納涼!本当にあった怖い話スペシャル!あんまし意味のないテロ!
世の怪談は、おびただしい流血、異形の怪物、あるいは激情に駆られた人間の怨念を描くことで受け手を恐怖させようとする。
しかあし!
真の恐怖とは、実は、視覚的なグロテスクさの中には存在しない!
人間の理性が拠り所としている「原因と結果」「動機と行動」という絶対的な論理の連鎖が、音を立てて崩壊していく様をただ黙って見つめるしかない状態。
「不条理」
それこそが、最も純度が高く、逃れようのない恐怖なのだ!
1足す1が3になる世界に放り込まれ、それを社会全体から強要されることの絶望を想像してほしい。
そこには血も肉片もないが、人間の精神を根底から破壊するには十分すぎる冷気がある。
私の母は、まさにその「崩壊した論理」を完璧なシステムとして体現し、運用し続けた人間である。母の精神構造には、私たちが他者を理解する際に用いる「感情」や「悪意」という名の媒介が存在しない。
彼女が引き起こす凄惨な事象のすべては、論理的に完全に破綻しているにもかかわらず、彼女の周囲という極小の宇宙においてのみ、恐ろしいほどの整合性を持って稼働し続けていた。これは、私が生涯をかけて観察し、そして今なおその冷たい重力に魂を縛られている、一人の「人間という形をした無機質な演算装置」に関する冷徹な考察である。
ある日突然、見知らぬ通り魔に道端で殴りつけられたとしよう。
それは恐ろしい出来事だが、論理的に理解できないものではない。
それは落雷や交通事故と同じ、社会というシステムに確率論的に組み込まれた「自然災害」の一種として処理できる。
地震雷火事親父。そう。私の父は、まさにその自然災害であった。
ホラー映画のジェイソンやエイリアンのように、ただそこに存在し、触れるものを破壊する「歩く事故」である。
父は私の大切な本を焼き払い、私の受験を妨害し、入学式という人生の節目を徹底的に破壊した。
その暴力性と破壊衝動は、確かに凄惨な被害を私にもたらした。
しかし、父単体を見れば、それは単なる知的障害者野郎の衝動の暴走であり、そこに複雑な人間的悪意を見出すことはなかなか難しい。
そう。
真の恐怖は、その自然災害をピンポイントで発生させ、コントロールし、さらにそれを観客席から鑑賞していた「設計者」の存在にある。
私の本が焼かれたのも、私が理不尽に殴りつけられたのも、実は、すべては、母が父に「子供の態度が悪いから躾をしてくれ」と依頼したことから始まっている。
母は、父という制御不能の兵器に起動スイッチを入れ、私という標的に向けて放った。そして、私が父の暴力によって泣き叫び、尊厳を破壊されているその様を、母はカメラに収めていたのである。
この時点で、母の行動は通常の「サディスト」の範疇すら超えている。
サディストであれば、自らの手で加害し、その感触を愉しむだろう。
しかし、母は絶対に自らの手を汚さない。
彼女は自らを安全な「観測者」の席に置き、カメラのファインダー越しに、惨劇というデータのみを収集する。
さらに恐るべきは、その後のプロセスである。
圧倒的な暴力に晒された子供は、唯一の逃げ場を求めて泣き叫ぶ。その密室において、暴力を振るう実行犯の父を除外すれば、消去法で残るのは必然的に母しかいない。
私は、私を地獄へ突き落とした張本人である母の腕の中に、自ら泣きつき、すがりつくしかなかった。
そう。
母は、この「私が彼女にすがりつく」という結論すらも事前に計算していた。
自らが火を放ち、焼け出された被害者を自らのシェルターに収容して恩人として振る舞う。
この完璧なマッチポンプの構造において、母は一切の罪悪感を抱いていない。
ただ、方程式が予定通りに解を導き出したことを確認するだけである。ここに感情的な悪意はない。あるのは、冷徹に事象を操作するシステムの異常な精巧さのみである。
母が生きる上で、ただ一つだけ絶対に譲れない前提条件がある。
それは「自分は常に被害者でなければならない」という狂気に満ちたテーゼである。
一般的に、被害者となることは苦痛であり、誰もが避けたいと願う事象だ。
だが、しかし。
母の歪んだ論理回路においては「自分が被害者であること=他者が加害者であること=加害者は悪だから殲滅しなければならない」と変換されていた。
そして、被害者となるためには、自分に対して加害をしてくる敵が必要となる。敵がいなければ、彼女は自らの存在意義を証明できない。
そこで母はどうするか。
敵がいないのなら、自らの手で敵を「創造」し、自らが被害に遭うための状況を意図的に作り出すのである。
母のこの狂気は、家庭内という密室に留まらず、社会という外部環境へも容赦なく持ち込まれた。
ニュースの報道。
雑誌の記事。
あるいは、スーパーの店員。
駅の職員。
郵便局員。
彼女の目に映るすべての人間と事象は、自らが被害者となるための舞台装置に過ぎなかった。
母は、これら社会的弱者や、反撃してこない労働者に対して、唐突に怒鳴り散らし、理不尽なクレームを突きつける。
しかし!
