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【8位】私の最終定理  作者: 王璃月
探偵・半自伝・オムニバス

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9/33

乗っ取られた自我!自分の前に自分がいる!

札幌、そして、四月。

なんとも名ばかりの春である。

路地裏の雪はようやく溶け切り、だが、アスファルトの隙間から這い上がる冷気が、私の太い脚を容赦なく撫で回していく。


すすきののネオンは相変わらずけばけばしく、もぞもぞと発情したような色を放っているが、その光の届かない雑居ビルの6階、カビと安酒と人間の体臭が煮詰まったような一角に、そのバーはあった。


私ことWan Liyue(リウ)は、自他共に認める変態野郎である。


体重計の数字はとっくに現実逃避の対象となり、クローゼットの中は体型を隠すための無難な暗色の服ばかり。

恋愛経験などというエロ・体験は……私の屈折した自意識を前にしては、ただ通り過ぎていく背景に過ぎなかった。


私の日常は、ネットの海を回遊し、自身の歪んだ妄想をイラストや文章という形で出力し、見知らぬ誰かからの薄っぺらい承認をすするだけの、そんな、怠惰で閉じたサイクルである。


しかし、そんな私にも、どうしようもなく外界からの刺激、つまり「楽しさ」という名の餌を渇望する発作が定期的に訪れる。安全な部屋の中からネットの狂気を眺めているだけでは飽き足らず、生身の人間が放つ、もっと生々しく、もっと愚かで、もっと奇妙なエネルギーを直接摂取したくなるのだ。


そういう時、私は決まってこのバーに足を運んだ。


ここは、社会の表通りをまともに歩けぬならず者たちの吹き溜まりであった。

夢を諦めきれない中年のバンドマンになろうとしたままの夢語男(ゆめがたりおとこ)、陰謀論に憑りつかれたアルミホイル・フリーター、夜の仕事に疲れ果ててやけっぱちを起こした虚無女(きょむおんな)たち。

誰もが何かしらの欠落を抱え、それをアルコールで薄めながら、互いの傷口を舐め合うでもなく、ただ、奇声や独り言に近い会話を空間にだらだらと垂れ流している。この奇怪な男女が集う泥沼のような空間で、私は壁際の席に陣取り、ぬるくなったビールを舐めながら、彼らの生態を観察するのが好きだった。


人間観察だ。


そう、これは、人間観察なんだ。


私より底辺がいる、私より狂っている人間がいる。その事実が、私の中に詰まった劣等感を、ほんの少しだけ和らげてくれるからだ。


その夜も、私はただ「楽しさ」を求めていた。

誰か、私を心から笑わせてくれるか、あるいは、ドン引きさせてくれるような、極上の見世物を提供してくれないか。口を開けて餌を待つ雛鳥のように、私は貪欲な目で店内を見回していた。

そして、そいつは現れた。


いや、違う。


すでに、そこにいたのだ。


そいつは、カウンターの端っこで、背中を丸めて安物のウイスキーグラスを弄っていた。年齢は三十代後半から四十代といったところか。季節感など完全に無視したヨレヨレの青色の腐りかかったジャンパーを被り、その隙間から覗く髪は、何日も洗っていないのか油でペタリと額に張り付いている。


だが、最も私の目を引いたのは、その「汗」だった。


バーという収容所は、どこも、空調の効きが悪い。

だが。

少しばかり蒸し暑いとはいえ、そいつの汗の量は……異常だった。額から、首筋から、ジャンパーに覆われた背中から、じっとりと粘り気のある水分が染み出しているのが、離れた席にいる私にもはっきりとわかった。まるで、その男の内側に「何らかの腐敗した沼」があり、それが常に皮膚の表面へと溢れ出す機会を待ち構えているかのようだった。


