01-14.確かな手ごたえと高い壁
五曜日の夜に振る舞った三品の料理は、エーリヒの予想を遥かに超える余波を東寮にもたらしていた。
明けて六曜日、休日の午前中。
洗面のために東寮一階へ降りてきたエーリヒは、談話室の入り口あたりで、複数の上級生や同級生たちに取り囲まれることになった。
「あ、いたぞ! 三十八号室のクラインフェルトだ!」
「おい、昨日の夜のあれ……本当に自分たちで作ったのか?」
昨夜の香ばしいカレー粉の匂いと、大鍋から立ち上っていた芳醇な湯気は、下級食堂の質素な食事に耐えていた下級寮生たちの鼻を強烈に刺激していたらしい。
仕送りの少なさに頭を抱える騎士爵や貧乏貴族の生徒たちが、藁にもすがるような目でエーリヒを取り囲んでいた。
「ええ、市場で買ってきた食材を、地下の炊事場で煮込んだだけですよ」
エーリヒが気さくに答えると、第三クラスの上級生が身を乗り出してきた。
「あの山盛りの肉とポテトで、一人いくらかかったんだ? まさか銀貨が飛んだんじゃないだろうな?」
「いえ、一人あたり二から三クーナ程度です。大通りのお店ではなく、平民街の露天市場へ行けば、豚の端肉や泥付きのジャガイモがひと包み一クーナで手に入りますから。少し時間をかけて弱火で煮込めば、固い肉でも柔らかくなりますよ」
安売りの露天商が集まる広場の場所や、出汁の出やすい脂身の選び方、野菜を煮崩してかさ増しするコツなどを惜しげもなく伝授すると、生徒たちから感嘆のどよめきが上がった。
「三クーナで腹一杯食えるのか……!?」
「今日の午後、みんなでその市場に行ってみようぜ!」
自炊を馬鹿にする者など一人もいない。
見栄よりも日々の胃袋と財布の防衛が切実な下級寮において、エーリヒの持ち込んだ生活の知恵は、あっという間に熱狂的な支持を集めていた。
「助かったよ、クラインフェルト!」と肩を叩かれ、気さくな挨拶を交わしながら部屋へ戻る。
身分の上下に縛られない、持たざる者同士の心地よい連帯感が、東寮の中に確かに芽生え始めていた。
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休日を終え、迎えた週明けの放課後。
エーリヒは本館の教官室を訪ね、担任のヴァイス先生のデスクの前に立っていた。
「失礼します、ヴァイス先生。先週いただいた課題のレポートを作成しましたので、提出に参りました」
「ん? ああ、独立監査院の過去事例の件か」
ヴァイス先生は眼鏡のブリッジを押し上げ、エーリヒが差し出した数枚の羊皮紙を受け取った。
提出期限など設けていない、あくまで意欲のある生徒向けの発展課題だ。
目を通すのも数日後でいいだろう――そんな気軽さで視線を落とした先生の表情が、最初の一枚を見た瞬間に凍りついた。
「……これは、何だ?」
羊皮紙の上に並んでいたのは、長々とした感想文ではなかった。
上段には、徴税官と領主の間で行われた不正取引の時系列チャート。
中段には、架空の治水工事予算が石材費と人足の日当に化け、最終的に親族の商会へ還流していく資金洗浄のループ構造が、明快な矢印とフロー図で視覚化されていた。
そして下段には、脱穀減耗率の推移グラフと、本来あるべき正規の収支との差額が、一分の狂いもなく計算されていた。
「……」
ヴァイス先生は無言のまま、指先で羊皮紙をめくった。
二枚目、三枚目。
読み進めるにつれて、先生の眉間の皺が深くなり、額に薄っすらと汗が滲んでいく。
そこには、監査院の当時の調査官すら見落としていた「二重計上の端数処理」に関する鋭い指摘まで、簡潔な箇条書きで論理的に記されていた。
教官室の静けさの中、紙の擦れる音だけが響く。
やがて、ヴァイス先生はゆっくりと羊皮紙を机の上に置き、両手を組んでエーリヒを凝視した。
「……クラインフェルト。お前、本当にこれを一人で書いたのか? 実家の誰かや、宮廷の会計官に知恵を借りたわけではなく?」