ここでも彼女は直接的な加害者にはならない。
彼女が使うのは、やはり「父」という名の破壊兵器である。
母は、知的障害を持つ父を唆し、現場に向かわせ、相手の尊厳や業務を根こそぎ破壊させる。
父は叫ぶ。
「ウルパチッ!ちきちーっ!じゃんきるぴ?……追いました?……白いですかーーーッ!?謝れ!謝れ!謝れ!謝れ!だから、車輪の両輪!経済活動とは、金を稼がなきゃあしょうがないだろピ。けど、お前たちは客に対する態度が、じゅがーんってなっちゃった。客は神だぞ?謝りゆ!おんちゅーーーっ!!!」
店員を土下座させ、駅員を精神的な極限状態にまで追い詰める。
そして、周囲の人間が父の異常な行動に恐怖し、警察を呼ぼうとしたり、法的な手段に訴えようとしたりするその瞬間。
母は満を持して──「被害者」の仮面を被って新登場するのだ!
母の恐喝のロジックは、法治国家のバグを正確に突いた、身の毛のよだつほど完成されたものであった。
第一の防壁として、彼女は父の障害を盾にする。「知的障害者である可哀想な夫を非難するのか」と、相手の良心と社会的なポリコレ思想を逆手に取って恫喝する!
「ウチの旦那のおふざけに目くじら立てないでください!障害者差別ですよ!」
それでも相手が怯まない場合、第二の防壁を展開する。
父が将来、日本を代表するトップ企業の社長になる血筋であることを持ち出し、「被害届を出せばお前の人生はどうなるかわかっているのか」と、資本主義と権力の暴力をちらつかせる!
「あんたの会社なんか、ウチの旦那がいつでも潰せるんですからね!」
そして……最終手段として、彼女自身が「か弱い女性」に変貌する。「こんな障害を抱えた夫を一生懸命支えている、哀れでか弱い私の願いを無碍にするのか」と、涙ながらに恐喝するのだ!
「女性に対してそんな剣幕で迫るなんて!あんたたちは女性差別をしてる!人としてどうかしている!」
……無敵であった!
この三段構えの論理武装の前には、いかなる正論も通用しない。相手は、自分が被害に遭ったはずなのに、いつの間にか「障害者と、それを支える健気な妻を迫害する悪人」という濡れ衣を着せられ、屈服させられるのだ!
母は、自らが意図的に引き起こしたテロ行為の中で、完璧な被害者の玉座に座り、無敵の正当性を手に入れる。
この一連のプロセスには、サイコパスが持つような加害の喜びすらない。
あくまでも仕事として、ただ、「ワタシハ、ヒガイシャデアル」というエラーコードを吐き出し続けるための、機械的な処理の連続である。
私がこれまでの人生で痛感したのは、人間の「悪」には種類があるということだ。
計画的に同僚から仕事を破壊されたり、罠に嵌められたりした経験がある。それは確かに不快で痛みを伴うが、そこには明確な「ナラティブ(文脈)」が存在した。
嫉妬、保身、あるいは出世欲。
相手の動機が理解できるからこそ、対処法を考えることもできるし、人間という生物の哀しい性として納得することもできる。彼らは、自らの利益を最大化するために悪を行ったのだ。
しかし。
母の悪には、そのナラティブが完全に欠落している。
人間としての悪の頂点。
それは、激情でも欲望でもなく、「無」である。
母は、自らが「被害を受けた」と主張し、可哀想な自分という正当性を獲得するためだけに、ありとあらゆる場面に介入しては破壊を繰り返す。
通常、自腹を切って時間と労力を浪費し、他者を巻き込んで自爆テロのような破壊工作を行えば、本人には何らかの「利益」や「快楽」が還元されるはずだ。金が手に入るとか、あるいは、他人を傷つけて楽しいとか。……そうでなければ、行動のコストが見合わない。
だが、母にはその「楽しさ」すら存在しない。
彼女は、他者を泣かせ、夫を暴走させ、私を恐怖の底に突き落としておきながら、そこに一切の悪意も、勝利の喜びも持っていないのだ。
「いやさあ、あんた一体なんなんですよ。一体なぜ、そんなことをするの。楽しいから?それとも悲しいから?どうしたの。ねえ、どうしたいの。話は聞くからさ。まだ、やり直せるから」
かつて、事の顛末のすべてが論理的に破綻していることを突きつけ、彼女自身にその理由を問いただしたことがある。その時の彼女の答えこそが、私を真の絶望の底へと叩き落とした。
「ん?わかんない。バーカ!あんたって本当頭悪いよね?頭良さげぶってんじゃねえわよがね!あ、じゃあ、あんたいま態度悪かったからあたし傷ついた。はいじゃあ謝って。ほんとあんたバカだから何言ってっかわかんない」
わかんない。
彼女は、本当に、自分でも理由がわかっていなかったのだ!
