さようなら。
吾輩はネコである。
お前らに名乗る名前などない。
お前らをばらばらに解体してキャットフードにする前に、まず、事実を言おうか。
男という生き物は、どこまでいっても性欲に塗れた幼稚性の塊である。権力や大義という名の大層なスーツを着込んでいても、その内実は自らの本能的な欲求を制御できない、肥大化したボケジジイに過ぎない。
一方で、女という生き物は、偏屈な視野の中で醸成された加害性に塗れた白痴である。自らの手が届く範囲の弱者に対して、己の歪んだ自己承認欲求を満たすためだけに、メロいだのキモいだの、主語がてめえだけの、執拗な性欲からの暴力を行使するクソババアに過ぎない。
私がこのように書き記せば、世の有象無象は即座に「男性差別」「女性差別」「ミソジニー」「ミサンドリー」と騒ぎ立て、くだらねえ人権意識のプラカードを掲げて糾弾してくるだろう。
しかし。
ネコである私は、この際、一切の妥協なくはっきりと明言しておく。私は決して特定の性別を差別しているのではない。私はただ、極めて公平に、そして冷徹に「人間差別」をしているにすぎない。
人間という種そのものが抱える、逃れようのない構造的な欠陥と醜悪さを、そのまま、言語化しているだけである。
この世界は、イカれた獣たちの動物園だ。
そして、その獣たちが最も醜悪な本性を現すのは、他者との摩擦が生じた時ではなく、己の「所有物」に対して絶対的な権力を行使できる安全圏に身を置いた時である。
私がこの「人間という病」を、とりわけ、日本という奇怪な民族性と歴史的背景の中で確信した、一つの決定的な原風景がある。
私がまだ小学生だった頃、北関東の宇都宮に住んでいた時期のことだ。
ある週末。
煙草と麻薬の煙で壁が琥珀色に変色し、何者の断片だか定かではない不気味な肉の焼ける匂いと、薄まったような臭いビールの饐えた匂いが充満する、小汚い大衆焼肉屋での出来事である。
客層は決して富裕層ではなく、日々の労働の憂さを晴らすために集まった、どこにでもいる「普通」の浮浪者やドカタたちであった。
一見すれば、昭和の残滓を引きずった、ありふれた平和な光景に思えるかもしれない。
だが。
その猥雑な空間の中で、私はこの国の根幹を成す恐るべき「儀式」を幾度となく目撃した。
それは、大人が自らの子供に対して振るう、凄惨な暴力のパレードである。
隣のテーブルで、些細なことで子供が飲み物をこぼす、あるいは少し騒ぎ立てる。
すると、親である男女は、教育という範疇を遥かに超えた怒気を孕み、躊躇なく自らの息子や娘の頭を怒鳴りつけ、力任せにぶん殴るのである!
打撃音、子供の悲鳴、そして、泣き声。
ここで重要なのは、彼らが「子供の将来を思って」あるいは「本当に怒りに我を忘れて」殴っているわけではないという、極めて冷酷な事実である。
彼らの血走った眼球の動きを観察すれば、一目瞭然だった。
彼らの暴力は、しつけではない。
完全なる「劇場型のパフォーマンス」であった。
「さあさあ、見てください、私は周囲の皆様に迷惑をかけるような真似は許しません」
「私は、自らの身内であっても、悪いことをすれば毅然とした態度を取れる、厳格で正しい大人なのです」
子供を殴り飛ばすという行為は、周囲の赤の他人に対して自らの「社会的正当性」をアピールし、自身の承認欲求を満たすための最も手っ取り早い舞台装置に過ぎなかった。
子供は、オレサマ自身が「おりこうさん」であると証明するための、単なる、生贄の羊として消費されていたのである!
