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【8位】私の最終定理  作者: 王璃月
探偵・半自伝・オムニバス

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10/32

変態マニアによる死刑宣告!そして現れる賭博男!

事実を元にしたフィクションです。

凍てつく風。

札幌の夜。

……私、Wan Liyue(リウ)は暖房の効いた密室で、ただ一人、液晶モニターの放つ光を網膜に焼き付けながら、息を潜めている。

かつて、探偵として、人間社会の裏側にへばりつくような悪の臭いを嗅ぎ回り、人間の最も醜悪で、しかし、最も切実な業の数々と対峙してきた日々は、今や、遠い過去のものとなっていた。

私はその修羅場から身を引き、今はこの静寂に包まれた部屋でイラストレーターとして生計を立てている。

依頼主の要望を汲み取り、キャンバスの上に線を重ね、形を与え、光と影を定着させる。


私は「何でも描く」。


その姿勢が幸いしてか、ありがたいことに、一定の信頼を得て、生活を維持するだけの糧は得ている。


だが!


この「何でも描く」という私自身の人間讃歌の矜持こそが、私を、底知れぬ狂気のどん底へと引きずり込む呪いとして機能していることに、私は今日、決定的なまでの絶望をもって気づかされたのだ!


大前提として申し上げておきたい。


私という人間は、根源的に「人間ドラマ」という事象にしか興味を抱けない。

私が描くものが、背筋を凍らせるような恐怖の対象であろうと、女性同士の濃密な情念の交錯であろうと、あるいは愛する者を理不尽に奪われた者の慟哭であろうと、その根底に人間の感情の蠢き、生々しい業の肯定が存在する限り、私はそこに圧倒的な価値を見出す。……ホラーだろうと、百合だろうと、寝取られだろうと、ということだ。


だが!


世の中には、特定の記号の集合体に過ぎない架空のキャラクターに己の全存在を懸けて熱狂する者たちがいる。

鋼鉄のロボットが駆動する様に魂を震わせる者もいれば、特定の俳優の一挙手一投足に己の人生の意味を見出す者もいる。


嘘偽りなく言えば、彼らのその熱狂のメカニズムや対象そのものに対して、私は一切の理解をすることが「できない」。


だが、私は彼らを決して否定しない!


否定しないどころか、心からの尊重と敬意を払っている!


なぜなら!


この冷酷で、無機質で、容易く人を裏切る、地獄のような殺伐とした世紀末のような現実世界において、己の魂を無防備に預けられる「何か」を強烈に信仰できるという事実そのものが……一種の奇跡であり……人間の持つ尊い能力の一つであると、信じているからだ!


だからこそ!


私は、彼らの信仰の対象を、彼らが望む最高の形でキャンバスに顕現させるために、持てる技術の全てを注ぎ込んで「何でも描く」のである。


私はこれまで、己の足で歩き、己の目で見て、己の皮膚でこの世界の冷たさと熱さを感じ取ってきた。


探偵という職業柄、社会の底が抜けたような泥沼の抗争や、人間の剥き出しの欲望が交錯する陰惨な事件、そして、大自然の容赦のない猛威と直接向き合い、命の危険に晒されながらも真摯に生き抜いてきた。

モノクロームの静寂の中に潜むドラマや、オフィス街で擦り切れるように働く人々の息遣い、そうした現実の重みを知っているからこそ……私の描く「何か」には説得力が宿ると自負している。


だからこそ!


自分の部屋という安全圏から一歩も外に出ず、社会構造の複雑さも、組織の理不尽な重圧も、自然の圧倒的な質量も、他者の血の匂いも実体験として何一つ知らない、ただ、怠惰に架空の映像だけを貪り食っている無知な者たちから……


「お前は信仰を軽視している」


「キャラクターへの愛が足りない」


……などと、上から目線で断罪されることだけは、私の全存在を懸けて、絶対に、何があっても許すことができない!


安全な場所から石を投げるだけの者たちに、泥水をすすりながら、血みどろの現実を生き抜いてきた私の人生を、私の哲学を否定される謂れは微塵もない!


だが!


私が今日、怒りという熱量の高い感情すらも通り越し、ついに、ただただ、底なしの虚無と恐怖、そしてその果てにある圧倒的な、凍りつくような、容赦のない悲しみに支配されているのは、まさにそのような、実体験を何一つ持たない、現実社会から完全に遊離した無様な一人の男から、凄まじいまでの殺意と呪詛を、遠隔から叩きつけられているからである!


