第16話 調理帳に残した、私の名前
翌日、私は公爵様へ、山へ行きたいと伝えました。
自分で選んだ返事です。
出発は、調査と準備が整ってから。足慣らしは庭の坂道から始めました。
その夕方、ヴィオラ様が訪ねてきました。
付き添いの侍女を連れ、玄関で約束を取りつけてから、客室へ入ります。
「広告の件で、お話を聞かせてください」
彼女の手にも、保養菓子の瓶がありました。
「私は、あなたが調理の監修を引き受けていると聞いていました」
「いいえ。製造にも、広告にも、同意しておりません」
ヴィオラ様は唇を結びました。
「伯父は、あなたが役目を放り出したので困っていると。アルノー様も、そう言っていました」
私は、自分の帳面の一部を見せました。
同じ菓子の頁へ、日付と材料の産地、食べた人、注意点を書いています。
ヴィオラ様は、赤い丸で囲まれた注意書きを読みました。
丸を付けたのは誰かと聞かれ、答えました。
「アルノー様です」
その筆跡は、彼女も知っていたのでしょう。
指が、紙の上で止まりました。
「料理を厨房へ任せればいいとおっしゃった方が、これを読んでいたのですね」
その言い方には、静かな怒りがありました。
彼女が持参したのは、グロウ商会から送られた販売計画の写しでした。
伯父の代わりに商談へ同席するため、渡されたものだそうです。
表紙には、令嬢ソフィアの眠り菓子。
中には、私の帳面の頁を写した文章がありました。
ただし、注意書きと試作の記載だけが消えていました。
背中が冷たくなりました。
私の料理が、私の名前のまま、別の約束をするものへ変えられていたのです。
「これは、預けてもよろしいでしょうか」
ヴィオラ様が言いました。
「監査の方に見ていただきます。ご自身から経緯を伝えていただけると、助かります」
彼女はうなずきました。
すぐに私へ親しくしてくれるわけではありません。
私も、あの夜の席を、何もなかったことにはできませんでした。
でも、同じ瓶を見て、確かめることはできました。
商業監査官が来たのは、その三日後です。
市販の菓子、公爵邸の未開封の納品、検査に提出された保存試料。
それぞれの中身と納品番号を、ノエさんの記録へ照らします。
灰樹蜜が混ざっていたのは、市販と納品の瓶でした。
検査用のものは、混ざっていません。
仕入れの帳簿と従業員の証言も集まり、原料不足を埋めるために配合を変えていたことがわかりました。
私は調理帳の表紙を、改めて開きました。
ソフィア・エルド。
十八歳の私が、少し気取って書いた名前です。
その下へ、今の職場の名前を加えました。
グレイス公爵邸、夜食担当。
誰かの飾りとしてではなく、責任を持って作った人として、名前を残したいと思いました。