こう書くと、現代を生きる温室育ちの君たちは「それは昔の、しかも倫理観の欠如した底辺層の凄惨な生態だろう」と顔をしかめるかもしれない。
いいや、違うね。
これは階級の問題ではないんだよ。
日本という国において、身内を公衆の面前で罰するという行為は、長らく「美徳」として共有されてきた民族的なソフトウェアそのものなのだ。
そして私自身もまた、そのシステムの例外ではなかった。
私も、皆が見ている前で、両親から理不尽に怒鳴られ、殴られてきた。
親の虚栄心を満たすためのサンドバッグとして、公衆の面前で自尊心を粉々に打ち砕かれるその屈辱と痛みは、今も私の精神の底にどす黒いタールのようにこびりついている。
この光景を、よりマクロな歴史的・民族的な視点から解剖してみようか。
身内や弱者を公衆の面前で殴りつける。
これは、日本のみならず、アジア全域において広く共有されてきた「当たり前の光景」であるんだよ。
さらに言えば、大正、昭和、そして平成の初期に至るまで、日本では「むしろ身内をいじめない親の方が、甘やかしているとして社会から非難される」という異常な同調圧力が存在したんだ。
もし同じ行為を、個人主義と基本的人権の概念が血肉化している欧米諸国で行えばどうなるか。
公衆の面前で児童を殴打する親は、周囲の市民から即座に取り押さえられ、警察に通報され、手錠をかけられるだろう。場合によっては、児童虐待の現行犯として射殺されても文句は言えない。
欧米において、子供とは、親の所有物ではないからだ。
しかし、この、アジア圏は違う。
この土壌には、儒教的価値観という名の、極めて強固で呪術的なヒエラルキーが根付いている。
本来の儒教がはたしてどうであったかは別として、この国に土着化したそれは「目上の者には絶対服従」「親は子に対する絶対的な生殺与奪の権を握る」という、垂直方向の暴力を正当化するための便利なツールへと変質した。
このシステムの中では、対話や理解などは不要である。
ただ、上位の者が下位の者を力でねじ伏せ、肉体的な苦痛を与えること、すなわち「暴力」こそが、最も誠実で効果的なコミュニケーションであると誤認されてきたのだ。
日本という国は、凄惨な大戦を経験し、焦土の中から立ち上がり、高度経済成長を経て物質的には世界有数の豊かさを手に入れた。
だが!
その精神性においては、あの大戦の時代からなんと、一歩も前に進んでいない!
成長など、していないのである!
嫌がらせが、マウンティングが、そして暴力が、正当な「教育」や「指導」という仮面を被って横行する。これは、儒教的価値観に根ざした「いじめ」を、伝統文化として無意識に継承し続けてきた、この民族の不治の病である!
時代は移り変わり、元号は令和となった。
街には最先端のハイテク機器が溢れ、人々はスマート・フォンで世界中の情報に瞬時にアクセスし、コンプライアンスやハラスメントといった横文字の倫理観が社会の隅々まで浸透したかのように見える。あからさまな流血沙汰は、確かに表通りからは姿を消したかもしれない。
だが!
根源的な病理は何も治癒していない!
何も治っちゃあいないんだよ!
ただ、より陰湿に、より洗練された形で日常に溶け込んでいるだけだ!
私は先程、街角の洗練された珈琲屋へと足を運んだ。清潔な店内、静かに流れるジャズ、コーヒーの芳醇な香り。そこは現代的な文明の象徴のような空間だった。
しかし!
そこで私の視界に入ってきた光景は、やはり……絶望的なまでに「日本」であった。
隣の席では、パリッとしたスーツを着こなした男性会社員が、部下らしき青年の頭を、書類の束で軽く、しかし執拗にこづいていた。
「てめこら内田!だからおめえはダメなんだよッ!」
「内田!おめえバカだよな!でも、俺なんかすごくてさ!」
口元に薄ら笑いを浮かべながら、彼は「指導」という名目で、部下の尊厳を削り取っていた。
彼もまた、周囲の客に対して「俺は部下を厳しく指導できる有能な上司である」というアピールを、無意識の内に実行していたのだ。
さらにその奥の席では、小奇麗な身なりをした母親たちが、歓談の合間に、ベビーカーに乗った自らの赤子の頬をつねり、泣き出す寸前まで執拗に「しつけて」いた。
「んもーだめっしょアイリ!泣くな!泣くな!あーしに迷惑かけんな!んもーっ!」
赤子が不快感に顔を歪めるのを見て、彼女たちは楽しげに笑い合っている。
男の幼稚な権力誇示!
女の無自覚な加害性!
暴力の強度は下がったかもしれないが、他者を自らの所有物として扱い、周囲へのパフォーマンスや自己満足のために加害を行うという根本的な構造は、何一つ変わっていなかった!
