ネコの握りとタバコの握り!包丁男の進撃!
本当にしぬかと思った話
美とは、秩序である。……少なくとも、私、Wan Liyueは、そう信じて生きてきた。
一分の隙もない銀盤の上に、職人の指先によって完璧な均衡で鎮座する一貫の握り。米粒の一つひとつが同じ方向を向き、適度な空気を含み、その上に乗せられた魚介の切り身が、まるで宝石のような光沢を放つ。温度、湿度、タイミング、そして器との調和。それら全てが数学的な精密さで統合された瞬間に立ち会うことこそが、食という営みにおける至高の喜びであり、私の荒れ果てた魂を鎮める唯一の儀式であったのだ。
私は、完璧に管理された美が好きだ!
熟練の職人が、自らの人生の何十年という時間を削り出し、雑念を排して磨き上げたその「完成された世界」に、己の身を浸すことが好きだった。
そう、過去形である。
今となっては、その潔癖なまでの美学は、ある「戦慄の夜」を境に無惨にも破壊され、跡形もなく消え去ってしまった。
その事件が起きたのは、私が探偵業という、人間の悪意の膿を絞り出すような仕事に疲れ果て、心身の療養として静岡の浜松に居を移していた頃の話である。
浜松という街は、不思議な熱量を持っている。楽器、バイク、そして鰻。職人たちの情熱が街の底流に流れていながら、どこかおっとりとした風情も漂っている。私はその街の片隅にある、看板も出ていないような小さなバーに身を寄せていた。
その店は、酒の品揃えも悪くはなかったが、何よりも「料理が異常に美味い」ことで一部の食通に知られていた。いや、美味しいという表現では生ぬるい。そこの店主は、酒を出すのはあくまで口実であり、自らの内に渦巻く過剰な創造性を料理という形で吐き出さずにはいられない、一種の狂気を孕んだ料理人であった。
店内は洗練されたジャズが流れ、間接照明が心地よく闇を演出している。だが、厨房から漂ってくるのは、繊細なフレンチのソースの香りであったり、あるいは野性味溢れるジビエの焼ける匂いだったりと、バーの概念を根底から揺さぶるものばかりだった。その料理人は、客が酒を楽しんでいることなど目に入っていないかのように、ただ一心不乱に、完璧な火入れと盛り付けに執念を燃やしていた。完全無欠の芸術家。私は彼の作り出す、一糸乱れぬ調和の取れた一皿に、自らの傷ついた精神を癒やす安らぎを見出していたのである。
あの日、外は激しい雨が降っていた。窓を叩く雨音と、静かなジャズの旋律。私は店主が心血を注いで作り上げた、芸術品のようなコンソメスープを口に運び、そのあまりの純度の高さに溜息を漏らしていた。
その時である!
ガシャン、という暴力的な音と共に、店の重厚な扉が蹴破られた。
冷たい雨風と共に店内に踏み込んできたのは、ずぶ濡れの、異様な風体の男だった。白髪混じりの乱れた髪、血走った目。そして何より、私の心臓を凍りつかせたのは、彼の右手に握られていたものだった。
銀色に光る、巨大な柳刃包丁。
男は狂ったような形相で、その包丁を天高く突き出し、誰に言うでもなく叫び声を上げた。
私は、死の匂いを嗅ぎ取った!
探偵として、これまで数多くの修羅場を潜り抜けてきた私の直感が、警報を鳴らし続けていた。ついに、私の人生もここで終わりか。療養先の穏やかな夜に、狂った通り魔の手によって、私の物語は幕を閉じるのか。店主も、他の客も、恐怖のあまり声も出せずに固まっていた。
だが!
その包丁を握りしめた男は、カウンターに詰め寄ると、いきなり自らの左腕を捲り上げ、その包丁の刃を、あろうことか自分の腕の産毛に当てたのである。
「見てくれ……見てくれよ!この切れ味をんッッ……ッ!」
男は、震える声でそう絞り出した。シュッ、という微かな音と共に、彼の腕の産毛が、まるで魔法のように音もなく舞い落ちる。男は、自らの凶器を見つめながら、恍惚とした表情を浮かべていた。
「研いだんだ。三日三晩、一睡もせずに、俺の魂をこの鋼に叩き込んだんだ!見てくれ!この輝き!この刃先!」
私は、呆然とした!
殺意など、そこには微塵もなかった。男は、隣の寿司屋の大将だったのだ。彼は、自分が極限まで研ぎ澄ませた包丁の出来栄えにあまりに興奮し、その感動を誰かに伝えたいという衝動を抑えきれず、大雨の中を包丁を握りしめたまま、隣のバーへと殴り込んできたのである。
異常者だ!
紛れもない、真性の異常者であった!
包丁の切れ味を自慢するために、雨の中を凶器を持って疾走する。社会常識も、他者への配慮も、そこには存在しない。だが、同時に私は、その男の瞳の奥に宿る、「真実の光」を見てしまったのだ。
「……面白いじゃないの。その包丁で握る寿司、食べさせてくださいよ」
恐怖が去った後、私の中に残ったのは、強烈な好奇心だった。私は、異常者の理論には、常に敬意を払うことにしている。なぜなら、彼らこそが、この退屈な現実の壁を突き破る唯一の鍵を持っているからだ。
「ああ、来るか?なら、いますぐ来いよ!ほら!いますぐだ!いますぐだよ!ほら!ほら!はやくしな!見せてやる!」
私はバーの会計を済ませ、狂った寿司屋の後に続いて、雨の街へと飛び出した。
隣にあるというその寿司屋の暖簾を潜った瞬間、私は……激しい後悔に襲われた!