典型的な、と言ってしまえばそれまでだが、私と同類、あるいは……それ以上に現実世界との接続に失敗した「豚男(ぶたおとこ)」であった。


私は、同族嫌悪と、それ以上の「猛烈な好奇心」を抱きながら、そいつを観察し続けた。


すると……。


不意にそいつが立ち上がり、いったい何を血迷ったか、壁際の私の席に向かってまっすぐに……歩いてきたのだ。


「……隣、いいか」


ぶっきらぼうで、喉の奥に痰が絡んだような濁った声だった。

私は一瞬、心臓が跳ね上がった。こんな変態喪女の私に、ナンパ、だろうか。

いや、それにしては目が完全に据わっている。怯えと、そして「これはとんでもなく面白いことが起きるかもしれない」という下劣な期待感が、私の心の中でせめぎ合った。


「あ、はい。どーぞー……。」


私は、愛想笑いという名の防御壁を展開しながら、少しだけ席を詰めた。

豚男が「よっこいしょういち」などとうめきながら重い音を立てて隣に座ると、むっとするような汗と体臭、そして安酒の匂いが混ざった強烈な異臭が鼻を突いた。思わず息を止めた私を気にする素振りもなく、豚男は自分のグラスをテーブルにドンと置き、私の方を向いた。


「あんたさ、よく、ここに来るよな。グリーンビル。だから、絵とか、描くタイプだろ」


だから……?


唐突な決めつけだった。なぜ私が絵を描く人間だと見抜いたのかはわからない。私の服についたわずかなインクのシミか、あるいはペンだこか。それとも、単なる当てずっぽうか。


「ええ、いや、まあ、下手の横好きですけど……ほんなら、そう、あー、少しだけ……へへ」


私が曖昧に濁すと、豚男は「やっぱりな。」……というようにニヤリと唇を歪めた。その笑顔は、黄色く濁った歯を剥き出しにし、ひどく不気味だった。


「だから、俺もなんだよ。まだ下手くそだが、俺はイラストレーターだ」


だから……?


だからとは、何か。


いや、それよりも。


イラスト、レーター。


その響きに、私は思わず噴き出しそうになった。この、社会の底辺を煮詰めたような男が、クリエイティブな肩書きを、なんだか、自称する。バーに集う有象無象の自称クリエイターたちの中でも、特に、抜群に滑稽な光景だった。


「いや、あー、へえ、すごいですね。あ、どんな絵を描かれて、るんですか?、私、絵とか下手で……そう、アンパンマンとかしか、描けなくて……」


私は、大人の対応、あるいは珍獣を観察する飼育員のような生温かい声で尋ねた。楽しさの予感が、私の脳髄をチリチリと刺激し始めていた。


「これだよ。このイラスト、描いた」


豚男は、ズボンのポケットから、画面が指紋でベタベタに汚れたアンドロイドのスマートフォンの画面を私に突き出してきた。

私は、どれほど見当違いの、あるいは狂気に満ちた絵を見せられるのだろうと、内心でほくそ笑みながらその画面を覗き込んだ。


瞬間、私の心臓は、文字通りドクンと嫌な音を立てて凍りついた!


スマートフォンの液晶画面に映し出されていたのは、見覚えのある絵だった。

いや、見覚えがあるなどという生易しいものではない。構図、色使い、線の癖、キャラクターの瞳のハイライトの入れ方。そのすべてが、私の脳内に完全にインデックスされているものだった。


つまりだ。


「私自身が数ヶ月前に描き上げ、ひっそりとインターネットのアカウントに投稿したイラストそのもの」だったのだ。


「は……?」


私は、間の抜けた声を漏らした。

頭の中が真っ白になり、理解が追いつかない。

中高生が、ネット上で見つけた他人の神絵師のイラストを保存し、「これアタシが描きました!」とクラスメイトに自慢する。あるいは、捨てアカウントで転載して承認欲求を満たす。


いや、いやいやいやいや……そーゆー行為は、ネットの海では日常茶飯事であり、ま、まあ、良くある話だ。そーだよ……私自身、うん、そういった「転載」は……学生時代はやっていたよ……


……だが。


目の前にいるのは、承認欲求を持て余した中高生では、ない。

脂ぎった汗を流し、息を荒らげている、三十代後半の豚男なのだ。


何故だ?