最新のデバイスを操作する指先で、彼らは大昔と全く同じ野蛮な暴力を紡ぎ続けている!
この国は、表面の塗装を綺麗に塗り替えただけで、その中身は……腐臭を放つ泥のままなのだ!
このような社会の有り様を私が冷徹に批判し、「こんな社会は嫌いだ」と吐き捨てれば、思考停止した大衆は私に向かってこう罵るだろう。
「日本の価値観を否定する反日だ」
「西洋の個人主義にかぶれた左翼め」
まあ、確かになあ。
現在の日本は、アニメやゲームなどのサブカルチャーから、一部の先端技術に至るまで、文化や経済の側面においては今なお世界の最先端に近い場所に位置しているかもしれない。
そして、日本のいわゆる「保守」や「右翼」を自称する者たちは、この国の規律や姿勢、そして身内を厳しく律する態度こそが、日本を強国たらしめてきた「右翼的な美徳」であると信じて疑わない。
彼らの論理によれば、弱者に対して、あるいは同胞に対して「これは立場上の正論であり、あなたのためを思ったお仕置きですよ。あなたも正しくなりなさい」と、相手の感情を蔑ろにして、正論の理屈で愛の加害行為を行うことは、社会の秩序を保つための崇高な自己犠牲であり、愛国心の発露であるらしい。
だが、私はここで、彼らのその貧困な論理を完全に反転させる。
国家の最大の財産とは何か?
それは国土でも金でもない!
未来を担う「人間」である!
自国の子供たち、自らの部下たち、すなわち次世代を担うべき同胞民族の精神を、自らのちっぽけな承認欲求やストレス発散のために、公衆の面前で殴り、こづき、つねり、粉々に破壊し続ける行為。
いったい、これのどこが愛国なのか。
彼らが「しつけ」や「指導」と称して行っているのは、自国の将来の人的資本を根こそぎ破壊する行為である。才能の芽を摘み、自己肯定感を奪い、ただ上の顔色を窺うだけの無能な奴隷を大量生産しているだけだ。
身内に対して牙を剥き、国家の内部からその活力を削ぎ落としていくこの性質は、決して右翼的な美徳などではない。
むしろ、他国や多民族から見れば、日本がひとりでに、なんか愛国を叫びながら勝手に自滅していくのを見物できるのだから、これほど都合の良いことはない。
すなわち、彼らが「正しい日本のあり方」だと信じて疑わないその加害性こそが、客観的な地政学・歴史学の視点から見れば、国家の首を真綿で絞める「究極の左翼的破壊工作」であり、多民族への最大の「利敵行為」なのである。
謝る必要がなければ謝らなくていい。
悪とは、謝罪をされたら、際限のない賠償を要求してくるものだからね。
だがよね。
いちいち、合っていようが、間違っていようが、反省をして、改善をしていかなければ、いかなる分野においても、滅びが訪れるのは、間違いがない。
私を馬鹿と罵っていただいて構わない。
私を世間知らずと嘲笑っていただいて構わない。
私は悪でいい。
結論は変えなくていい。
どうせ君たちは、白か黒か、善か悪か、敵か味方か、右翼か左翼かの二択のどちらかに賭けてから証拠を探しに行くような、この世の全ての判断を、株や先物投資と同じように捉えているんだから、何を言っても響かない。
……だが、それでも。
一度だけ振り返って、過去を、そして現在を、みてくれ。
愛国者たちが、愛国的に、無自覚に自国を滅亡へと追いやっている、これほどまでにシュールで、これほどまでに反日的な光景が、他にあるだろうか。
私は、この終わりのない加害の連鎖と、それを美徳と勘違いしているこの国の歪んだ精神構造を、軽蔑する。
人間という病が、日本という器の中で腐敗し、愛国という名の売国へと至り、規則正しく破滅する。
あべこべなのだ。
この冷徹な事実を前にして、私はもう、動けない。
私はただ、この、ひとりでに滅亡していく国の絶望的なまでの愚かさを、記録し続けることしかできないのである!
単に「出る杭は打たれる」という教訓めいたイジメの肯定が嫌いと一言書けば済む話なのに、ここまで長々と書いてしまうから、だから私は、いつまでたっても猫畜生なのだ……
結局誰にも私の叫びは届かなかった。
今日で更新は終わりです。
さようなら。




