殴るのも、殴られるのも、気持ちいい!
99パー事実の羅列です。
これが、最後のエピソードである。
その日の夕刻。
私の事務所を訪れた女性の瞳には、もはや涙の跡すら残っていなかった。
その眼差しは、この世の全てを焼き尽くすほどの、純粋で、透明な殺意だけを宿していた。彼女が震える手で差し出した依頼書。そこに記されていたのは、単なる調査の依頼でも、浮気の証拠集めでもなかった。
「私を犯した男、カズヒデを、始末して欲しい」
その文字を目にした瞬間、心臓の鼓動が耳元で爆音となって鳴り響いた!
カズヒデ!
その名は、私の魂の最も深い場所に埋められた、決して触れてはならない毒の記憶(PTSD)を呼び覚ますトリガーだった!
カズヒデ!
それは、私の父の名である。
そして、私もまた、かつてその男によって魂の純潔を蹂躙され、尊厳を泥水で煮しめたような暗闇の中に突き落とされた、生き残りの一人であったのだ!
依頼者の女性の絶望は、鏡に映った私自身だった!
これはもう、探偵業務などという言葉で片付けられるような代物ではない。これは、私の血が、私の骨が、そして私の壊れかけた脳髄が、二十数年の時を経てようやく叫び出した「決着」の合図であった。
私は依頼書を黙って受け取り、引き出しの奥から一本のゴルフクラブを取り出した。
私はそれを武器としてではなく、因縁を断ち切るための象徴として手に取った。
私は夜の街を疾走し、記憶の地図を頼りに、あの忌まわしき「敷地」へと向かった。
私は正面玄関などという、お利口な入り口は選ばなかった。
テラスのガラスを叩き割り、粉々に砕け散るガラスの雨の中を、私は静かに歩み進んだ。
リビングの中央で、カズヒデと母、ミカコが、まるでテレビ番組でも見ているかのような平然とした面持ちで、私を迎え入れた!
私は手に持っていたゴルフクラブを、彼らの足元へと投げ捨てた!
金属が床に激突する鋭い音が、広い部屋に響き渡る!
私は、自らの内側にある全ての論理を動員し、言葉を紡ぎ出した!
「てめえこらおい!本日は、この私が直々に、はるばる殺しに来てやったというのに……茶もださねえのか!いいか、聞け!何故、社員を、部下を、そして、何故、私を犯したのか。……ああ、そうか。てめえらのようなミミズ以下のカス野郎には、『何故』などという問いは、愚問だったか。謝罪など、もはや、求めていねえんだよ。言葉の通じない馬鹿に、謝罪の意味などとうてい、理解できるはずもねえからな。だがよ。せめて、反省の色を見せろ。反省とはなあ、賠償金を積むことではないわけさ。自らの間違いを論理的に認め、それを改善し、次の行動に繋げることだ。次に繋げるってえのが、人間に許された唯一の再起の方法だ!……さあ言い分を聞こうじゃないか!腹から声出せ!」
私の声は、極限の怒りによって逆に……静まり返っていた。しかし、対峙した「父」の口から漏れ出たのは、私の想像を絶する、凄まじい絶望の調べであった。
カズヒデは、首をコテンと横に傾け、まるで幼子がアリの脚を引き抜く時のような、無邪気で、空虚な笑顔を浮かべた。
「んー!困っちゃ困っちゃ!カズヒデ地蔵、わからんち!ねね!強姦って、どこまでが強姦なのかなあ?ねえ、教えてよ!はい10!9!8!7!654321!0!はい言えない!あのね?じゃ。0.000000001 ミリちんちんが入ったら強姦なの?ん?じゃあ、空気に触れただけで強姦じゃん!ん?空気も、あるよね?ん?だったら、ぼくが外を歩いてるだけで、世界中の空気を強姦してるってことになるよねえ!じゃあお前の負け!しきちーっ!ぼくは天皇家三代将軍カズヒデ地蔵だよ?ん?会社の社長になって、闇の政府と通信してんだよ?ん?……あー馬鹿だからわかんないかー!しきちーっ!しきちーっ!ちきちーっ!敷地ーっ!」
カズヒデの瞳には、何の光も宿っていなかった。そこにあるのは、論理を嘲笑し、全ての苦痛を遊戯へと変換する、底なしの虚無であった。
「それにさあ!ん?犯された時!どういう、気持ちだったの?ね!ねねねねねるきまつ!ピ?……ねねねね!ね!どんなふうに、ぼくに、犯されたか、詳しく、言って、ごらんよ?ちもきよかったでしょ?気持ちよかったでちょ?それとも、痛かった?んふひ!どちにしろ、どちにちたって、ぼくは、感動した!ぼくは、いま、感動した!あ!いーこと思いついた!みんなに、強姦されたことはなせば、みんな感動つるよ!でもぼく覚えていないんだからそんなこと起きたことにはならないんだよぼくの記憶わーーー…………え?なんの話?じゅいーーーっ!ちきぽーちきぽーぷーちかち!わーーーー!」
カズヒデは突然、幼児退行したかのような奇声を発し、その場で跳ね回った。その姿は、一人の人間が狂気に陥ったというよりも、最初から「人間」としての部品が一つも組み込まれていない、肉の塊が駆動しているようにしか見えなかった。
私は激しい吐き気を覚えた!
