宇宙怪獣を捕獲した男!
真実とは、何か。
この問いに対して、人類は有史以来、哲学、宗教、科学というあらゆる網を投げてきたが、その実体は常に指の隙間からこぼれ落ちていくばかりであった。
真実とは、決して光の当たる大通りや、権威ある学問の殿堂に鎮座しているものではない。それは往々にして、腐臭の漂う路地裏や、狂人の譫言の隙間や、あるいは法と道徳の境界線が曖昧に溶け落ちた、どんよりとした泥水の中にこそ、ひっそりと沈殿しているものである。
私はその日、大麻を裏メニューとして密売している、薄暗く埃っぽいコーヒー屋のカウンターに座っていた。
店内には、深く焙煎されたコーヒー豆の焦げたような香りと、その奥に隠しきれない、あるいは隠す気すらない、吐き気を催すほどに甘ったるく、粘り気のある特有の紫色の煙の匂いが充満していた。換気扇は油とヤニで黒く汚れ、ただ、無意味に鈍い音を立てて回っているだけで、空気の循環という本来の役割をとうの昔に放棄していた。
カウンターの奥で、焦点の定まらない目でコーヒーカップを拭き続けている店主は、一般社会の定規で測れば、間違いなく「狂人」の箱に放り込まれる類いの人間であった。彼の全身からは、長年にわたって化学物質と違法な煙を肺の奥底まで吸い込み続けた者特有の、細胞の奥深くから腐敗していくような甘い死臭が漂っていた。
彼は、私に向かって、世界の裏側に隠された真実について、延々と語り続けていた。彼は世界各地を巡り、砂漠のど真ん中や、氷に閉ざされた極地、あるいはアマゾンの奥地で、UFOを調査し、時には自らの手で「捕獲」しているのだという。
通常ならば、私はこのような戯言を口にする人間を相手にはしない。脳の海馬が麻薬によって萎縮し、現実と幻覚の境界線が消滅してしまった哀れなジャンキーの、よくある誇大妄想のパターンである。適当に相槌を打ち、冷めたコーヒーを飲み干して、さっさとこの不快な空間から立ち去るのが定石だ。
だが、私はその時、どうしても席を立つことができなかった。なぜなら、彼の淀んだ、黄ばんだ白目の中にある、ピンホールのように収縮した黒目の中に、私は「真実の光」を見てしまったからだ!
人間は、嘘をつく時、必ずどこかに綻びを見せる。声の震え、視線の泳ぎ、筋肉の微細な強張り。しかし、目の前でUFOの捕獲方法について……即ち。いかにして未知の宇宙怪獣「ラルゴン」を麻袋に押し込み、軽トラの荷台に縛り付けたかについて……を語る彼の瞳には、一点の曇りも、一片の疑いも存在しなかった。
彼は、本気でそれを経験し、そうして……本気でその記憶を事実として脳に刻み込んでいるのだ!
主観的な現実において、彼は嘘を言っていない!
彼の中で……それは紛れもない真実として成立している!
狂気とは、時に論理よりも強靭なリアリティを持つ。私は、その絶対的な主観の前に、奇妙な畏敬の念すら抱き始めていた。
その時である!
店内の、油にまみれた汚らしい電話が、けたたましいベルの音を鳴らして沈黙を切り裂いた。暴力的なブザー音が、麻薬の煙に満たされた空間を震わせた。
店主は、まるでその電話が鳴ることを最初から知っていたかのように、ゆっくりと手を伸ばし、受話器を持ち上げる前に、電話機に後付けされたナンバーディスプレイの液晶画面を確認した。私も、カウンター越しにその画面を覗き込んだ。
そこには、見慣れない、桁数の異常に多い国際電話の番号が表示されていた。
私は手元のスマートフォンを取り出し、その番号をブラウザの検索窓に打ち込んだ。どうせ、海外からの詐欺電話か、怪しい投資の勧誘だろう。そう思いながら検索結果の画面を見た私の目は、驚愕に見開かれた。
検索結果のトップに表示されたのは、誰の目にも明らかな、あの「NASA」……アメリカ航空宇宙局の文字であった。より正確に言えば、NASAの下部組織であり、ある種のデータ収集を専門とする、極秘の事務所の番号と完全に一致していたのだ。
私は息を呑んだ!
ラリった店主の誇大妄想!