事の発端は、極めてありふれた、日常的なイラスト制作の依頼であった。

私は依頼主の要望を詳細に読み込み、指定されたアニメ・キャラクターを、持てる技術を尽くして描き上げた。構図、光の加減、布の質感、そしてキャラクターの表情。全てにおいて妥協はなく、プロフェッショナルとしての責任を全うした確かな作品を納品した。


しかし!


その直後、依頼主であるその男は突如として……「発狂」したのだ!


画面越しに送られてくる文字列は、瞬く間に常軌を逸した狂気(くるいぎ)の色に染まっていった。彼が激昂した理由。それは、私の技術の拙さでも、納期の遅れでも、キャラクターの解釈違いでさえもなかった。


ただ一点!


私が描いたその「架空」のアニメキャラクターの、「架空」の女性器の周辺に、ただ一点…………「架空」の陰毛が描き込まれていなかった、ただそれだけの理由であった!


「ふざけるな、おまえを、殺す」


「おまえのような、無能は、追い詰めて、ばらばらに、解体してやる」


「生きていく資格がないから、絶対に許さない」


たった一本の、あるいは数本の、ピクセルの集合体でしかない「線」の有無。ただそれだけのために、その男は、私に対して明確な殺意を向け、ついに、死刑宣告を下したのだ!


これは……論理的な破綻などという生易しい言葉で片付けられる事態ではない。私に向けられたその殺意は、あまりにも純粋で、あまりにも空虚で、そして……あまりにも巨大であった!


文面から滲み出る教養の絶望的な欠如。社会との接点を持たないが故の、他者との距離感を完全に喪失した稚拙な語彙の羅列!


その男は、学歴においても、画力においても、文才においても、ありとあらゆる全ての側面で私より決定的に劣っていることが、明白であった。

彼は、部屋から一歩も出ず、現実の女性と会話をしたこともなく、当然ながら本物の女性の手を握ったことすらなく、ただ、モニターの中で明滅する架空の肉体にのみ、己の歪んだ全能感と支配欲を投影している、現代社会の底辺に澱む病理を全て煮詰めて人の形に固めたような、哀れで、しかし、ひたすらに恐ろしい「怪物くん」であった!


そんな、現実世界における実体を全く持たない、空っぽの化け物から、なぜ、私はここまで執拗に命を狙われ、罵倒され、精神を削られなければならないのか。現実世界で誰かと本気で殴り合った経験も、他者の痛みを感じた経験もない男の放つ「殺意」が、これほどまでに不快で、気味の悪く、私の首を真綿で絞めるような重さを持ってのしかかってくるのはなぜか。


それは、彼らが「無」だからである!


私が探偵時代に対峙してきた、暴力団の構成員や、刃物を振り回す凶悪犯たちは、確かに恐ろしかった。


しかし!


彼らには「現実」という確固たる実体があった。彼らの暴力には理由があり、背景があり、利益や怨恨といった、人間としての生々しい動機が存在した。彼らとは対話の余地があり、交渉の余地があり、最悪の場合でも物理的な力学で対抗することが可能であった。痛みを伴う暴力の応酬には、確かな「生」の感触があった。

だが、この「架空」の陰毛に異常な執着を見せる顔のない怪物には、実体がない。彼の中にあるのは、無限に肥大化した自己愛と、現実社会へのルサンチマン、そしてモニターの中の幻影に対する狂信だけだ。


論理が……一切通じない!


実体験がないから、己の放つ言葉が他者にどれほどの刃となって突き刺さるのか、その重みも痛みも全く想像できていない。痛みを想像する回路が完全に欠落している者からの殺意ほど、底冷えのする論理的な恐怖は他に存在しない。質量を持たない幽霊に、見えない手でじわじわと気管を圧迫されているような感覚。


防御のしようがない!


反論したところで、相手はそもそも同じ言語を話す人間ではないのだ。私は今、無限の虚無に向かって石を投げ返しているような、圧倒的な徒労感と恐怖に苛まれている。私がこれまで潜り抜けてきた現実の修羅場のどれよりも、この次元の低い、あまりにもくだらない怪異による執拗な攻撃の方が、遥かに深く、確実にと私の精神を、生きる気力を削り取っていく。


だが!