いい年をした大人が、なぜ、こんな現実の対面という逃げ場のない状況で、他人の絵を「自分が描いた」と主張するのか。


しかも、よりにもよって、その絵の本当の作者である私の目の前で。


偶然、だろうか。


彼がネットで適当に拾った画像が、何万というイラストの中から、奇跡的な確率で私の絵だったのか。そうだとしたら、なんという天文学的な確率の悪戯だろう。


私は、「強烈な怯え」を感じた。


こいつは、たぶん。


いや、絶対に、狂っている。


社会的な常識はおろか、現実と虚構の区別すらついていない真性の異常者だ。一刻も早くこの場を離れなければならない。私の生存本能がそう警鐘を鳴らしていた。


だが。


それと同時に、私の中の「変態喪女」という名の怪物が、歓喜の声を上げて目覚めてしまったのだ!


なんてことだよ!


私の絵を自作発言している狂人が、いま、まさに、私の隣で、私に向かって自慢している!


この、圧倒的なシチュエーション。


現実世界の恐怖よりも、この事態のあまりの奇妙さ、滑稽さ、そして「楽しさ」が勝ってしまったのだ。


恐怖で逃げ出したいという思いと、この男の底知れない狂気をもっと覗き込んでみたいという、下劣で探求心に満ちた欲求。


私は、震えそうになる手を必死に抑えながら、努めて冷静な、いや、無邪気な声を取り繕った。


「わ。……すごいですね。すごく、魅力的な絵です!」


「だろん。まだまだ粗削りだが、魂がね、こもってるんだ」


男は、私が自分の絵を絶賛したと勘違いし、ますます得意げに鼻を鳴らした。その額の汗が、照明を反射してぬらぬらと光っている。


魂が、こもっている、だと?


ふッざけるな!


お前が眺めているその絵の線の一本一本は、私が深夜にコンビニのポテトチップスを貪りながら、ペンタブレットに引いたものだ。お前の魂など、一ミリたりとも混入していない。

私は、腹の底で渦巻くどす黒い笑いを噛み殺しながら、次の布石を打つことにした。


「でも、不思議ですね。んー。このイラストのタッチ……どこかで、見たことがあるような気がして」


私は、カマをかけた。


豚男の表情が一瞬だけ硬直したのを、私は見逃さなかった。だが、彼はすぐに開き直ったように凄んだ。


「あん?気のせいだろ。俺のオリジナルだ」


「ああ、そうですよね。すみません。……あ、そうだ。そういえば────」


私は、ゆっくりと、蜘蛛の巣を張るように言葉を紡いだ。


「小説。ありましたよね。」


私が振った話題。それは、私自身の実体験に基づく、トラウマを昇華した小説に関するものだった。

もし、この男が、本当にただ、画像を保存しただけの中高生レベルの騙りであれば、小説の存在など知らないはずだ。

もし、知っていたとすれば、こいつは……私のアカウントをストーキング……に、近いレベルで監視していることになる。それはそれで、とてつもない恐怖だ。


だが、豚野郎の口から飛び出した言葉は、私の予想を遥かに超える、異次元からの返答であった。


「……ヴェリタスの最終定理のことかい」


豚野郎は、ウイスキーを一気に飲み干し、氷をガリガリと噛み砕きながら言った。


「あれね、駄作だよ」


私は、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。


ヴェリタスの最終定理。


この男は、知っているのだ。


私の絵も、私の小説も。

その上で、私の目の前で、私の絵を「自分のオリジナルだ」と言い張り、あろうことか……私が書いた小説を「駄作だ」と切り捨てたのだ。


私は、ますます楽しくなってきた。


何故だ。


いったい何故、この男は、こんなことを、しているのだ。


他人の絵を騙るなら、もっと有名な、そう、例えば、フォロワーが何万人もいる神絵師の絵を騙ればいい。こんな、底辺の私が描いた、マイナーな絵を騙って、それで、はたして、一体何の得があるというのか。

