殺害予告!猫に破壊された店!そして切り刻まれるヴェリタス!
地獄という言葉は、往々にして生ぬるい。地獄には鬼がいて、閻魔がいて、罪に対する罰という「秩序」が存在するからだ。本当に恐ろしいのは、一切の因果律が崩壊し、理由も目的もない暴力が嵐のように吹き荒れる「混沌」である。
あの日、北の大地、札幌の街で私が足を踏み入れたのは、まさにその秩序なき混沌の深淵であった……!
事の始まりは、ある一つの信じ難い噂であった。
「突撃してきた猫に、入り口を粉砕された居酒屋がある」
もう。なんだこれは。
この活字の並びだけで、もう、すでに。
世界の理から逸脱している!
ご存知ない方に一応説明するが、猫とは、愛玩動物である。いくら野性味を残していようと、建物の入り口を粉砕するなどという物理的破壊力を持ち合わせているはずがない。
だが……!
その居酒屋は札幌の片隅に、周囲の冷たいコンクリートの風景から浮き上がるようにして、確かに存在していたのだ!
店の前に立った私の目に飛び込んできたのは、無惨にも猫によって叩き壊された入り口の残骸と、それを覆い隠すようにガムテープで乱雑に貼り付けられた段ボールの壁であった。北の都市の冷たい風が、段ボールの隙間からひゅうひゅうと吹き込み、店の内部がすでに外界の過酷さに敗北していることを示していた。
猫に舐められ、たかが数十センチの獣の突撃によって物理的な境界線を破壊されるような店。その事実が、この空間がいかに脆弱で、常識の枠組みから外れ落ちているかを物語っていた!
段ボールの扉を押し退けて店内に入ると、そこは予想を裏切らない、いや、予想を遥かに超える荒廃ぶりであった。壁紙は剥がれ落ち、床には正体不明の染みがこびりつき、空気は長年換気されていない油と安い酒、そして人間の敗北感が混ざり合った、むせ返るような重さを帯びていた。しかし、入り口の破壊など、この後に待ち受ける出来事に比べれば、ほんの些細な前置き、いや、単なる舞台の書き割りに過ぎなかったのである。
薄暗い店内の奥、カウンターの隅に、周囲の荒廃と同化するようにして一人の老人が座っていた。枯れ木のように痩せ細り、何ヶ月も手入れされていないであろう白髪と髭を蓄えたその姿は、世俗を捨てた仙人のようでもあり、同時に、社会の底が抜けた穴から這い出してきた亡霊のようでもあった。
私が席につこうとした、まさにその瞬間である。
「お前なんだ?舐めているんだろ!殺すぞ!」
鼓膜を突き破るような、そして空間の空気を一瞬にして凍らせるような罵声が、仙人の口から放たれた。私には何一つ思い当たる節がない。視線を合わせたわけでもなく、言葉を交わしたわけでもない。ただ、私がその空間に物理的に存在したという事実だけで、彼は激昂していた。彼の目は血走り、口角からは唾液が飛び散っていた。
「お前なあ!お前!お前のような奴はな、何も分かっていない!全てを舐め腐っている!釈迦の説法を聞いてこい!」
怒濤の全否定であった。私の過去、現在、そして未来に至るまでの全てが、彼の中で「舐めている」という一語に集約され、断罪された。釈迦の説法を聞けというその言葉は、宗教的な導きなどでは断じてなく、ただ私という存在をこの場から完全に排除するための、呪いの言葉であった。
気が、狂っている!
論理の欠片もない!
因果関係が完全に破綻している!
このような猫の吹き溜まり、段ボールで外界との境界を辛うじて保っているような地獄の廃墟に、釈迦などいるはずがない。しかし、その狂気に満ちた圧力、物理的な暴力を超える圧倒的な「拒絶」のエネルギーの前に、私は抗う術を持たなかった。私は逃げるようにして、その段ボールの扉を抜け、冷たい札幌の夜風の中へと押し出された。彼の言葉に従うしかなかった。釈迦がいるという、その見知らぬ場所へ向かう以外に、私の魂が休まる場所はなかったのだ。
冷たい風が頬を打つ。
私は仙人の言葉に導かれるまま、いや、呪いに背中を押されるままに、札幌のネオンが滲む通りを歩き続けた。そして、指定されたとされる怪しい居酒屋の前に辿り着いた。
そこは、かつて裏社会で血の雨を降らせ、今は反省して真っ当な道を歩んでいるとされる、極道者が経営する店であった!
過去の罪を悔い改め、人々に酒と食事を提供する場所!
なるほど!
仙人が「釈迦がいる」と表現したのも、その更生という物語の表層を掬い取ったものなのかもしれない。私は僅かな希望を抱き、その店の暖簾をくぐった。
しかし、そこに釈迦はいなかった!
