第二十四章 新たな現場へ
それから僕たちは、それぞれ出かける支度を始めた。
必要な荷物を確認し、身だしなみを整え、忘れ物がないかをもう一度確かめる。大した準備ではないはずなのに、今日はいつもより一つひとつの動作に時間がかかる気がした。
これから向かうのは、医療班の本拠地。
街の中心部から少し離れた場所に建てられていて、普段はあまり訪れることのない施設だ。僕にとっては未知の場所であり、そこで待っている人たちも、これからどんな仕事をするのかもまだ想像がつかない。
そんなことを考えていると、不思議と胸が少しだけ高鳴った。
「よし……カゲエくん、トロンプ。準備できたか?」
玄関先で、ミライ・ユくんがいつもの落ち着いた声で聞いてくる。
「うん!できたよ〜」
僕が元気よく返事をすると、
「早速行こ!」
トロンプも弾むような声で答えた。
僕たちはそのまま外へ出て、ミライ・ユくんの車へと向かう。
この車には何度も乗ってきた。
六人で移動しても窮屈さを感じないほど広く、任務のたびに僕たちを目的地まで運んでくれる、大切な相棒のような存在だ。
だけど今日は、その姿が以前とはまるで違っていた。
先日の襲撃で無残な姿になってしまった車は、上層部の人たちの手によって見事に修理されていたのだ。
いや、修理というより、生まれ変わったと言った方が正しいかもしれない。
黒く輝く車体には傷一つ見当たらず、日の光を受けて鏡のように反射している。新品特有の艶やかな光沢が目を引き、思わず見惚れてしまうほどだった。
ドアを開ければ、新しい内装の香りがふわりと漂う。
座席は以前にも増して柔らかく、身体を包み込むような座り心地だ。長時間の移動でも疲れを感じさせないだろうと思えるほど、快適な空間へと仕上がっていた。
そして――。
「うお……こりゃすげえ!?」
思わず感嘆の声が漏れる。
車内には、ミライ・ユくん専用とも言える特別なカスタマイズが施されていた。
操作系統はより扱いやすく改良され、各所には彼が使いやすいよう細かな工夫が散りばめられている。見た目の高級感だけではなく、実用性まで徹底的に追求された仕上がりだった。
もはやこれは普通の車ではない。
ミライ・ユくんだけのために作り上げられた、漆黒の翼。
どんな現場へも迷うことなく駆け抜ける、彼だけの相棒だった。
「はは……! こりゃ捗るぜ」
運転席へ座ったミライ・ユくんが、ハンドルを軽く握りながら嬉しそうに笑う。
その横顔は、普段の冷静な表情とは少し違って見えた。
大切な愛車が元通りになったことが、本当に嬉しいのだろう。
そんな姿を見ていると、僕まで自然と笑みがこぼれてしまう。
エンジンが静かに始動し、低く心地よい音が車内に響く。
ゆっくりと車は動き出し、僕たちは医療班本拠地へ向けて走り始めた。
窓の外では見慣れた街並みがゆっくりと流れていく。
けれど、今日の景色はどこか少しだけ違って見えた。
緊張。不安。
そして、新しい現場へ向かう期待。
それぞれが抱える様々な感情は言葉にはならないまま、静かな車内をゆっくりと漂っていた。
その想いを乗せた漆黒の車は、穏やかなエンジン音を響かせながら、医療班の本拠地へとまっすぐ走り続けるのだった。
◇
——真っ白な四角い建物。
無駄な装飾はほとんどなく、清潔感を何よりも重視したような外観をしている。壁のあちこちには赤い十字のマークが施されており、一目見ただけで医療施設だと分かる造りだった。
街の喧騒から少し離れたその場所に、その建物は静かに佇んでいる。
どこか神聖で、近寄るだけで自然と背筋が伸びるような、不思議な雰囲気をまとっていた。
ここが——Venom Desire医療班本拠地……!
