01-12.渡り廊下の視線
大図書館の分厚い専門書に手も足も出なかったあの日以来、エーリヒは自らの学習方針を根本から見直していた。
背伸びをしても意味はない。
前世で機械工学の知識があったとしても、ここは未知のエネルギー「魔力」が物理法則と混ざり合う異世界だ。
基礎の土台が抜け落ちた状態で高価な魔導具を分解しようとすれば、それこそ怪我をするか、せっかく手に入れた計測器を粗大ゴミにするのが関の山だった。
(まずは、手元にある確実な武器から片付ける。そして、言葉の壁を一つずつ崩すんだ)
エーリヒはまず、ヴァイス先生から託された発展課題――「独立監査院の過去事例に関する記録文書」の精読から手を付けた。
これはまさに、前世の思考回路がそのまま武器になる領域だった。
放課後、机の上のランプの下で広げた記録には、ある地方の徴税官が地方領主と結託し、治水工事の予算を何年にもわたって横領していた手口が生々しく記されていた。
脱穀減耗率の段階的な改ざん、石材の運搬日数の不自然な水増し、架空の補修工事を帳簿上でループさせる資金洗浄。
(……巧妙に見せかけているけれど、数字の辻褄を追えば綻びだらけだ)
前世の技術者時代、資材調達の歩留まりや下請けへの発注管理で嫌というほど帳簿と突き合わされてきたエーリヒにとって、数字の裏にある「人間の欲と誤魔化し」を暴く作業は、まるで上質な推理小説を読み解くような知的な快感に満ちていた。
羊皮紙の余白に、前世の監査フローに似た時系列のチャートと資金移動の図式をサラサラと書き足していく。
これなら、ヴァイス先生への報告書も近いうちに完璧な形で提出できそうだった。
そしてもう一つ、エーリヒが始めた地道な日課が「魔導用語の翻訳」だった。
大図書館の奥にある難解な学術書棚には近づかず、一年生の教科書である『基礎魔法学』や、閲覧室の手前にある『初等魔導用語辞典』をイチから引き直した。
『ルディック環の歪み』――おそらく、誘導起電力や磁場のような、魔力が円環を巡る際に生じる干渉波のこと。
『青銅境界面の魔導浸透圧』――金属内部への魔力の浸透しやすさ、つまり導電率や電気抵抗の逆数に近い概念。
教科書の曖昧で抽象的な表現を、前世の物理・工学用語と突き合わせ、自分だけの「翻訳対照ノート」へと一項目ずつ丁寧に書き起こしていく。
地味で果てしない作業だが、この世界の言葉を自分の思考の言葉へと置き換えていく感覚は、確実に霧を晴らしてくれていた。
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そして迎えた週の後半、二度目の「基礎体育」の講義。
場所はあの大運動場、今回も第三クラスとの合同だ。
バウマン先生の野太い号令が青空に響き、生徒たちが一斉にグラウンドを駆け出す。
「よーし、今日も気合い入れていくぞー!」
先頭を軽快なフォームで引っ張るのは、やはりレオンだった。
その後ろを、歯を食いしばったヨハンをはじめとする生徒たちが必死に追随していく。
一方、エーリヒはといえば――。
(……うん、やっぱりダメだ)
スタートしてわずか半周。
肺の奥がキュッと縮み、心臓がバクバクと警告音を鳴らし始めた瞬間、エーリヒは早々に足を緩めた。
無理をして失神すれば、また周囲に余計な迷惑をかけるだけだ。
情けない足取りでコースの外へと離脱すると、巡回していたバウマン先生が苦笑いを浮かべて手を振った。
「無理は禁物だ、クラインフェルト! 木陰で休んでいろ!」
「はい、すみません……」
息を整えながら、エーリヒは運動場の隅にある大きな樫の木の下へと向かった。
そこには、すでに先客がいた。
「……あ、エーリヒ。お疲れさま」
ベンチに座っていたクララが、丸い瞳を細めて柔らかく微笑み、手元にあった木製の水筒を差し出してくれた。
「ありがとう、クララ。……今日も早かったね」
「うん。最初の腕立て伏せで腕がプルプル震えちゃって、バウマン先生に『よし、お前は向こうの木陰へ行け』って即座に言われちゃった」
照れくさそうに笑うクララの隣に腰を下ろし、冷たい水を喉へ流し込む。
運動場の中央では、砂埃を巻き上げながら生徒たちが汗を流し、バウマン先生の怒号が響いている。
だが、この木陰のベンチだけは、まるで時間の流れが違うかのように穏やかな風が吹き抜けていた。
呼吸が落ち着いてくると、エーリヒはベンチから立ち上がった。
グラウンド脇に設けられたクラス別の荷物置き場まで歩き、棚に置いていた自分の革鞄を抱えて木陰へと戻ってくる。
