第二十五章 ゼーユ看護師長という人
それから僕たちは、ゼーユ看護師長に案内されながら医療班本拠地の中を見て回ることになった。
建物の中は外観以上に広く、廊下は隅々まで磨き上げられている。
行き交う医療班の人たちは皆忙しそうに動いているものの、決して慌ただしいだけではない。
互いに声を掛け合い、助け合いながら仕事をこなしている姿が印象的だった。
そんな様子を見ながら、ゼーユ看護師長は一つひとつ丁寧に説明してくれる。
「ここは受付。何かわからないことがあったら、私かこの人たちに聞いてね」
受付では数人の職員さんが笑顔で会釈してくれた。初対面にもかかわらず温かく迎えてくれるその雰囲気に、自然と肩の力が抜けていく。
「ここは売店と休憩室。色んな種類の自販機が沢山あるよ」
そこには飲み物だけではなく、軽食やお菓子まで揃っていた。
任務の合間でもすぐ休憩できるよう工夫されているらしい。
「ここは手術室。といっても、設備がそこにあるだけでほとんど使わないんだけどね」
窓越しに見えた手術室は、とても清潔に保たれていた。
医療機器も整然と並べられている。
しかし、ほとんど使わないという言葉が、僕の頭に引っかかった。
——どういうことだろう。
病院なのに、手術室をほとんど使わないなんて。
その疑問はどんどん大きくなり、とうとう我慢できなくなった。
「あの……ゼーユ看護師長、ちょっといいですか?」
「なんだい?」
ゼーユ看護師長は足を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「兄から、医療班には正式な医療免許を持った人が一人もいない……そう言われたのですが、本当なんでしょうか……!?」
思い切って尋ねる。
隣ではミライ・ユくんとトロンプくんも身を乗り出していた。
どうやら二人も、ずっと同じ疑問を抱いていたらしい。
ゼーユ看護師長は少しも驚く様子を見せず、
「ああ、それは本当だよ」
まるで「今日は晴れだよ」とでも言うような自然さで答えた。
「「……え?」」
一瞬、時間が止まったような気がした。
まさかこんなにもあっさり肯定されるとは思っていなかった。
僕たちは顔を見合わせる。驚きで言葉が出てこない。すると、トロンプくんが恐る恐る口を開いた。
「では……どのように、治療を……?」
ゼーユ看護師長は穏やかに微笑む。
「魔法、だね。全部魔法で治してるよ」
その答えは、あまりにも簡潔だった。
しかし続く一言は、さらに僕たちを驚かせる。
「私は、この世流通している全ての魔法を扱えるんだ」
「「え!!」」
ミライ・ユくんとトロンプくんが同時に叫ぶ。
僕も思わず目を見開いた。
「全てって……この世には魔法が、魔法特殊能力を除いても数千もあるはず……!」
「ありえない……!」
二人の反応は当然だった。
魔法を一つ習得するだけでも何年も修行が必要だと聞く。
それを全部扱えるなんて、常識では考えられない。
けれど、ゼーユ看護師長は困ったように笑うだけだった。
「はは、地球にある魔法だけじゃないさ」
「「「?」」」
僕たちは揃って首を傾げる。するとゼーユ看護師長は静かに続けた。
「私は、私の種族はね」
一呼吸置いて、
「上位種。人間の上位種なんだ」
「「えっっ!?!?」」
今度こそ全員の声が重なった。
空気が一気に張り詰める。
「噂には聞いていましたが……!!まさか本当だったとは!」
ミライ・ユくんが驚きを隠せず声を上げる。一方の僕は、その言葉自体を初めて聞いた。
「上位種って何ですか?」
そう尋ねると、ゼーユ看護師長は優しく説明してくれた。
「人間がさらに進化したものさ。普段はこの地球じゃなくて、パラレルワールドに住んでるんだ」
まるで昔話でも語るような穏やかな口調。
けれど、その内容はあまりにも現実離れしていた。
「その上位種の間にしか流通していない魔法も、私は全てを扱える」
