濁流
今は何時だろう。暗い部屋に漂う汗の臭いと、手にまだ残っている濡れた感触。ベッドでは霧島が寝息を立てている。
寝室から出て、リビングの明かりを点けた。そうして見えた時計は、夜の七時を指していた。
ベランダからコーヒーが入ったポットをキッチンに持っていき、中を確認した。まだ少しだけ残っている。コップに注いでいくと、ちょうど一杯分で空になった。飲んでみると、後味で効いていた果実の味が前面に出るようになって、いよいよコーヒーとは呼べない飲み物になっていた。
コーヒーを片手に冷蔵庫の中身を確認すると、既に出来上がってる料理がラップに掛けられて置かれている。
「お腹空いたの……?」
耳元で囁かれた。ベッタリとくっつくコイツからは、ほんの僅かに汗の臭いが香ってくる。酷く臭かったなら離す口実に使えたというのに。
「君と話して、食事を共にして、お風呂に入って、ゆっくり過ごそうと思ってたんだ……けれど、僕は待てなかった。君を求めてしまった」
「……もう、やめ―――」
その先を口に出せなかった。コイツに好意が芽生えたからじゃない。母性のような妙な優しさを抱いてしまっている。突き放すのは可哀想だと自分に言いつけてしまっている。
「……分かっているさ。君の心に、僕の居場所なんか無い事なんか。君が僕に好意を持たない理由も」
「……随分、ネガティブな少女になってるな」
「僕だって少女さ。女の子さ。叶わぬ恋を抱え続ける苦しみを人並みには持ってる。けれど想定外だったのは、叶わないと知ってるからこそ必死になってしまう事だよ。足掻き、なんて高尚なものじゃない。沼に嵌った自分の方へ引きずり込もうと足を引っ張る……それは自分も相手も不幸にさせる結果になる」
「気休め程度のアドバイスを送ろうか? 人間、星の数ほどいる。何事も諦めが肝心。失恋はその先の人生で大きな糧になる」
「フフ。君がそれを言うのかい? むしろそれらの言葉は、君にこそ相応しいものでは?」
「アタシは違うさ。少なくとも、アタシの望みはアンタの性欲と違って、純真無垢な願いさ」
「だから僕に付き合ってくれるんだね。やっぱり君は優しくて、酷い人だ」
冷蔵庫を閉め、ベランダへ向かった。陽のあった頃は綺麗に見えた川は、今では暗く底知れない恐ろしさを帯びていた。長く眺めるものじゃない。
コーヒーを飲んでいると、霧島が隣にやってきた。服を着てきたようだが、大きなシャツで誤魔化してズボンは履いていない気がする。
「僕は卒業したら大学へ行く。ここから遠い場所へ移り住む。ここには、しばらく来れないだろう」
「思い出作りか」
「そうだね。そしてその思い出には、君が居てほしかった。この場所だけじゃない。これから先の思い出には、君が居てほしい」
「……思い出を過信しない方がいい。思い出は人生を彩るかもしれないが、それにばかり頼ってしまえば、過去に生きる事になる」
「経験談かい?」
「そうだな……彼女、リリと再会して、アタシの人生は再び動き出すものかと思っていた。実際他人と交流する機会が増えた。けど、今度は……」
「迷子になってるんだね」
「十年以上も停滞していたんだ。今更どう生きればいいか分からないんだ」
「なら僕が君を連れて行く。君の手を引いて導く」
「それはアンタの人生だろ。アタシのものじゃない。この先も生きていく理由にはならない」
すると、霧島が後ろからアタシを抱きしめてきた。そのままアタシを潰そうとするかのように強く。
「僕が君の生きる理由になる……」
何も言い返せない。
肯定も。
否定も。
ただ無言のまま、やり過ごすしかなかった。