UFOの捕獲!
そして、NASAからの着信!
これらが一本の線で繋がろうとしている。世界は、私の理解を超えた不条理な脚本によって動いているのか!?
店主は、なんの躊躇いもなく受話器を取り、「ああ、はい。はい。……ええ、今、店にいますよ」と、まるで近所の酒屋の出前を受けるかのような、極めて日常的で気の抜けた声で応対し、そのまま電話を切った。
「誰からすか」
私が低い声で尋ねると、店主は焦点の合わない目で私を見つめ返し、にへらりと笑った。
「宇宙。」
そして、さらに私の常識を根底から粉砕する、圧倒的に奇妙な事象が引き起こされた。電話を切ってから、ほんの数十秒後のことである。
カランコロンと、店の入り口の安っぽいドアベルが鳴り、二人の男が入ってきたのだ。
黒ずくめの男たちであった!
映画で見るような、体にフィットしたオーダーメイドのブラックスーツに、漆黒のサングラス、そして耳には通信用のイヤホン。そんな、都市伝説に語られる「メン・イン・ブラック」の姿を、私は無意識のうちに想像していた。
しかし、現実は、常に私の想像の斜め下を、泥を這うような速度で通過していく。
店内に入ってきた二人の男は、確かに黒いスーツを着てはいた。
だが、それは量販店で吊るしで売られているような、生地の薄い、サイズも微妙に合っていない、ヨレヨレの黒スーツであった。サングラスなどかけておらず、その目元には、連日の残業と終わりの見えない書類作成によって深く刻まれた、漆黒のクマが張り付いていた。手には、使い古されて角が擦り切れた安物のビジネスバッグを提げている。
彼らの歩き方、その丸まった背中、そして周囲に向かって無意識に発散している、圧倒的な「申し訳なさ」のオーラ。それは、どこからどう見ても、巨大な陰謀を操る秘密組織のエージェントなどではなく、理不尽なノルマと上司のパワハラにすり潰され、土下座のしすぎで膝の関節がすり減った、哀れで疲れ果てた日本の末端サラリーマンの姿そのものであった。
「いやいやいや。あんた誰よ」
私は、あまりの光景の落差に耐えきれず、半ば呆れたように彼らに向かって声をかけた。
すると、二人の男は、私の声にビクッと肩を震わせ、名刺入れを慌てて取り出そうとして床に落とし、それを拾い上げながら、もじもじと、本当にすまなさそうに、消え入るような声でこう答えたのである。
「いやその、あたくしたちはね、あのー、NASAの方の者でして……いつもお世話になっておりやす……」
『NASAの方の者』。なんという、言葉の響きだろうか。『消防署の方から来ました』と言って消火器を売りつける詐欺師と全く同じ文脈で、彼らは宇宙の真理を探究する最高機関の名を口にしたのだ。
そして、本当に、NASAのおっさんだった。
彼らの差し出した名刺には、確かにNASAのロゴと、どうでもいい末端部署の長ったらしい肩書きが、安っぽいインクで印刷されていた。
おっさん二人は、カウンター席に縮こまるように座り、出された泥水のようなコーヒーに手を付けることもなく、バッグからクリップボードを取り出した。そして、ラリって涎を垂らしている店主に向かって、極めて事務的な、まるで市役所の窓口で戸籍謄本の発行手続きをするかのような口調で、UFOの目撃情報と「捕獲」の事情聴取を始めたのである!