しかも、バーのカウンターでたまたま隣り合った見ず知らずの女に向かって、それを自慢する。


彼が得られるメリットなど何一つない。

むしろだ。嘘がバレた時のリスクや、社会的なマイナスの方が圧倒的に多いはずだ。

それなのに、彼は必死に汗だくになりながら、私の目の前で、私の人生の一部を盗み取り、それを、自分のものとして誇示している……。


これは、ただの「騙り」ではない。


何かもっと、根源的で、病的な、自己同一性の、パーソナリティの、欠損。


他人の創作物を自分に取り込まなければ、自らの存在を維持できないほどの、絶望的な空虚さが、この豚野郎の分厚い脂肪の下には……広がっているのだ!


私は、笑いを堪えきれなくなっていた。


肩が震える。口角が勝手に吊り上がる。


極上の見世物だ!


これこそが、私が求めていた楽しさだ!


生身の狂気が、今、私という一個の肉体に向かって直接発射されている!


私は、もう我慢できなかった。

この滑稽な演劇の幕引きを、私自身の手で行いたかった。

彼が、すべての真実を知った時、どのような顔をするのか。この汗だくの醜い顔が、絶望と羞恥に歪む瞬間が見たくて見たくて、たまらなかった。


私は、ビールのグラスを置き、まっすぐに豚男の濁った目を見据えた。

そして、これ以上ないほど単刀直入に、残酷な事実を突きつけた。


「あのね。……それ、私が描いたんですけど」


声は、自分でも驚くほど冷たく、そして喜びに震えていた。


さあて、こいつは、どうするか。


逃げるか。


怒鳴るか。


それとも、泣き喚いて許しを乞うか。


私は、獲物を追い詰めた捕食者のような気分で、彼の次のリアクションを待ち構えた。


だが。


私の予想は、再び完全に、そして──決定的に裏切られた。

豚野郎は、動揺するでもなく、顔を赤らめるでもなく、ただ、ひどく面倒くさそうな、心底ウンザリしたようなため息をついたのだ。

そして、私を真っ向から見据え返し、こう言った。


「……何言ってんだ、あんた」


豚の目は、全く笑っていなかった。そこにあるのは、嘘を暴かれた者の焦りではなく、発狂人間(きちがい)に絡まれたという、純粋な、迷惑そうな感情だった。


「俺が描いた」


低い、地を這うような声だった。


「いやだから、それは私のアカウントで……」


「俺が描いた」


「いや……」


「俺が描いた」


私が言葉を継ごうとするのを遮り、豚はさらに強い調子で言い張った。


「構図も、色も。……俺が何日も徹夜して、血反吐を吐きながら生み出した俺の作品だ。これは、俺だ。あんたみたいな、こんなバーで一人で酒飲んでるような変質者に、俺の才能を横取りされてたまるかよ」