実は、この世の終わりのような絶望感をもたらすこの出来事すら、私が今日直面している苦悩と恐怖の、ほんの、たかだか三割程度に過ぎないのだ。

私を真の狂気へと突き落とし、呼吸すら困難にさせている残りの七割の絶望。それは、東京という遠く離れた地に巣食う、私の父という名の絶対的な呪いである。


父は、私の人生というキャンバスを、生まれ落ちたその瞬間から泥と汚物で塗り潰してきた、「正真正銘の怪物」である。

暴力と暴言の権化であり、私を徹底的に殴り、蹴り飛ばし、私の肉体と精神を己のサンドバッグとして消費し尽くしてきた魂の強姦魔だ。私が現状から抜け出そうと必死にペンを握り、机に向かえば、父は烈火のごとく怒り狂って私を引きずり倒し、教科書を破り捨て、勉強をありとあらゆる手段で妨害した。私が知識を得て、自立し、己の支配下から逃れることを何よりも恐れたからだ。


そればかりではない!


父は、私が未来を切り拓くために祖父から託されていたはずの学費を平然と横領し、パチンコや競馬といった底辺の快楽のために全てを使い込んだ。その結果、数千万という天文学的な借金をこしらえ、家族全員を究極の生き地獄へと叩き落とした。

責任感も、倫理観も、親としての情愛も、そこには一ミリたりとも存在しない。ただ、己の刹那的な衝動と欲望のままに周囲を破壊し尽くす、「純度百パーセントの悪意」の塊。……それが私の父である。

その、私から全てを奪い去った怪物から、今日、わざわざ一通の手紙が、速達で、この札幌の部屋に送り付けられてきたのだ。


ポストの中で異様な瘴気を放っていたその不気味な封筒を見つけた瞬間、私は全身の毛穴から冷汗が噴き出すのを感じた。震える手で封を切り、中に折り畳まれた便箋を引き出す。そこに書き殴られていたのは、あまりにも……あまりにも現実離れした、私の脳髄を直接鈍器でゴリゴリと擦り付けながら殴りつけるかのような、極限の「理不尽さ」を孕んだ文字列であった。


『おまいわ、最近、金遣いが、荒いようだから、気をつけろ。無駄遣い、するな』


視界が激しく点滅し、世界が、歪んだ!


胃袋の奥底から、吐き気が込み上げてくる!


呼吸の仕方がわからなくなり、肺が酸素を拒絶した!


こいつわ……こいつは……想像で、物を、言っているのか……?それとも……本気で己がまともな常識を持った人間であるとでも……錯覚しているのか?……家族の未来をパチンコ台の電子音とタバコの煙の海に沈め、私の自由と可能性を莫大な借金という鋼鉄の鎖で縛り上げ、私の人生を根底から破壊し尽くした張本人が……。今もなお借金取りに追われるような、無様な生活を送っているであろうその男自身が……遠く離れたこの極寒の地で、探偵としての過去の傷を抱えながらも、イラストレーターとして必死に、泥水をすするような思いで……自力で生き延びている私に向かって……いったいどの口で「金銭感覚」の説教を垂れているというのだ……?


ふざけるな!


ふざけるな!


ふざけるな!


私は、ギャンブルなど、ただの一度もしたことがない。パチンコ台の前に座ったこともなければ、馬の走る姿に金を賭けたこともない。

一円たりとも、あのような虚無に金を落としたことなどない。

私が金を使うのは、己の血肉となり、この現実世界に確固たるアンカーを打ち込むための「食」と、私の細胞の一つ一つに深く刻み込まれる「身に染みる実体験」に対してのみだ。


例えば、深夜のすすきの。


ネオンの海を抜け、凍てつく風に頬を刺されながら、私は底知れぬ孤独と虚無感に襲われることがある。


そんな時!


私は生きるための切実な儀式として、ラーメン屋の暖簾をくぐる。暴力的なまでに濃厚な豚の脂、鼻腔を突き抜けるニンニクの刺激、そして、噛み応えのある太麺。それを胃袋に叩き込む行為は、単なる食事ではない。圧倒的な質量の暴力によって、己の存在がこの現実世界に確かに存在しているという感覚を、強制的に肉体に刻み付けるための防衛本能なのだ。


私が使っているのは、命を繋ぎ、現実を生き抜くための金だ!