「ええと、それで、その捕獲されたという対象物は、銀色でしたか?それとも鉛色?ああ、なるほど。触手はありましたか?ええ、ええ」
店主の口から紡ぎ出される、麻薬によって歪められた支離滅裂な宇宙の記憶。それを、疲れ果てたNASAのおっさんたちは、一切の感情を交えることなく、ただ淡々とチェックシートに書き込んでいく。そこには、未知との遭遇のロマンも、人類の未来を左右する恐怖も、何一つ存在しなかった。ただ、巨大な官僚機構の末端で、意味のない書類の山を消化し続けるという、無間地獄のような「お仕事」の風景があるだけだった。
数十分後。
聴取を終えた二人の男は、「本日は貴重なご意見、誠にありがとうございました」と深く一礼した。そして、あろうことか、バッグの中から透明なビニール袋を取り出し、「こちら、粗品になります。特別大サービスということで……」と言って、私と店主の前に差し出した。
それは、プラスチック製の、ひどく安っぽい「NASA・キーホルダー」であった。人類の叡智と宇宙への果てしない探求心の結晶が、パチンコ屋の景品以下のチープなキーホルダーとして、末端のサラリーマンから大麻の売人と私に配給されたのだ。
宇宙のおっさん二人は、「それではね、あーしたちは次の現場、ありますので……」と何度も頭を下げながら、逃げるようにして店を出て、夜の街の闇の中へと消えていった。
私は、テーブルの上に置かれたNASA・キーホルダーを指で弾きながら、深い虚無の淵に立たされていた。世界は、私が思っていたよりも遥かに、絶望的なまでに「くだらない」場所であった。宇宙の謎も、政府の陰謀も、蓋を開けてみれば、ただの疲弊したサラリーマンたちによる、意味のない書類仕事の連続に過ぎなかったのだ。不条理とは、圧倒的な非日常が襲いかかってくることではない。圧倒的な非日常が、極めてくだらない「日常のフォーマット」に落とし込まれていること、それこそが真の不条理であり、恐怖なのだ。
だが、この宇宙のおっさんたちの訪問すら、これから訪れる圧倒的な混沌の、単なる前置きに過ぎなかったのである!
宇宙の官僚たちが去った直後、店のベルが再び鳴り、一人の男が入ってきた。
その男が足を踏み入れた瞬間、店内の空気が一変した。大麻の甘い匂いを上書きするように、錆びた鉄と、古い血と、何年も洗われていない獣の毛皮のような、むせ返るような強烈な悪臭が漂ってきたのだ。
それは、人殺しのおっさんであった!
彼の顔には、人生のあらゆる局面で敗北し、社会の底辺を這いずり回ってきた者特有の、深く刻まれた卑屈な皺と、他者を一切信用しない猜疑心に満ちた濁った目があった。彼はかつて、自らの欲望か、あるいは短絡的な怒りによって他者の命を奪い、コンクリートの檻の中で何年もの歳月を過ごしてきた、正真正銘の「殺人鬼」なのである!
しかし、彼は店主に馴れ馴れしく声をかけ、カウンターに座るなり、自らの現在の職業について誇らしげに語り始めた。彼は檻の中で「心を入れ替え」、暴力という直接的な手段を捨て、現在は「特殊詐欺屋さん」をしているのだという!
高齢者の自宅に電話をかけ、孫や警察官を装って口座から現金を振り込ませる、あの卑劣極まりない犯罪行為を、彼は、あたかも、立派なビジネスであるかのように語った!
人を殺した男が、刑期を終えて、詐欺師になる。
社会の底辺の生態系としては、吐き気はするが、決して珍しくない、よくある話だ。直接的な暴力から、情報と心理操作を用いた間接的な暴力への移行。そこには、彼なりの「成長」や「社会適応」の歪んだプロセスがあるのだろう。私は、彼が詐欺の手口を自慢げに語るのを、氷のように冷たい目で見つめながら、ただ沈黙を保っていた。
だが、この頭のネジが完全にねじ切れた、混沌を煮詰めたようなおっさんは、私に対して、そして世界に対して、絶対に口にしてはならないことを言ったのだ!
彼は、私の冷たい視線に気づいたのか、あるいは自らの存在意義をさらに誇示しようとしたのか、突然、目を血走らせ、狂ったように叫び始めた。
「俺も、絵を描くよ!俺には才能があるんだ!見てろい、俺の魂の叫びッ!」
彼は、店主からボールペンと裏紙をひったくるように奪い取ると、異常な筆圧で紙に線を叩きつけ始めた。ボールペンの先が紙を破り、テーブルに傷をつける音。そして、彼の口から漏れ出す、言語の形を成していない、原始の獣のような咆哮。
「じじじじじじじ!びん!ぶじじじじじ!らーたたったあ!らー!」
それは、音楽でもなく、言葉でもない。脳のシナプスが化学物質によって焼き切れ、狂気と自己顕示欲だけが暴走した結果生み出された、純粋な「ノイズ」であった。ドラッグで完全に破壊されたおっさんは、その壊れた頭の中に渦巻く汚泥のような妄想を、アートと称して紙に描き、自己表現し始めたのである。
彼は、自らの殺人という行為を、そしてそれに続く詐欺という行為を、何か特別な「負の才能」であると勘違いしていた!