仏もいなかった!
慈悲の欠片すら……存在しなかった!
そこにあったのは、反省などという薄皮一枚の下で、今にも爆発しそうなマグマのように煮えたぎる、圧倒的な「破滅」の気配であった!
店の奥から現れた店主は、一見すると愛想の良い笑顔を顔に貼り付けていた。しかし、その目の奥には、かつて幾人もの人間を沈めてきたであろう、冷酷で無機質な光が宿っていた。彼は私を見るなり、客に対する歓迎の意など微塵も見せず、突如として牙を剥いた。
タイマンであった!
物理的な拳を使ったものではない!
言葉という名の、最も凶悪な凶器を用いたタイマンである!
彼は私が席につくや否や、カウンター越しに身を乗り出し、機関銃の引き金を引いた。その弾丸は、テレビやネットのニュースから聞きかじったであろう、薄っぺらな政治や社会問題の話題であった。
「てめえ、誰だコラ!おい!お前!お前だよ!このやろう!最近のあの事件、どう思ってんだ!ああん?左翼野郎か?だとしたら、死ねい!」
私が口を開く隙など、一秒たりとも与えられなかった。
「ほう?違うだと?じゃああれか、右翼か?右翼の回し者か?だったら尚更、今すぐここで死ねよや!」
これは議論ではない!
意見の交換でもない!
彼にとって、右翼か左翼かなどという思想的背景はもう、なんか、どうでもよかったのだ!
彼はただ、己の内側に渦巻く暴力衝動を解放するための「理由」を必要としていただけである。ニュースの話題は、私を殴りつけるための棍棒に過ぎなかった!
言葉の一つ一つが、私の肉体を切り裂き、内臓を抉るような感覚に襲われた。
リンチ!
いや、これは魂のレイプであり、いや、もしくは、明白な殺人行為であった!
逃げ出そうと足に力を入れたが、彼の発する異常な磁場、凄惨な過去に裏打ちされた殺気が私の身体を金縛りにし、椅子から立ち上がることすら許されなかった。
さらに状況は悪化する!
私の絶望に引かれるようにして、店の奥からもう一人の人物が現れたのだ。それは、最初の店にいた仙人とはまた別の、「完全に」正気を失った常連の老人であった。
老人は、手にしたグラスの中の酒を床にこぼしながら、意味不明な雄叫びを上げて私と店主の間に割って入った。彼は店主の言葉の暴力に便乗し、あるいはそれに触発され、自身の内なる狂気を爆発させた。
「ああ!そうだ!こいつは駄目だ!腐っている!切り刻んで殺しちまえ!さらえ!殺せ!犯せ!」
老人は手元にあった箸を空中に振り回し、見えない敵、あるいは私を突き刺す真似を繰り返した。店主の怒声と、老人の狂乱。二つの異なる質の狂気が交わり、店内は完全に屠殺場と化した。いや、屠殺場にはまだ「食肉加工」という目的がある。ここは処刑場であり、理由なき通り魔の殺しの現場であった。
空気は酸素を失い、濃密な死の匂いが充満していく。私は言葉の刃で全身から血を流し、息も絶え絶えになっていた。そして、ついに私の中の何かが限界を超えた。
「おかしいだろう、あんたら!あんたら!何なんださっきから!いい加減に、しろ!」
私は立ち上がり、テーブルを叩いて怒鳴り散らした。理不尽な暴力に対する、人間としての最低限の抵抗。生存本能からの叫びであった。これで彼らが怯むか、少なくとも我に返ることを期待した。
しかし、私のその行動は、破滅の炎にガソリンを注ぎ込む結果となったのである……!
私が怒鳴った瞬間、店主と老人の動きがピタリと止まった。店内は不気味な静寂に包まれた。そして、次の瞬間、私の背筋に氷を突き立てられたような、絶対的な恐怖が走った。
彼らが、殴りかかってきたのではない。
彼らは、突然、優しく、なったのだ。
「お?ああ、そうかそうか。そうかあ。辛かったな。ふうん。大きな声を出させて悪かったな」
店主は、先程までの般若のような形相を一変させ、まるで赤子をあやすような、甘く、柔らかい声で囁いた。狂乱していた老人も、憑き物が落ちたように穏やかな笑みを浮かべ、何度も頷いている。
狂気の世界において、突然優しくなるとは何を意味するか。
平和な世界に生きる者は、これを「相手が反省した」「冷静になった」と勘違いするだろう。
だが!
それは致命的な誤りである!