怒りを通り越し、自らの存在そのものが、この男と同じ血を分けているという事実に、全身の細胞が拒絶反応を起こしていた!
さらに、傍らで微笑んでいた母、ミカコが、まるで迷子の子供を諭すような、心底から「可哀想なもの」を見る目で私を凝視した。
「あなたね!そんなに欲しいものがあるなら、街で当たり屋でもしなさいな!そーすれば、簡単にお金、手に入るわよーん?わざわざね!昔のね!ことをね!持ち出してね!あたちたちを困らせるなんて!あなた、ほんっとーにお金が欲しいのね!モ!嫉妬?ねえ、嫉妬?」
父カズヒデが補足した。
「そ!『ぼく傷ついたあ!』って祖母に言えばいーじゃんぴ!わ!同じ!同じだ!本当に、そっくり!同じ、同じ、おなちゃんず!……ひょう!」
カズヒデは楽しそうに手を叩き、歌うように笑った。
こいつらは、ダメだ。
脳髄が腐った気狂いを前にしたら、私の研ぎ澄まされた論理までが腐蝕し、溶け出していく。この空間に漂っているのは、言葉の通じない異界の悪意だ。
私は、耐え難い衝動に突き動かされ、カズヒデのその不快極まりない笑顔のど真ん中を、もちろん……全力の拳でぶん殴った!
時計を巻いた右手が唸る!
鈍い打撃音とともに、カズヒデの顔が歪み、彼は派手に床へと転がった!
だが!
だが、である!
彼は泣き叫ぶことも、怯えることもなかった!
床に這いつくばったまま、彼は血の混じった唾液を垂らし、恍惚とした表情で、なんと……うっとりと……私を見上げたのだ!
「わ!ぶつのって、ちもきいねえ!ぶたれるのも、すっごく気持ちい!い!いーっ!い!いーっ!もっと、もっとぶってよ! ちきぽーぱんちちゃんちたんたん! さいこー! さいこーだよ!」
カズヒデは、究極の性欲異常者であった!
犯す快楽と、犯される屈辱!
殴る快感と、殴られる痛み!
彼にとって、この世の全ての刺激は、自らの歪んだ性欲を充填するためのエネルギーに過ぎなかったのだ!
私の最大の、最後の武器であったはずの「暴力」すら、この男にとっては最高級の報酬として消費されてしまう!
この瞬間、私は人生で最大の絶望を味わった!
地獄!
地獄だ!
終わりだ!
正論も、怒りも、暴力も、何一つ通用しない!
この男は、地獄という場所ですら「気持ちいい」と言って笑い続ける、論理の外側に棲む怪物だった!
私は震える足で、その狂った館を後にした。背後で鳴り響く、両親の不協和音のような笑い声と奇声が、いつまでも耳にこびりついて離れなかった。
だが!
私は一つの結論に達していた!
個人の暴力で解決できないのであれば、この世界を統べる「システム」そのものを使って、奴らを粉砕するしかない。奴らが唯一、その狂った脳髄で認識できる「痛み」があるとすれば、それは快楽の源泉である「富」と「地位」を失うことだろうよ!
私は、祖母の邸宅へと急行した!
私の祖母。
彼女こそが、この腐り果てた一族の中に唯一残された、絶対的な、最後の秩序の守護者であった。
彼女は、日本国内で圧倒的なシェアを誇る「ある製品」を製造・供給する、五反田の、ある企業の社長であった。
深夜の訪問にも関わらず、祖母は書斎で私を待っていた。彼女は、血まみれの拳で震える私を、黙って見つめた。その瞳には、孫に対する……慈愛の光が宿っていた!
「ばあちゃん、殺せ!あいつらを、社会的に殺せ!あいつらは悪だ!孫が言うのもおかしいが、殺せ!……殺してください……!」
私は、膝をつき、泣き叫びながら、だが、絞り出すような声で懇願した。
「あの野郎たちには、人の心も、生き物としての魂も、良心もない!私が、皆が、どれほど傷つこうとも、どれほど言葉を尽くそうとも、奴らは、それを踏み躙る!踏み躙っている!……おばあちゃん、お願いだ!助けてくれ!奴らから、全ての権利を、全ての富を、そして、名前を奪い取ってくれ!私は!私はッ!正義を、まだ……信じたいんだよォああああああん!!!」
息子であるカズヒデから、文字通りいたぶり尽くされ、ボロ雑巾のように使い捨てられようとしていた、私。
祖母は、長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。彼女の背筋は、齢八十を超えてもなお、一本の鋼鉄の芯が通っているかのように真っ直ぐだった。
「……孫を可愛がらない祖母など、この世にね、そうそういないものだよ?いや、遅かったことをね、むしろ、謝るよ……」
彼女の声は、氷のように冷たく、しかし同時に、何よりも心強い福音となって私の耳に届いた。
祖母にとって、カズヒデという息子は、自らの輝かしいキャリアの中に生じた、最大にして最悪の「不純物」であった。彼女は、息子が犯してきた数々の蛮行を、一族の恥として、あるいは「システム」の維持のために黙認してきたのかもしれない。
だが!