その一言が落ちた瞬間。辺りの空気が変わった。誰も何も言えない。静寂だけがその場を支配していた。ゼーユ看護師長は、きっと本当のことを言っている。それだけは何となく分かった。どれほど凄いことなのか、僕にはまだ想像もつかない。
だけど——。
人間では到底辿り着けない領域にいる人なのだということだけは、嫌というほど伝わってきた。
「施術、薬の調合——治療に関することは全て私が担当している」
「だから、他の子たちはその他の業務を担当する感じだね。よって、知識がなくても大丈夫」
僕たちは真剣に耳を傾ける。
「十分なやる気と、覚悟があれば——」
ゼーユ看護師長は柔らかく微笑み、
「誰でも歓迎するよ」
そう言った。
「……」
思わず唾を飲み込む。
まさか、そんな仕組みだったなんて。
だから医療免許を持っていなくても活動できるのか。
すべてが少しずつ繋がっていく。しかし、まだ一つ疑問が残っていた。
「一人で全部の治療を担当して、大丈夫なんですか?」
僕が尋ねると、ゼーユ看護師長はあっさり頷く。
「ああ、私は超上級魔法の『寝なくても大丈夫になる魔法』を習得しているからね。夜通しいつでも働ける。それに、人間とは、体力が根本的に違うからね」
そう言って、白衣の袖をゆっくりとまくり上げる。
現れた腕は、ごく普通だった。細すぎず太すぎず。どこにでもいそうな青年の腕にしか見えない。
しかし。
「ふんっ」
ゼーユ看護師長が軽く力を込めた、その瞬間だった。
ビキビキビキッッ!!
筋肉が一気に隆起し、皮膚の下を血管が浮かび上がる。
まるで別人の腕へ変貌したかのようだった。
「「「!!!」」」
誰一人、声が出ない。
ただ目の前の光景を見つめることしかできなかった。
これが、上位種。
魔法だけじゃない。
身体能力すら、人間とはまるで次元が違う。
何もかも、人間を超越した存在。
そんな存在が——。
「どうして人間に協力を……」
気付けば、心の声がそのまま口から漏れていた。
ゼーユ看護師長は、その小さな呟きもしっかり聞いていたらしい。一瞬だけ僕を見つめると、
「……秘密っ」
そう言って、ニヒルに微笑んだ。
その笑みはどこか意味深で、これ以上は教えないと言っているようでもあった。
ゼーユ看護師長。
優しく、穏やかで、それでいて底知れない人物。
謎はますます深まるばかりだった。
これから僕たちは、この人の下で働くことになる。どんな日々が待っているのか。期待と少しの不安を胸に、僕はゼーユ看護師長の背中を静かに見つめていた。
◇
まず最初に任された仕事は、医療班本部の施設や設備を覚えることだった。
患者さんを案内するとき、必要な道具を取りに行くとき、緊急事態が起きたとき。
どんな状況でも迷わず動けるようになるためには、まず建物の構造を頭に入れることが何よりも大切なのだという。
「じゃあ、まずはここからだね」
ゼーユ看護師長は別の仕事があるらしく、代わりに先輩隊員が施設を案内してくれることになった。
「ここが手洗い場。医療班に入った以上、一番最初に覚えてもらう場所かな」
そう言って案内された場所には、大きな流し台がいくつも並び、消毒液やペーパータオル、ブラシなどが綺麗に整理整頓されていた。
「何よりも手は清潔でいるように。患者さんを守るためにも、自分たちを守るためにも、一番大事なことだからね」
「はい!」
僕たちは元気よく返事をした。
「じゃあ実際にやってみようか」
先輩は蛇口をひねり、水で手を濡らす。
「まずは石鹸をしっかり泡立てて……手のひらだけじゃなくて、手の甲、指の間、親指、それから爪の間も忘れずに」
指先を一本一本擦るように洗い、手首まで丁寧に泡を広げていく。
「ここまでやるんですね……!」
思わず感心してしまう。
「もちろん。雑菌って意外と色んな場所に残るからね。ほんの少し油断しただけでも感染の原因になることがあるんだ」
「なるほど……」
僕も見よう見まねで手を洗ってみる。
手のひら。手の甲。指の間。親指。爪。手首。
たった手を洗うだけなのに、覚えることがこんなにあるなんて思わなかった。
最後に流水でしっかり泡を流し、清潔なペーパーで水気を拭き取る。