豚は、自分の胸をドンと叩いた。

その表情に、嘘をついているという罪悪感は微塵もなかった。

豚は、本当に、心の底から、その絵を「自分が描いた」と信じ込んでいるのだ。


私は、息を呑んだ。


楽しさは、もう、満足だった。


いや、違う。


「楽しさ」の許容量を、遥かに超えてしまっていた。

私が求めていたのは、安全圏から石を投げて、騙りの狂人が慌てふためく様を笑うというエンターテイメントだった。

だが、目の前にいるこの豚は、私の投げた石をまるごと飲み込み、自らの血肉に変えて、全く別の次元の怪物として早変わりして、そこに立っていた。


彼は、私の絵を盗んだのではない。


彼の精神世界の中では、彼こそが本物の作者であり、私こそが、彼の作品を騙ろうとしている狂人なのだ。


真実が、反転している……。


いや、真実など最初から存在しないのか。

彼の強烈な妄想が、私の現実を侵食し始めている。


「俺が、描いたんだよ……。俺が、俺のすべてを賭けて……」


豚が、ブツブツと呟きながら、もぞ、もぞ、もぞ、もぞと私のほうへ身を乗り出してきた。

その目には、私という人間は映っていない。ただ、自らの妄想を守るための、狂気じみた執念だけが燃えていた。

強烈な汗の匂いが、私の鼻腔を塞ぐ。

豚の手が、不意に私の腕を掴もうと伸びてきた。


「や、やめいって!」


私は、悲鳴にも似た声を上げ、乱暴に椅子から立ち上がった。

ガシャン、と音を立ててグラスが倒れ、薄ぬるい液体がテーブルに広がる。

バーの中の視線が、一斉に私に向けられた。だが、誰も助けようとはしない。ここは、そういう場所だ。


「おい、待てい!俺の俺の俺を、馬鹿にする気か!」


豚が、血走った目で私を睨みつけ、立ち上がろうとする。


「楽しさ」という餌をくれと日々世間にねだる私だが、これは違う。

嫌というほど楽しくなり、嫌と言っても「楽しさ」という名の純粋な恐怖が、過剰に供給され続けている。


私は怖くなった!


自分が自分であるという確証が、この豚の圧倒的な妄想の前に、もろくも崩れ去りそうになる恐怖。私の描いた絵が、私の紡いだ言葉が、この見知らぬ狂豚(くるいぶた)の肉の中に確かに根を下ろし、私を排除しようとしているという、おぞましさ。


私は、財布からでたらめに紙幣を引っ掴んでテーブルに投げつけると、後ろを振り返ることなくバーの入り口に向かって走り出した。


「俺が俺!俺が俺だよ!」


背後から、肉の叫び声が追ってくる。

重い扉を押し開け、地下への階段を転がるように駆け上がる。

地上に出ると、札幌の路地裏の冷たい夜風が、火照った私の顔を叩打した。


息が上がる!


心臓が早鐘のように鳴っている!


私は、すすきののネオンの中を、ただひたすらに逃げた!


通行人たちが、必死に走る私を、奇異の目で振り返る!


……だが、そんなことはもうどうでもよかった。

私はただ、あの肉の、あの汗の匂いと、あの狂気に満ちた目から、一秒でも早く遠ざかりたかった。

ネオンの光が、網膜に焼き付いて離れない。


「俺が描いた」


肉の呪いのような声が、耳の奥で何度も反響している。

家に帰り着き、鍵を何重にも閉め、冷たいベッドに倒れ込んだ後も、私の震えは止まらなかった。

私は、震える手でスマートフォンを取り出し、自分のアカウントを開いた。

そこには、確かに私が描いたイラストが、私が書いたキャプションと共に存在している。

だが、その画面を見つめれば見つめるほど、私はわからなくなってくるのだ。


本当に、これは……私が描いたのだろうか?


あの肉の言う通り、本当は、彼が血反吐を吐いて生み出したものを、私が……無意識のうちに盗み取っていたのではないか?


あるいは、私という存在自体が、あのバーの片隅でウイスキーを啜る、汗だくの肉が見ている、ただの妄想の産物に過ぎないのではないか?


それは、幽霊や殺人鬼などではなく、他者の強烈な狂気が、自身の存在の輪郭をいとも簡単に溶かしてしまうという、絶対的な自己の喪失への恐怖であった。

私は、自分の顔の肉を強くつねった。


痛みはある。


私はここにいる。


だが、暗闇の部屋の隅から、今にもあの濁った声が聞こえてきそうで、私は朝まで目を閉じることすらできなかった。


「……あれは、駄作だよ」


私はただ一人、乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。

楽しさの代償は、あまりにも大きく、そして、救いようのないほどにグロテスクであった。札幌の冷たい夜は、私の恐怖をあざ笑うかのように、ただ静かに更けていった。

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