「はい。先生からいただいた記録文書と、図書館の会計法規の解説書を照らし合わせて、自分なりに数字の流れを整理しただけです」
エーリヒが努めて落ち着いた声で答えると、ヴァイス先生は深いため息を吐き、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
「……信じられんな。単に計算が早いだけではない。不正を行う人間が『どこに目をつけ、どうやって監査の目を欺こうとしたのか』という心理と資金の流れを、完全に俯瞰して暴いている。……十歳の子供が書くような代物ではないぞ、これは」
先生の眼鏡の奥の瞳には、驚嘆を通り越して、底知れぬものを見るような畏怖の色すら混ざっていた。
「実に見事だ。このまま独立監査院の補佐官に提出しても通用する水準だよ。……この課題を出して正解だった。お前のこの才覚、決して腐らせてはならんぞ」
「ありがとうございます、ヴァイス先生」
前世の業務感覚で整理した資料が、この世界の法学の先生にも十全に通用した。
内政と会計の分野における確かな手応えを得て、エーリヒは一礼して教官室を辞した。
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確かな手応えを得た内政とは対照的に、もう一つの宿題は依然として高い壁の向こうにあった。
教官室を出たその足で、エーリヒは大図書館へと向かった。
ドーム状の高い天井の下、静謐な空気が漂う奥の閲覧室。
開館直後の静かな一角に席を取り、エーリヒは借り出してきた二冊の専門書を机に広げた。
『導魔合金の励起伝導率』
『術式回路における抵抗熱の計算法』
鞄から取り出したのは、グローバー先生から預かったあの壊れた計測器具だ。
自作の「翻訳対照ノート」を開き、教科書の曖昧な概念を一つずつ前世の物理用語へと置き換えながら、器具の内部構造を睨みつける。
(……やっぱり、そう簡単にはいかないな)
不純物の混ざった真鍮板が熱を持ってショートした、という大枠の理屈までは掴めた。
だが、いざ「どうやって直すか」という段になると、知識の決定的な不足が壁となって立ちはだかる。
魔力を流した際、不純物である鉛や鉄の粒子が具体的にどれほどの抵抗熱を生むのか。
その数値を計算するための基準値が、この世界の単位系ではさっぱり分からない。
さらに、バイパス回路を真鍮板の上に新しく刻むとしても、術式言語の文法規則が理解できていなければ、ただの引っかき傷になって魔力が漏れ出すだけだ。
(前世の電気回路なら、ハンダ付けしてテスターを当てれば済む話だけど……魔力は術者の意思や金属の結晶構造にまで干渉してくる。思いつきでヤスリを当てたら、確実に回路全体が死ぬな)
本をめくり、見慣れない専門用語を対照ノートへ書き写しては、頭を抱えてペンを止める。
理解できたと思った先から、新たな疑問が三つも四つも湧き出してくる。
老魔導士が「好きにいじってみい」と笑って手渡してきた意味が、骨身に染みてよく分かった。
「……はぁ。まだまだ、勉強不足だな」
エーリヒは小さく呟き、ペンを置いて額を揉みほぐした。
近道などない。
こうして地道に図書館へ通い、本を読み、基礎の知識を積み上げていくしかないのだ。
気を取り直し、再び専門書のページへ視線を落とそうとした――その時だった。
「――失礼。少し、よろしいでしょうか」
静まり返った閲覧室に、低く、けれど透き通るような少年の声が降ってきた。
誰何の声に、エーリヒはペンを持ったまま顔を上げた。
静かな机の向かいに立っていたのは、一人の少年だった。
仕立ての良さが一目でわかる、仕付け糸の一本まで狂いのない第一クラスの制服。
銀縁の眼鏡の奥から覗く、鳥のように細く鋭い灰色の瞳。
その襟元には、上級貴族――侯爵家の直系であることを示す豪奢な紋章の留め具が鈍い光を放っていた。
キリアン・フォン・ハーゼブルク。
入学試験で総合成績が主席だった少年が、静かにエーリヒを見下ろしていた。