私がその一線を越えて助けを求めた時、彼女の中にある「秩序」という名の神が、ついに重い腰を上げたのだ!
その翌朝から、世界は一変した!
カズヒデとミカコが享受していた全ての特権は、一瞬にして剥ぎ取られた。祖母の巨大なネットワークは、蜘蛛の巣のように張り巡らされた取引先、そして各界の隅々にまで「宣告」を下した。
祖母は、彼らを刑務所という「保護された空間」にすら送らなかった!
彼女が選んだのは、もっと残酷で、徹底的な「社会的抹殺」であった!
詳しくは書けないが、彼らの「権利」は抹消され、いかなる「手段」も、一族の息がかかった場所では一切拒絶されたのだ!
彼らは、生きながらにして「存在しないもの」として定義された!
川崎の街を歩けば、その顔を見た誰もが、まるで道端に落ちた嘔吐物を見るような眼差しで彼らを避け、いかなるサービスも、いかなる会話も提供されることはなかった!
カズヒデがどれほど「気持ちいい!」と叫ぼうとも、ミカコがどれほど「当たり屋をすればいい!」と笑おうとも、それを聞いてくれる「観客」は、もう、この世界のどこにもいなくなったのだ!
彼らは、死ぬことすら許されないまま、誰からも認識されない「透明な幽霊」として、廃墟となった「敷地」で、互いの腐った脳髄を突き合わせながら、永遠の飢えと孤独に沈んでいくことになったのだ!
数ヶ月後。
私は、あの女性依頼者と、海を見下ろす小さなカフェで再会した。
彼女の瞳には、かつての砂漠のような殺意は消え、穏やかな、しかし力強い生命の光が宿っていた。
「……終わったのですね」
彼女は、運ばれてきたコーヒーを一口飲み、静かに、精一杯の、やたら芝居がかった、できる限り邪悪な言い方で……叫んだ!
「ああ!殺しましたよ!物理的な死よりも、もっと残酷で、確実な死を!奴らはもう、誰の尊厳も汚すことはできない!……ひゃーっはっはっは!……………」
私の言葉に、彼女は微かに微笑んだ。
残酷だと思うかい?
いいや、ちがうね!
これは、残酷ではない!
これは、地獄から生還した者同士だけが共有できる、【痛みを伴った、慈しみの笑み】なのだよ!
私は、自らの内側を見つめ直した。
カズヒデという絶対的な絶望の象徴を排除したことで、私の心に平和が訪れたわけではない。
私の受けた傷は、これからも疼き続けるだろうし、あの狂った笑い声が夢の中に現れることもあるだろう。
だが、私は学んだ!
圧倒的な絶望を前にした時、人間に残された最後の手段は、暴力でも、逃避でもない!
それは、自らが信じるすべての「力」を、極限まで磨き上げ、システムという名の盾を持って、圧倒的な「実行力」で、立ち向かうことだ!
私はもはや、何者でもない!
だが!
悪を狩り、真実を暴くことが、私の仕事である!
かつては、自らの血の呪縛から逃れるために、闇雲に学と武を振り回していたこともあった。
しかし今、私の手にあるのは、もっと鋭利で、もっと強靭な、揺るぎない「人間としての真理」である!
絶望は、いつだって私たちのすぐ隣に口を開けて待っているさ!
だがね!
それを食い止める「希望」もまた、私たちの足元に存在しているんだ!
私は、祖母が与えてくれたこの「二度目の人生」を、自らの真理を証明するために使うだろう。
人間は、どれほど汚されようとも、何度でも立ち上がることができる!
怪物たちの声に耳を貸す必要はない!
私たちは、私たち自身の心を語り続けるのだ!
カフェを出ると、眩いばかりの陽光が私を包み込んだ。
潮風が、私の頬を優しく撫でて通り過ぎる。
私は、ただ、精一杯に、真っ直ぐに前を見据えて歩き出した!
私は、わけのわからない「実家」なるものは、あの日、廃棄した!
私は……これからは、私そのものが、いや、私がいる場所が「自宅」になるのだ!
だからこそ!
この、私の世界は、まだ……終わっちゃいないんだ!