混沌の底で生きる者たちにとって、怒りや罵声はまだ「相手を人間として認識し、感情をぶつけている」状態に過ぎない。コミュニケーションの延長線上にいるのだ。
しかし、その感情の熱が唐突に冷め、不自然な優しさや丁寧さが現れた時、それは「対話の終了」を意味する。相手を人間として扱うことをやめ、完全に「処理すべき物体」として認識し直した瞬間なのだ。
「今から、凄惨な方法で、殺害しますよ」
その優しさは、死神の宣告であった!
これは、いかなる場面においても絶対の法則である!
突然極道が優しくなったら、次の瞬間何が起きるか。
ドラム缶とコンクリートが用意されるのだ。
突然上司が優しくなったら、次の瞬間何が起きるか。
取り返しのつかない左遷や解雇の通達が下されるのだ。
突然気狂いが優しくなったら、次の瞬間何が起きるか。
刃物が腹に突き立てられるのだ。
殺害予告!
私の周囲の空気が完全に凍りつき、一歩でも動けば即座に命を奪われるという絶対絶命の極致であった!
もう彼らの穏やかな笑顔の奥では、私をどのように切り刻んで解体し、そうして、ガソリンをかけて燃やして、どこに捨てるかの計算が猛スピードで進んでいるのが分かった。
私は死の淵に立っていた!
心臓は早鐘のように打ち、冷や汗が全身から噴き出していた。ここで私が取るべき行動は何か。
「申し訳ありませんでした、私が悪かったです」と謝罪することか?
否。
断じて否である。
破壊と破滅の混沌の世界において、謝罪は絶対の「悪手」である。
謝罪とは、自らの非を認め、相手の優位性を完全に固定化する行為だ。
文明社会であれば、謝罪は水に流すための儀式として機能する。
しかし!
狂気の世界では、謝罪は「私はあなたに全てを委ねます。好き殺していただいて構いません」という、無防備な肉体を差し出す行為に等しい。
自分が悪いなら反省を行動で示すべきであり、自分が正しいなら相手に理解を示すべきだ。
決して、言葉で屈服してはならない!
謝罪をしてしまい、相手の嗜虐心に火をつけ、身包みを剥がされて殺害された人など、歴史上山ほどいる。
国家間の対立もそうだ。
安易な謝罪は領土や賠償の際限ない要求を生む。
学校内の喧嘩もそうだ。
一度頭を下げれば、永遠に奴隷として扱われる。
私は一転して、自身の姿勢を崩すことなく、深く息を吸い込み、彼らの目を真っ直ぐに見返した。そして、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「なるほどですね。そういう意見もありますね」
謝罪は一切しない。
しかし、反発もしない。
ただ、彼らの言葉という事実を「一つの事象」として受け止めたというサインだけを送る。それは、のれんに腕押しであり、柳に風であった。私が彼らの殺意の刃を、柔らかく、しかし確実に受け流した瞬間だった。
私のその言葉を聞いた瞬間、店主と老人の顔から、先程までの死神のような冷たい優しさが消え去った。彼らは数秒間、ポカンとした顔で私を見つめ、やがて顔を見合わせた。
そして、突如として腹の底から響くような大笑いを始めたのだ。
「ほーん。探偵さんよ、やるじゃねえか!」
「お前、分かってるな!その通りだ、そういう意見もあるんだよ!な?なあ!」
私の敗北でもあり、勝利でもあった!
私は彼らの狂気に屈し、言葉による暴力に耐え忍んだという意味では敗北者である。しかし、彼らの「悪の理屈」、すなわち謝罪という罠を回避し、混沌のルールの中で生き延びたという意味では、完全なる勝利者であった。
狂ったおっさんたちは、私の中にある種の「同類」の匂い、あるいは、混沌を生き抜くための冷徹な計算式を見出したのだろう。
彼らは突如として私を称賛し始めた!
先程までの殺意が嘘のように、彼らは私を肩を抱き、上機嫌で酒を注いできた。
「ハーッハッハ!今日は俺の奢りだ!遠慮すんな!」
店主はそう言って、頼んでもいない豪華な刺身の盛り合わせと、北の大地の冷たい日本酒をテーブルに並べた。私は、まだ震えの止まらない手で杯を握り、その酒を胃に流し込んだ。
ここは地獄より恐ろしい……混沌の世界である!
一寸先は闇であり、理不尽な死が常に隣り合わせで息を潜めている!
しかし!
その混沌の理屈を読み切り、絶望の淵で正気を手放さなかった者だけが、こうして狂人たちと共に杯を交わし、生き延びるための糧を得ることができるのだ。
私は、奢られた刺身を、もりもりと噛み砕きながら、札幌の夜の深さを、そして人間の内側に広がる底なしの闇の深さを、ただ黙って飲み込んでいた……!
猫に破壊された段ボールの入り口から始まったこの最悪の一日は、こうして奇妙な祝宴をもって幕を閉じたのである……