嘘でも、ごまかしでも、ない。
彼女の瞳には、一切の感情の揺らぎがなく、まるで故障した家電製品が自らの不具合の理由を説明できないのと同じように、ただ空虚な光を宿しているだけだった。
彼女は、わからないのだ!
悪意を持たずに、悪そのものを的確に、そしてシステマチックに実行する無機質な存在!
これに遭遇したことがない人間は、どれほど幸福だろうか。悪意を持つ人間は、説得するか、利益を与えて懐柔するか、あるいはより大きな力で屈服させることができる。彼らの行動原理は「損得」だからだ。
しかし!
動機を持たず、ただ、他人の人生という「過程」を蹂躙して「破滅」という「結果」だけを自動生成し続ける機械を止める方法は、もう、この宇宙のどこにも存在しない。
母の存在を観察し続けた結論として、私に導き出せる仮説はただ一つしかない。
母の魂は、あるいは彼女の脳の深奥にあるOSは、初めから「破滅」という極点に向けてのみエントロピーを増大させるようにプログラミングされているのだ。
彼女の内部には、私たちが「自我」や「心」と呼ぶような豊かな土壌はない。あるのは「被害者にならなければならない」という、ただ一つの不可解な無限ループの命令文だけである。
その命令を実行するために、彼女はあらゆる手段を講じる。子供を拷問にかけ、夫の障害を利用し、無関係な第三者の人生を狂わせる。
その結果として、自らの家庭が崩壊し、周囲から孤立し、社会的な信用を失ったとしても、それでもなお、彼女のシステムは止まらない。
なぜなら、「自分が可哀想な目に遭うこと」こそが目的であり、手段であり、存在意義だからだ。
彼女は、自分という存在の正当性を証明するために、自らの周囲の世界を片っ端から焼け野原にする。
そして、灰燼に帰した世界の中央に座り込み、「ほら、私だけがこんなに可哀想な目に遭っている」と、誰に向けてでもなく呟き続けるのだ。
そこには、もはや……善悪の概念すら存在しない。
数学の未解決問題のように、ただそこに存在し、挑む者の精神を狂わせていく絶対的な矛盾。
自らが傷つくために他者を破壊し、わけもわからぬままに地獄の底へと沈み続けていく。
母という存在は、人間の顔をした「破滅」そのものであった……。
私が母を見るたびに感じるのは、恐怖ではない。重力が突然反転し、空に向かって落ちていくような、「法則」そのものが狂ってしまったことに対する、根源的な恐怖と……絶望である。
知的障害という名の「災害」を意のままに操りながら、そこに一切の悪意を持たず、ただ、自己の破滅的な正当性のみを演算し続けた母。
私は、その無機質な狂気のシステムによって、人生の最も重要な基盤を根こそぎ粉砕された。トラウマという言葉すら、この論理的崩壊の前では生ぬるい記号に過ぎない。
人間が人間であるための「理由」を持たない、悪意。
自覚なき自爆テロを永遠に繰り返す、空白。
もし、あなたがこの話を読んで「そんな人間が存在するはずがない」「何か理由があるはずだ」と論理的な解釈を試みようとしているなら、どうか、これ以上深く考えるのはやめた方がいい。
なぜなら、その【理解できない物事をわざわざ理解しようとする人間の優しさ】、つまり、愛こそが、母という存在の前では最も脆く、いとも簡単に破壊されてしまう無力な防壁だからだ。
この謎は、決して解いてはならない────
私は今日も、その、解けない謎が発する底なしの闇に包まれながら、静かに息を潜めている。
理性が完全に滅亡した荒野で、ただ、彼女の演算がいつか完全に停止する日を待ち続けながら……!