架空のアニメキャラクターの存在しない毛に発情し、他者に殺意を向ける男の狂気や、パチンコ台の明滅に脳髄を焼かれ、己の罪を完全に忘却した父の妄執とは対極にある!


私が使う金は、圧倒的で、逃れようのない「現実」への切実な投資なのだ!


それなのに!


なぜ、私は、今日、このような、現実社会から完全に乖離した、夢と妄想の泥濘の中に生きているような怪物たちによって、ここまで凄惨に悩まされ、精神を破壊されなければならないのか。

これは、ナイフで刺されるような物理的な暴力ではない。遠隔から、姿も見せずに放たれる、極めて論理的で、しかし絶対的な「不条理」による殺人である。一人は、架空の肉体の細部に宿る狂信という名の狂気から。もう一人は、己の犯した大罪を完全に忘却し、安全圏から道徳を説くという自己正当化の妄想から。彼らはどちらも、現実世界には生きていない。彼らの足は地面についていない。彼らは責任という概念を持たず、他者の痛みという概念を持たない。それなのに、彼らが放つ猛毒は、インターネットという電子の海や、郵便という極めて現実的な物理的手段を介して、私の喉元に確実に届き、私の呼吸を止めるためのロープとなって巻き付いている。


私は今、冷え切った部屋の隅にうずくまり、心臓が肋骨を突き破るかのような激しい動悸に耐え続けている。


殺される!


私は今、確実に殺されかけている!


物理的な刃物や銃弾によってではない。あまりにもくだらない、あまりにも低俗で、あまりにも意味のない彼らの「無知」と「妄想」の重圧によって、私の精神は今、死の寸前、崩壊の瀬戸際まで追い詰められている!


論理で防ぐことができないのだ!


私がどれほど真摯に生き、どれほど現実の修羅場を越え、どれほど深い思考と論理を巡らせようとも、彼らはそもそも同じ盤面に立ってすらいない!


チェスのルールに則って真剣に盤面を見つめている私の顔面に、突如として泥にまみれた豚の臓物を投げつけ、「俺の勝ちだよ」とよだれを垂らしながら喚き散らしているようなものだ!


その絶対的な理不尽さを前に、私の理性と論理は完全に機能不全に陥り、限界を迎えつつある!


すすり泣きすら出ない!


涙すら枯れ果てた!


私の内側にあるのは、ただひたすらに冷え切った、絶対零度の悲しみと、行き場のない怒りの残骸だけだ!


私は、社会の沈黙も、自然の冷酷さも、人間の美しさと醜さも、その全てを己の(からだ)で歩き、知ってきたつもりだ。

だからこそ、私は依頼されれば何でも描くことができる。オフィス街で魂をすり減らしながら働く人々の背中や、モノクロームの静寂の中に潜む微かな希望の光を描き出すことができる。


だが!


私を遠隔から殺そうとしているあの怪物たちには、世界など、全く見えていない。

彼らの瞳に映っているのは、己の脳髄の中にのみ存在する、底知れなく都合の良い「嘘」と、肥大化した「自我」だけだ。


彼らは世界を見ようとしない!


理解しようとしない!


ただ、安全な場所から、個人的な楽しみで、他者を破壊しようとするだけだ!


彼らは今日も、私という存在を、一切わかりもしないまま、根底から否定し、その脆弱な精神を圧殺するために、狂気に満ちた電波と手紙を送りつけてくる。


彼らは、自分が殺人鬼であるという自覚すらないまま、笑顔で、あるいは無表情で、私の首を絞める。


私は、自らの首に巻き付く見えないロープの感触に絶望しながら、自らの喉を掻き毟る。


息ができない!


論理が通じない!


言葉が届かない!


私は札幌の冷たい夜の底で、ただ一人、迫り来る虚無の恐怖に震え続けることしか、できない!


私が積み上げてきた経験も、技術も、哲学も、この底なしの「くだらなさ」の前では、絶対に、何の盾にもならない。


ひとりの人間が、実体験を持たない狂人たちの放つ虚構の暴力によって、密室で、一人静かに狂死(くるいじに)していく。

これこそが、現代という病理に満ちた社会が産み落とした、最も論理的で、最も残酷で、そして、最も救いのない恐怖の極致なのだ。


私は、この圧倒的な「理不尽」の中で、朝が来るのをただ待つことしかできない。


朝が来たところで、この呪いは、決して解けることはないというのに……

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