そこは、私がこれまでの人生で大切にしてきた「美学」という概念が、文字通り、ゴミのように捨て去られた場所だったからだ。
まず、異様な匂い。
魚の匂いに混じって、埃と、古い紙の匂い、そして強烈な煙草の匂いが鼻を突く。
店内は混沌そのものであった。
カウンターの上には、読み古されたスポーツ新聞や競馬雑誌が山のように積み上げられ、その隙間を、数匹の野良猫たちがわがもの顔で駆け巡っている。猫の毛が宙に舞い、古い照明に照らされて輝いている。
埃っぽい。
あまりに埃っぽい。
清潔感などという言葉は、この店の辞書には最初から存在しないようだった。そして、先ほどの包丁男はと言えば、口に煙草を咥えたまま、まな板の前に立っていた。
「座れよ!今、握ってやっから!」
大将は煙草を灰皿に置くことすらせず、先ほどの柳刃包丁を手に取った。彼は、まな板の上を悠々と歩く狂猫を、汚れた手で払い退けた。
「てめえ猫!どけ!死ね!」
「ニャゴ!(てめえが死ね!)」
そして、その手のまま、冷蔵庫から無造作に魚を取り出したのである────!
最悪だ!
この世の終わりのような店だ!
保健所が来れば即刻営業停止だろう。猫の毛と、煙草の灰と、埃。それらが渾然一体となったこの世の終わりのような空間で、今、私の目の前で寿司が、握られようとしている!
私の脳内の「潔癖な審判」が、今すぐ逃げろと叫んでいた。完璧な美を愛する私の魂が、この不浄な光景を拒絶していた。だが、大将の包丁捌きだけは、異様だった。先ほど自慢していた通り、その刃先は神懸かり的な正確さで魚の細胞を切り裂いていく。一切の抵抗なく、魚の身が透き通るような薄片へと変わる。
彼は、煙草を吹かしながら、そして時折、足元にもぞもぞとすり寄ってくる泥棒猫を足で蹴り飛ばしながら、寿司を握り始めた。
「うし!ほら食え!」
カウンターに無造作に置かれたのは、一貫のマグロだった。
それは、私が知っている「完成された美」とは程遠いものだった。シャリの形は歪で、猫の毛が一本、皿の端に付着している。煙草の匂いがネタの香りを侵食し、店内の埃が空気中に充満している。
絶望の味がするはずだった!
不快と嫌悪感で、喉を通らないはずだった!
私は、覚悟を決めて、その寿司を口に運んだ!
その瞬間、私の世界は、音を立てて崩壊した!
美味い!
あまりにも、あまりにも美味いのだ!
それは、洗練された高級店で味わうような、計算し尽くされた知的な美味しさではなかった。もっと暴力的で、原始的で、生命の根源に直接訴えかけてくるような、圧倒的な「味の奔流」であった!
極限まで研ぎ澄まされた包丁によって、魚の細胞一つひとつが活かされたまま、舌の上で爆発するように旨味を解放する。猫の匂いも、煙草の煙も、埃っぽさも、不思議なことにその強烈な美味しさの前では、複雑なスパイスの一部であるかのように錯覚させられた。
いや、違う!
美味しいのではない!
私は「生」を食べていたのだ!
清潔な、滅菌された、完璧な管理。それは確かに美しいが、同時に、どこか「死」に近い静止した世界でもある。だが、この汚泥と混沌に満ちた店で、猫と戯れ、煙草を燻らせながら、自らの狂気を鋼に叩き込む男が握る寿司には、剥き出しの「生」のエネルギーが充満していた。
破壊!
壊滅!
混沌!
それらは、生命が誕生する瞬間に必ず伴う、不可避のプロセスである。私は、あの日まで、整えられた結果だけを「美」だと思い込んでいた。だが、この「壊滅の美」こそが、真の意味での豊かさではないのか?
崩れかけ、汚れ、矛盾に満ち、それでもなお、足掻く人間の情熱。それこそが、最も尊い美学なのではないか?
私は、二貫目を注文した。そして三貫目、四貫目。私は、猫の鳴き声をBGMに、煙草の煙を吸い込みながら、夢中で寿司を頬張った。涙がこぼれそうだった。なぜ泣いているのか自分でも分からなかったが、ただ、この不潔で、残酷で、愛おしい混沌の世界に自分が存在しているという事実に、震えるほどの感動を覚えたのである。
私の美学は、あの日、静岡の浜松という街の片隅で、完全に破壊されたのだ!
完璧な管理の下にある美も、確かに素晴らしい。だが、それだけが全てではないのだ。崩壊の縁で、泥にまみれながらも放たれる、一瞬の眩い閃光。壊滅の只中で、正気と狂気の境界線を綱渡りしながら生み出される、計算不能な奇跡。
それ以降、私は探偵としての仕事に戻っても、以前ほど潔癖ではなくなった。
誰かが隠そうとする醜い嘘も、人間の業から生まれる汚らしい裏切りも、それら全てをひっくるめて、この「不完全な世界」の一部として受け入れることができるようになった。完璧な正義などない。だが、完璧な悪もない。ただ、誰もが混沌とした現実の中で、自分なりの「切れ味」を求めて必死に生きている。
あの寿司屋の大将は、今もあの埃っぽい店で、おかしな猫たちと煙草と共に、包丁を振るっているのだろうか。
猫味の、タバコ味の、絶望のように美味い寿司。
その記憶は、今も私の魂の深層に、消えない傷跡のように、そして最も輝かしい勲章のように刻まれている。世界は、美しく整えられているから価値があるのではない。壊れ、乱れ、汚れ、それでもなお、そこには説明のつかない「感動」が、泥の中に咲く蓮の花のように存在しているからこそ、生きるに値するのだ!
私は、今日もまた、どこかにあるはずの「壊滅の美」を求めて、この不条理な街を歩き続けている……!




