01-11.知識の壁
グローバー先生から壊れた計測器具を、ヴァイス先生から監査記録を預かった翌日の放課後。
エーリヒは二つの宿題を鞄に収め、中央校舎の奥にある「大図書館」へと勇んで足を運んだ。
前世の知識と、目に見える色温度のグラデーション。
それらを手がかりにすれば、本を少し調べればすぐに器具の直し方くらい分かるだろう――そんな淡い期待は、図書館の重いオーク材の扉をくぐってからわずか三十分で、木っ端微塵に打ち砕かれることになった。
高いドーム天井の下、見上げるほど巨大な書架が立ち並ぶ閲覧室。
目録を必死にめくり、ようやく探し当てた『初等魔導工学汎論』と『導魔金属の基礎性質』という分厚い二冊を机に広げたエーリヒは、開いたページを前にして完全に固まっていた。
(……全然、読めない)
文字が読めないのではない。書かれている単語の意味が、まるで頭に入ってこないのだ。
『第三励起状態におけるルディック環の歪みは、青銅境界面の魔導浸透圧に反比例し――』
『エーテル導線における幾何学術式の刻印深度と、過飽和魔力の臨界放散について――』
並んでいるのは、初等講義の基礎魔法学では一度も聞いたことがない専門用語と、見たこともない数式モドキの記号ばかり。
前世で機械工学や図面を扱っていたとはいえ、それはあくまで地球の物理法則に基づいたものだ。「魔力」という未知のエネルギーが金属や鉱石とどう相互作用するのか、その体系的な学問など、エーリヒはまだこれっぽっちも学んだことがなかった。
(僕に分かっていることなんて、色温度で『なんとなく熱を持って詰まっているように見える』っていう直感と、前世の機械いじりの勘くらいだ……)
器具の真鍮板に不純物が混ざっているらしいことは見当がついても、それが何という金属で、どうやって魔導回路と干渉し、どう取り除けば安全なのか。
そんな知識は、今の十歳のエーリヒの頭には欠片も存在しなかった。
下手に前世の感覚だけで適当にいじれば、グローバー先生に言われた通り、本当に部屋を爆破しかねない。
(……思い上がりもいいところだな。道具を直すどころか、この本に書かれている前提知識を理解するだけで、一体どれだけ時間がかかるんだ……?)
ため息を吐きながら、エーリヒは羊皮紙のノートに、意味の分からない専門用語を一つずつ書き写していった。
焦っても仕方がない。まずは、この世界の魔導理論の初歩の初歩から、辞書を引くように地道に読み解いていくしかないのだ。
どうやら、この大図書館通いは、数日どころか何ヶ月単位の長い付き合いになりそうだった。
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閉館を告げる鐘の音を聞きながら本を棚へ戻し、重い頭を抱えて図書館を出る。
専門用語の洪水に揉まれてぐったりと疲れたエーリヒだったが、夕暮れの渡り廊下を歩きながら、ふと別の現実的な問題に思い至った。
(……知識も足りないけど、仮にやり方が分かったとしても、作業する場所がないぞ)
東寮三十八号室の四畳半を思い浮かべる。
あの部屋にあるのは、寝台と机と椅子、それに生活用の細々とした私物だけだ。
金属のネジを外したり、ヤスリで何かを削ったり、ましてや油や金属粉を散らかすような作業ができる環境ではない。
工作用の工具箱はおろか、金属を固定する器具すら手元にはないのだ。
(どこかに、生徒が使えるような作業場はないのかな……)
思い立ったエーリヒは、寮へ戻る前に東寮の一階にある舎監室の窓口へ立ち寄ってみた。
格子窓の奥では、肘当てのついた服を着た初老の舎監が、のんびりと帳簿にペンを走らせていた。
「失礼します」
「ん? 三十八号室のクラインフェルトだな。どうした、部屋の鍵でも無くしたか?」
「いえ、部屋の設備ではなくて……少しお聞きしたいことがありまして。学園の中で、生徒が木を削ったり、金属の道具を手入れしたりできるような作業場所はあるのでしょうか? 自室ではどうしても散らかってしまって」
舎監は丸眼鏡を鼻先へずり下げ、目を丸くしてエーリヒを見つめた。
「作業場? 一年生の坊主がそんな場所を聞いてくるのは珍しいな。……西校舎の裏手、古い資材倉庫の地下に『学生共通工作室』があるぞ。大昔は工学実習で使われていた場所だが、今は申請さえ出せば、生徒が自由に出入りしていいことになっている」
「本当ですか!」
「ああ。ただし、火を使う鍛冶炉は上級生か先生の許可が必要だ。備え付けの万力やヤスリ、鋸なんかの手工具なら、台帳に学籍番号と名前を書けば誰でも使って構わん。……怪我をしても自己責任だからな。危ない刃物は振り回すんじゃないぞ」
「ありがとうございます!」
礼を言ったエーリヒは、教えてもらった西校舎の裏手へと足を向けた。
本館の壮麗な石造りとは対照的な、赤レンガの壁にツタが絡まる古びた平屋建ての倉庫。
その脇にある頑丈な鉄扉を押し開け、埃っぽい地下階段をそろそろと下りていく。
地下に広がる空間に足を踏み入れた瞬間、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。
機械油のツンとした匂いと、微かに削られた鉄の粉、そして乾いた木屑の匂い。
前世の試作工場を思い出させる、無骨で飾り気のない空気だった。
広さは二十畳ほど。
頑丈な樫の木の作業台が幾つか並び、それぞれの端には油の塗られた鉄の万力がしっかりとボルト留めされている。
壁の道具掛けには、平ヤスリ、金床、糸鋸、金槌といった手工具が整然と並んでいた。
部屋の奥では、第三クラスの上級生とおぼしき大柄な男子生徒が一人、黙々と木剣の柄に革紐を巻き直しているだけで、中は静まり返っている。
(……すごいな。こんな立派な作業環境が自由に使えたんだ)
入り口の受付台に置かれた羊皮紙の利用台帳に、エーリヒは自分の名前を書き込んだ。
作業台に近づき、端に固定された万力のハンドルを回してみる。
キチキチと小気味よい油の音が響き、金属の顎が滑らかに開閉した。
場所と道具はある。
だが――エーリヒは作業台の上に置かれた自分の小さな鞄を見つめ、静かに苦笑いをこぼした。
(場所と道具だけあっても、知識がなきゃただの宝の持ち腐れだな……)
鞄の中にある壊れた計測器。
今の自分がこれを万力に挟んで下手に削れば、二度と動かない本物のゴミにしてしまうのがオチだ。
老魔導士がくれた宿題は、そんなに安易にクリアできるものではない。
「……まずは、本だな」
エーリヒは小さく呟いた。
慌てる必要はどこにもない。自分はまだ学園に入学したばかりの十歳なのだ。
放課後は図書館に通い詰めて基礎知識を一つずつ頭に叩き込み、休日は市場で食材を買って身体を養う。
そうして知識の土台が固まった時、初めてこの地下の作業台で手を動かせばいい。
地下の工作室を後にしたエーリヒの心には、途方もない勉強の壁への圧倒感と、これから一つずつ解き明かしていくことへの静かな熱意が、確かに同居していた。