俺は社会のルールから外れたアウトローだ、俺は命を奪うことの意味を知っている、だから、俺の生み出すものは全てが常識を破壊する真のアートになるのだ……と!
彼のその醜悪なパフォーマンスの根底には、そんな吐き気を催すほどの自己愛と、底の浅いヒロイズムが透けて見えていた。
私は、紙を破りながら涎を垂らして奇声を発するそのおっさんを、地獄の底から見上げるような、絶対的な軽蔑を込めて睨みつけた。
「おう。その態度。何だ、お前」
私の低く、重い声が、店内に響いた。おっさんのペンを動かす手が、ピタリと止まった。
「何か……勘違いをしてるんじゃないか?」
私は、カウンター越しに彼の襟首を掴み、その濁った目玉を真っ直ぐに射抜いた。
「ヒトを一匹殺したくらいで、偉くなった気でいるのか?」
その言葉は、彼にとって全く予期せぬ一撃であったはずだ。彼は、自らが「殺人者」であるという事実を、他者を威圧し、自らを特別な存在として修飾するための最強のカードだと信じて疑っていなかった。しかし、私はそのカードを、鼻で笑ってへし折ったのだ。
たかだか一人の人間を、感情の暴走や浅はかな動機で殺した程度で、神の領域にでも足を踏み入れたと錯覚しているのか?
この宇宙の果てしない虚無と、巨大な不条理の歴史を前にして、お前の犯した罪など、道端の蟻が他の蟻を噛み殺した程度の、取るに足らない微小な事象に過ぎない。それを「俺は特別だ」「俺はアートを生み出せる」などと、どの口が言っているのだ。
「お前、自分が狂っていると思ってるんだろうが、お前のそれ、狂気ですらないよ。演技だよな。お前、ただの馬鹿だ。私は、今のお前のそれを、見間違いだと思うことにしてやるから……やり直せ。人生。やり直せ。」
私の絶対的な否定と、殺意すらも通り越した圧倒的な「虚無」のオーラに当てられ、おっさんは完全に圧倒された。先程までの狂ったようなテンションは嘘のように消え失せ、彼は怯えた小動物のように椅子の上でちぢこまり、ガタガタと震え始めた。
そして、彼は、自らの崩壊しゆく精神を必死に繋ぎ止めるように、涙目でこう懇願してきたのである。
「でも、宇宙見えるんだよう!頭の中に宇宙が見えるんだよう!ほんとだよう!俺は宇宙を描いているんだよう!」
こいつは、もう、ダメだ。
私は、彼から手を離した。
ヤクをやったら、宇宙が見える、だと?
NASAの連中がヨレヨレのスーツを着てキーホルダーを配り歩いているこの世界で、麻薬という化学物質の作用で脳内に発生したただの幻覚を「宇宙」と呼んで縋り付く。これほどの知的敗北、これほどの精神の堕落があるだろうか。
彼らは、真実の宇宙の恐ろしさに直面する勇気がないから、薬物という安易な逃げ道を使って、自分の脳内に都合の良い「箱庭の宇宙」を作り出し、その中で神を気取っているだけなのだ。私は、このような自家中毒に陥った、偽物の狂気に付き合う気は毛頭なかった。
私は、冷え切ったコーヒーの代金をカウンターに叩きつけ、店主の顔も見ずに、その狂気の空間から逃げるように店を出た。
扉を開けると、まだどこか冬の気配をわずかに残した、刺すような冷たい夜気が私の頬を打った。
深夜の街。
ネオンが毒々しく明滅し、欲望と絶望が渦巻くこの歓楽街は、私が思っていた以上に、すでに完全に崩壊し、狂気の坩堝と化していた。
通りを歩き始めると、すぐに異常な光景が次々と目に飛び込んできた。
路地裏の入り口では、頭にアルミホイルを巻きつけた狂いのババアが、見えない敵に向かって傘を振り回していた。彼女は「電磁波が脳を焼いている」と絶叫し、自らの手で自らの髪をむしり取っていた。彼女の世界は、姿なき電磁波という陰謀によって完全に支配されているのだ。
その少し先、自販機の陰では、みすぼらしい衣服をまとったジジイが、天に向かって拳を突き上げながら、ズボンを濡らしていた。「政府だ!政府の陰謀だ!俺の膀胱にチップを埋め込んで、強制的におしっこを出させやがる!俺は『お前たち』の操り人形じゃねえ!」彼の狂気は、自らの排泄という最も原始的な生理現象すら、巨大な権力の介入へとすり替えていた。