鞄の留め金を外し、中から一冊の厚い自習ノートと、図書館から借りてきた初等用語辞典を取り出した。
ベンチに座り直し、膝の上に本とノートを広げて羽ペンのキャップを外す。
「……エーリヒ、それ何の本? 体育の時間なのに、勉強するの?」
不思議そうに覗き込んでくるクララに、エーリヒはノートの端を指差して見せた。
「うん。この間の魔力操作の授業で、言葉の意味がよく分からないところが多くてね。教科書の言葉を、自分なりに分かりやすい意味に書き直しているんだ」
「へぇ……すごい。字がすごく細かくて綺麗」
クララは感心したようにノートの図を見つめた。
「私、魔法の理屈って全然分からなくて……実家の領地でも、お父様や兄様が『魔力は気合いで押し出せ』って言うばかりだったから」
「あはは、うちの父や兄たちも全く同じだよ。でも、気合いで出せる魔力がない僕みたいなタイプは、仕組みをちゃんと分解して理解しないと扱えないからね」
「ふふ、エーリヒらしいね。……あ、そうだ。この間のハーブティー、どうだった? お腹の調子、少しは良くなった?」
「すごく効いたよ。身体の芯が温まって、夜もぐっすり眠れた。クララは薬草に詳しいんだね」
「西部の実家の周り、山と森ばかりだったから。子どもの頃からお母様と一緒によく摘んでいたの」
砂埃のグラウンドを遠目に眺めながら、木陰のベンチで言葉を交わす。
クララがおっとりと語る西部の薬草の知識を耳に留めつつ、エーリヒは再び手元のノートへと視線を落とし、カリカリと静かにペンを走らせ始めた。
体育の授業の真っ只中に、木陰で見学しながら、膝の上で難解なノートを几帳面にまとめ上げている十歳の少年。
周囲の熱気とあまりにかけ離れたその光景は、端から見れば奇妙を通り越して異様な佇まいだった。
――そして、その姿を。
見下ろしている視線があった。
運動場に面した本館二階、日陰になった渡り廊下の欄干。
石の手すりにだらしなく肘をつき、退屈そうにグラウンドの砂埃を眺めていたのは、金髪の少年だった。
第四王子、アルフレッド。
午後の講義の移動中だろう、第一クラスの仕立ての良い上着を羽織ったアルフレッドは、ふぁ、と小さなあくびを噛み殺していた。
その背後には、同じ第一クラスの制服を着た取り巻きの高位貴族の子息たちが、機嫌を取るように取り囲んでいる。
「――殿下、今週末の馬術の演習ですが、我が家の名馬をお手配いたしましょうか?」
「いや、それよりも次の魔導論の講義で、公爵家の派閥についてご相談が……」
煩わしいおべっかと、打算にまみれた擦り寄りの声。
アルフレッドはそれらに生返事すら返さず、冷めた青い瞳をただ虚空へと泳がせていた。
その視線が、ふと運動場の端――樫の木の木陰でピタリと止まった。
「……おい、キリアン」
アルフレッドが低く、けれど通る声で呼びかけた。
取り巻きたちの輪から一歩進み出たのは、細身の体躯に眼鏡をかけ、鳥のように鋭い目元をした少年――侯爵家第二夫人の三男、キリアンだった。
「何でしょうか、殿下」
「あの木陰のベンチにいる奴……あれ、何組だ?」
アルフレッドが顎で指し示した先を、キリアンが目を細めて見下ろす。
土埃を上げて走り込む生徒たちの遥か向こう、木陰で脱落した二人の姿。
少女とおっとりと言葉を交わしながら、膝の上に広げたノートに一心不乱にペンを走らせている、黒髪の華奢な少年。
「……第三クラスとの合同体育のようですから、第四クラスの生徒ですね。あの制服の襟留めは……クラインフェルト子爵家の三男、エーリヒかと」
「エーリヒ・フォン・クラインフェルト……」
アルフレッドは小さくその名を舌の上で転がした。
「入学式の時、掲示板の筆記三席に名前があった奴だな。……体育で見学に回された挙句、あんな場所で平然と本を広げて自習か。周りの目なんて欠片も気にしていない顔だな」
「ええ。身体が極端に弱く、実技の体力測定で倒れかけて第四クラスに落ちたと聞いています。……殿下、あのような下級クラスの三男坊が、何かお気に召しましたか?」
キリアンが怪訝そうに尋ねると、アルフレッドの整った唇の端が、微かに、面白そうに釣り上がった。
「いや? 自分の足元を固めるのに必死で、誰の機嫌も取ろうとしない奴を、久しぶりに見た気がしただけだ」
アルフレッドは手すりから身体を離し、一度だけ木陰の少年を一瞥すると、踵を返して歩き出した。
「行くぞ。退屈な講義に戻る時間だ」
「はっ」
渡り廊下を踏み鳴らす足音が遠ざかっていく。
その頭上からの視線に気づくこともなく、エーリヒは木陰の涼しい風の中で、新しい用語の翻訳をノートの余白へと静かに書き足していた。