「うん、いい感じ。最初にしては上出来だよ」
「ありがとうございます!」
手洗い一つにも、ここまで細かな決まりがある。
やっぱり医療現場はすごい。
命を守る仕事だからこそ、こういう小さな積み重ねが何より大切なんだ。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと疑問が頭に浮かんだ。
「そういえば……」
「ん?」
「ゼーユ看護師長って、大幹部なんですよね?」
先輩は歩きながらこちらを見る。
「大幹部って、もっと怖い人たちの集まりだと思っていたんですけど……皆さん、とても優しいんですね……!」
ゼーユ看護師長だけじゃない。モノクロームさんもグラデーションさんも。そしてボスの兄さんも。
みんな偉い立場の人なのに、威張ることなんて一度もなくて、僕たち新人にも優しく接してくれる。
「ははっ!」
先輩は思わず吹き出した。
「最初はみんなそう思うんだよなぁ!」
「やっぱりですか?」
「もちろん!」
もう一人の先輩も笑いながら頷く。
「俺も最初はゼーユ看護師長を全然信じられなかったよ」
「え?」
「だってそうだろ?大幹部ってだけでも雲の上の存在なのに、おまけに種族は人間の上位種だぞ?」
そう言われると、確かにそうだ。
僕たち人間より遥かに強く、遥かに賢い存在。
普通なら、人間なんて相手にもされないはずだ。
「事前にその話を聞いた時なんて、もう怖くて怖くてさ」
先輩は苦笑いを浮かべる。
「怒鳴られるんじゃないかとか、失敗したら殺されるんじゃないかとか、本気で考えてた」
「そんなにですか!?」
「いや、本当に」
周りの先輩たちも「ああ、分かる分かる」と笑っている。
「でも実際に会ってみたら全然違った」
その声は、とても穏やかだった。
「俺たちの話をちゃんと聞いてくれるし、分からないことは丁寧に教えてくれるし、失敗しても頭ごなしに怒鳴るんじゃなくて、『次はこうしてみよう』って教えてくれる」
「本当にいい人なんだ」
その言葉には、心からの尊敬が込められていた。
「そうなんですね……」
僕も自然と頬が緩む。
ゼーユ看護師長が優しい人だということは、今日だけでも十分伝わってきた。
でも、それは僕たち新人だけに向けたものではなかった。
ずっと昔から、誰に対してもそうだったのだ。
その時だった。
「一つ、質問してもいいですか?」
隣を歩いていたミライ・ユくんが静かに口を開く。
「もちろん」
「ゼーユ看護師長は……どうして人間に協力しているんでしょうか?」
先輩たちが少しだけ目を丸くした。ミライ・ユくんは続ける。
「普通、上位種というのは、自分たちよりも弱く、知能も劣る人間を疎んでいると聞きました」
「でもゼーユ看護師長は違います」
「疎むどころか、人間一人ひとりをとても大切に扱ってくれる。何か……理由を知っていますか?」
「あー……」
先輩は困ったように頭を掻いた。
「それはね……」
一度口を開く。
しかし、そのまま言葉を飲み込んでしまった。
「……やっぱり、その話は俺がすることじゃないな」
「え?」
「いつかゼーユ看護師長本人から、直接聞いた方がいいと思う」
「えぇー!」
思わず僕は声を上げてしまう。
「さっき聞いたら『秘密』って言われましたよー!」
「あはは!」
先輩たちは楽しそうに笑った。
「まだ出会ったばかりだからさ」
「もっと一緒に働いて、もっと仲良くなったら……きっと教えてくれるよ」
「本当ですか!」
「保証はする」
その言葉だけで、僕たちの気持ちは一気に明るくなった。
「よーし!」
僕は拳を握り締める。
「ゼーユ看護師長と仲良くなるぞー!」
「「おー!」」
ミライ・ユくんもトロンプくんも元気よく拳を掲げる。
その無邪気な様子に、先輩たちは思わず笑みを浮かべていた。
そして――。
誰にも聞こえないくらい小さな声で、一人の先輩がぽつりと呟く。
「……君たちは、どのくらい持つかな」
その声は、笑い声に紛れて。
誰の耳にも届くことなく、静かに消えていった。