交差点の真ん中では、まだ十代と思われる少年が、腕に巻いた偽物のロレックスを見せびらかしながら、道行く老人に「これを飲めば永遠の命が手に入りますよ」と、ただの小麦粉を固めただけの健康食品を法外な値段で売りつけていた。彼の目は、金という数字の魔力に完全に魅入られ、人間性を喪失した空虚な穴と化していた。
そして、大通りの向こう側からは、衣服をボロボロに引き裂き、靴も履かずに裸足でアスファルトを蹴り上げる、野生動物のような少女たちの集団が走ってきた。彼女たちは、酔い潰れて道端に倒れ込んでいたサラリーマンに群がると、まるで獲物を解体するハイエナのように、瞬く間に彼の財布、時計、そして身につけている衣服の全てを剥ぎ取り、奇声を上げながら夜の闇へと消えていった。
極めつけは、サイレンを鳴らして駆けつけた救急車とパトカーの前に立ちはだかる、一人の初老の男であった。彼は、患者を救護しようとする救急隊員に向かって「宇宙の波動を感じろ!」と殴りかかり、それを取り押さえようとする警察官の目の前で、突如として奇妙なリズムで狂ったように踊り始め、権力を嘲笑し、煽り立てていた。
この街はもう、ダメだ。
電磁波ババア、排泄ジジイ、偽ロレックス少年、野生少女、ダンス学者。
彼らは皆、他者とのコミュニケーションを完全に絶たれ、自らの脳内にある「絶対的な妄想の宇宙」の中だけで生きている。彼らの世界は、決して交わることのない無数の狂気のシャボン玉として、この街の空間を埋め尽くしている。社会という概念は既に崩壊し、ただ個別の狂気が、物理的な空間を共有しているだけなのだ。
そして、その狂気のシャボン玉の間をすり抜けるように歩いている私自身もまた、この混沌という名の劇場の、特等席に座らされた観客であり、同時に舞台の上で踊る道化の一人であることに気づかざるを得なかった。
その時である!
私のポケットの中で、スマートフォンが震え、バイブレーションの低い音が鳴り響いた。
こんな深夜に、誰からだ。私は液晶画面に目を落とした。そこに表示されていたのは、私が以前、ある厄介な事件で関わった依頼人からの着信であった。
私は、深い溜息をつき、通話ボタンを押してスマートフォンを耳に当てた。
「……もしもし」
私がそう言うか言わないかのうちに、電話の向こう側から、依頼人の鼓膜を破るような、そして正気を完全に失った絶叫が飛び込んできた。
『ああああああああ!!壁が!壁の中から、無数の目玉がこっちを見ている!!いやだ、来ないで!私の皮膚の下に、無数の虫が、虫が這い回って……!助けて、彼らが、彼らが私の名前を逆に呼んでいる!!』
依頼人もまた、彼女自身の作り出した狂気の宇宙に飲み込まれ、完全に発狂していた。彼女の叫び声は、電波に乗って私の鼓膜を震わせ、私の脳髄に直接、新たな混沌の種を植え付けようとしていた。
私は、冷たい夜風の中でスマートフォンを耳に当てたまま、空を見上げた。そこには、星一つ見えない、鉛色に淀んだ夜空が、ただ、無機質に広がっているだけだった。
意味などない。
理由などない。
救いなど……ない!
この世界は、最初から終わっていたのだ!
ただ、人間という哀れな生物が、その脳の機能の限界ゆえに、世界が終わっているという事実を認識できず、それぞれの妄想の宇宙の中で、滑稽なダンスを踊り続けているに過ぎない。
私は、依頼人の絶叫をBGMとして聞き流しながら、自らの内に広がる、圧倒的で、静謐な、そして絶対的な「虚無」を抱きしめた。
私の世界は、すでに終わっていた!
そして、終わっているからこそ、この底なしの不条理と狂気を、私は最後まで見届けてやらなければならない!
それだけが、この混沌の荒野に残された、狂人にすらなりきれない私の、呪われた矜持なのだから!




