もしよかったら、材料の買い出しをお手伝いさせてくれませんか?」
クララがおっとりと微笑み、話がまとまった。
一度部屋に財布を取りに戻り、改めてさあこれから出かけよう、と言ったその時だった。
「――おーい! エーリヒ!」
同じ東寮の二階から階段をドタバタと駆け下りてきたのは、レオンだった。
第三クラスの部屋は少し広くて設備も良いが、同じ下級寮である東寮に暮らしているため、談話室や地下のキッチンは共通だ。
そしてその背後には、同じ第三クラスの鍛錬着を着た、日焼けした大柄な少年が恐縮そうについてきていた。
「レオン、急に大きな声を出さないでよ」
「へへっ、すまんすまん! 実はさ、エーリヒが自炊するって聞いて、俺の部屋の同室の奴を連れてきたんだ!」
レオンが胸を張って振り返ると、大柄な少年が一歩前に出て、姿勢をピンと正して頭を下げた。
「突然押しかけてしまい、申し訳ありません。レオンの同室で、第三クラスに在籍しておりますトビアス・フォン・アルトマンと申します。……クラインフェルト子爵家のご令息であるエーリヒ様のお手を煩わせるのは大変恐縮なのですが、レオンから手料理の話を伺い、不躾ながら同行させていただきました」
トビアスは北部の男爵家の長男だった。
本来であれば男爵家の跡取りが子爵家の三男に過度にへりくだる必要はないはずだが、相手は名門の武門子爵家。しかも初対面とあって、非常に改まった固い口調だった。
エーリヒは苦笑し、手で軽く制した。
「トビアス君、丁寧な挨拶をありがとう。でも、そんなにかしこまらなくていいよ。僕は三男坊だし、この通り下級クラスの部屋住みだからね。爵位の礼儀は抜きにして、普通に話そう」
「えっ……ですが、よろしいのですか?」
「うん、全然気にしないで。ほら、隣のヨハンもクララも、みんな同級生同士で気楽にやってるからさ」
エーリヒが気さくに笑いかけると、トビアスはホッと胸を撫で下ろし、年相応の少年の顔になった。
「あ、ありがとうございます! 助かります。実は毎日走り込みばかりで腹が減って死にそうなんですが、実家の仕送りも限られていて、食堂の定食だけじゃどうしても量が足りなくて……」
「よし、なら今夜は五人で豪快に作ろうぜ!」
レオンが嬉しそうに声を張り上げる。
育ち盛りの十歳が五人。スープだけではとても胃袋が満たされないだろう。
「よし、ならメニューを増やそう。手分けして市場へ買い出しに行こうか」
エーリヒの提案で、即座に役割分担が決まった。
体力自慢のレオンとトビアスが市場の肉屋と八百屋へ走り、豚の端肉とソーセージ、ジャガイモ、玉ねぎを調達。
クララとヨハンがパン屋と食品雑貨屋を回り、大きな黒パンと調味料を買い込んでくることになった。
買い出し組を待つ間、エーリヒは東寮の地下にある共同炊事場へと降り、竈の火を起こした。
石造りの薄暗い炊事場には、大きな薪竈と、何十人分もの煮込みに使える巨大な寸胴鍋や平鍋が備え付けられている。
四人が戻ってくるまでに鍋や調理器具の準備を済ませる。
やがて二組が両手いっぱいに食材を抱えて戻ってきた。
「よし、エーリヒ! 俺たちも手伝うぞ! 将来騎士になったら、遠征先や野営地で自分たちの飯くらい作れなきゃいけないからな!」
「俺も手伝うぜ!」
レオンとヨハンが腕まくりをして参戦してきたのだが――。
「わっ、ヨハン、危ない! 包丁の切っ先を人に向けるな!」
「レオン! ジャガイモの皮を削りすぎて、身が半分なくなってるよ!」
「うわっ、竈の薪を一気にくべすぎるな! 火が強すぎて底が焦げ付く!」
料理経験ゼロの騎士志望の二人だ。教えながら段取りを組む作業は、一人で作るよりも三倍は神経と体力をすり減らした。
「……二人とも、ありがとう。野菜を木桶の水で洗う係をお願いしていいかな?」
「お、おう、任せろ!」
危険な作業から遠ざけ、クララに手元を手伝ってもらいながら、エーリヒは手際よく三品の調理を進めていった。
一品目は、大鍋の具沢山スープ。
炒めた豚の端肉の脂で玉ねぎとジャガイモを炒め、水を注いで塩とハーブでじっくり煮込んだ滋味あふれる一品だ。
二品目は、温かいポテトサラダ。
竈の網で茹で上げた大振りのジャガイモと玉ねぎを熱いうちに木べらで粗くつぶし、塩、油、ハーブ、わずかな酢でさっと和えただけの、よくこの国で食べられる、素朴な温サラダだ。
そして三品目は、ソーセージのカレー粉炒め。
トビアスたちが買ってきた安物肉のソーセージをぶつ切りにして鉄鍋でこんがりと焼き、香辛料――カレー粉をパッと振りかけて香ばしく炒め合わせただけのもの。肉自体が貧相でも味付けがされていればそれなりに食べられる味になるはずだ。
スパイシーな煙が炊事場いっぱいに広がり、見守っていた少年たちの喉がゴクリと鳴る。
出来上がった料理を大皿と寸胴鍋に盛り、トビアスとレオンが二人がかりで一階まで運び上げた。
東寮の一階、男女共用談話室の端の丸テーブルには、溢れんばかりのご馳走が並んだ。
湯気を立てる熱々のスープ、ホクホクとした温かいポテトサラダ、食欲を激しく刺激するカレー風味のソーセージ炒め、そして山盛りにスライスされた黒パン。
「うわあ……すごい量だ!」
「よし、全員揃ったな! いただきます!」
スプーンを手にした五人が、一斉に料理にかぶりついた。
「うめぇぇぇっ! なんだこのソーセージ、あの値段でこの味かよ!」
「このポテト、酸味と塩気が効いてていくらでも食える!」
レオンとトビアスが猛烈な勢いでパンにソーセージを挟み、サラダを山盛りに頬張る。
ヨハンも「これ、腹いっぱい食っても一人頭二、三クーナ程度だろ!? 信じられねえ!」と目を丸くしてスープを飲み干し、クララもおっとりと笑いながら「みんなで囲むと、すごく賑やかで美味しいですね」と嬉しそうにフォークを動かしていた。
宮廷料理のような洗練された美味さでも、食堂の定食と比べて劇的に味が勝っているわけでもない。
けれど、出来立ての温かさと、十歳のお腹をこれでもかと満たしてくれる圧倒的なボリューム感。
一人あたりわずか二〜三クーナ(約二百〜三百円)の出し合いで、気兼ねなく腹一杯になれる幸せが、そこにはあった。
ふと顔を上げると、談話室のあちこちから視線を感じた。
ソファで課題をしていた上級生や、部屋へ戻ろうとしていた他の生徒たちが足を止め、こちらのテーブルを物珍しそうに眺めている。
「おい、あいつら何食ってるんだ……? 寮の談話室で、あんな美味そうな匂い……」
「第三クラスの連中と第四クラスの奴らが混ざってるぞ。あの大皿料理、自分たちで作ったのか?」
「子爵家のクラインフェルトの三男坊が仕切ってるらしいぞ……」
下級寮の談話室に漂う、香ばしい湯気とスパイスの香り。
周囲の羨望と驚きの視線を一身に浴びながら、エーリヒたちの賑やかで温かい週末の前夜は、気兼ねのない笑い声とともに更けていった。