「……着いたな」
運転席からミライ・ユくんが静かに呟く。
「……うん!」
僕も思わず頷いた。
「……へへっ」
トロンプくんは少し緊張しているのか、それとも楽しみなのか、笑いを浮かべながら建物を見つめている。
ミライ・ユくんは慣れた手つきで車を駐車スペースへ滑り込ませる。エンジンが止まり、辺りは静寂に包まれた。
僕たちはゆっくりと車を降り、目の前にそびえる建物を改めて見上げる。
想像していた以上に大きい。
ここでは毎日、多くの命が救われ、多くの人が働いているのだろう。
そう考えるだけで、自然と胸が高鳴った。
「皆……心の準備は、いい?」
「ああッ!」
「もちろんッ!」
ミライ・ユくんとトロンプくんは、ほとんど同時に返事をした。
互いの顔を見れば、その表情には緊張だけではなく、新しい場所へ踏み出す覚悟と期待が浮かんでいる。
未知への不安はある。
それでも、一歩前へ進みたい。
そんな想いは三人とも同じだった。
「よし……行こうッ!」
ミライ・ユくんの一声で、僕たちは入口へ向かって歩き始める。
そして——。
入口の自動ドアが静かに開いた、その瞬間だった。
「緊急緊急ーーッッ!!道開けてーッ!!!」
「「「!?」」」
館内に鋭い叫び声が響き渡る。
直後、慌ただしい足音が廊下中へ鳴り響いた。
ドタドタドタッ——。
白衣を着た医療班の人たちが、ものすごい勢いでタンカーを押しながらこちらへ駆け抜けてくる。
「す、すみません!」
僕たちは慌てて壁際へ身を寄せた。
タンカーの上に横たわる患者さんの姿が、一瞬だけ視界へ映る。
「——ッ!」
息を呑んだ。
患者さんの片足が、無かった。
ズボンは大きく裂け、その切れ端には真っ赤な血が滲んでいる。
傷口は布で応急処置されているものの、とても追いついているとは言えない。
今にも命が消えてしまいそうなほど痛々しい光景だった。
胸が締め付けられる。
思わず目を逸らしてしまう。
こんな重傷者を、僕は初めて目の当たりにした。
隣を見ると、ミライ・ユくんもトロンプくんも目を見開き、言葉を失っていた。
さっきまで抱いていた期待や高揚感は、一瞬で吹き飛んでしまう。
ここは、本当に命と隣り合わせの現場なのだ。
そんな現実を、これ以上ないほど強く突きつけられた。
その時だった。
「ゼーユ看護師長ッッ!緊急患者ですッ!!」
医療班の一人が館内へ向かって大声で叫ぶ。
その声が響いた次の瞬間——。
バッ。
空中に巨大な魔法陣が展開された。
幾何学模様が幾重にも重なり合い、淡い光を放ちながらゆっくりと回転する。
そして、その中心から、一人の人物が静かに姿を現した。
茶色の髪。そこから伸びる、ピンクと水色のメルヘンな色合いをした柔らかそうな触角は、歩く度にぷるぷると弾むように揺れている。
そして何より目を引いたのは、その瞳だった。
光がない。
漆黒。
まるで、世界中の光を吸い込み、底知れない闇だけを映し出しているかのような、不思議な黒い瞳。
服装は白いシャツに黒いネクタイ。
その上から羽織る白衣には、大きな赤い十字マークが刻まれている。
優しさと威厳を同時に感じさせるその姿は、一目見ただけで只者ではないと分かった。
——ゼーユカタルシスさんだ!
「これはこれは……辛かったね。痛かったね」
ゼーユカタルシスさんは穏やかに微笑みながら患者さんへ歩み寄る。
慌てる様子は一切ない。
まるで全てを安心させるような落ち着いた足取りだった。
そっと患者さんの頭を撫でる。
その優しい手つきだけで、患者さんの震えが少しだけ和らいだように見えた。
「今すぐに治してあげようね」
その一言には、不思議な安心感があった。
まるで「必ず助ける」と約束してくれているような、絶対的な自信が感じられる。
ゼーユカタルシスさんは、ゆっくりと患者さんの失われた足へ手を伸ばした。
すると——。
切断面から柔らかな光が溢れ始める。
淡く、それでいて力強い光。
傷口を包み込むように輝きながら、周囲の空気まで温かく染めていく。
「ッッ!?!?」
患者さんは全身を大きく震わせ、声にならない悲鳴を漏らした。
しかし、その苦しみは一瞬だけだった。光はさらに強く輝き、失われていた部分をゆっくりと形作っていく。
骨が生まれ、筋肉が繋がり、皮膚が覆われる。
まるで時間そのものが巻き戻されていくような、常識では考えられない光景だった。
そして——。
「うぉッッ!! 戻ったッ!?!?」
患者さんは驚きの声を上げる。
そこには確かに、さっきまで失われていたはずの足が、何事もなかったかのように元通りになっていた。
「す、すごい……!? 足が、一瞬で……!」
目の前で起きた奇跡に、思わず息を呑む。
失われたはずの足が、まるで最初から何事もなかったかのように元へ戻っている。
そんな光景を、僕はただ呆然と見つめることしかできなかった。
頭では理解しようとしているのに、心が追いつかない。
これが——医療班。
これが、大幹部の実力……!
驚きのあまり、まともに言葉が出てこない。
隣を見ると、ミライ・ユくんもトロンプくんも同じだった。
二人とも目を丸くし、言葉を失ったままゼーユ看護師長を見つめている。
しばらくその場には静寂が流れた。
そして。
「ありがとうございますッ……ありがとうございますッ……!!」
患者さんは涙を溢れさせながら、何度も何度も頭を下げる。
先ほどまで苦痛に歪んでいた表情は、今では安堵と喜びでいっぱいだった。
再び自分の足で立てる。その当たり前だったはずの幸せを取り戻せたことが、何よりも嬉しいのだろう。しかし、ゼーユ看護師長は穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「礼なら、ここまで運んでくれた人たちにも言ってあげてね」
決して自分だけの手柄にはしない。
その一言には、医療は一人で成り立つものではないという想いが込められているようだった。
「……はいっ!」
患者さんは涙を拭いながら周囲を見渡し、タンカーを運んできた医療班の人たち一人ひとりにも、深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございました!」
その言葉を受けた医療班の人たちは、誰一人として誇るような素振りを見せない。
「気にしなくていいよ」
「無事でよかった」
そんな優しい言葉を返しながら、皆にこやかに微笑んでいた。
ついさっきまで張り詰めていた緊張感は、いつの間にか消えている。
慌ただしく命を繋ぐ現場だったはずなのに、今この場所には確かな温もりがあった。
ここには、確かに平和がある。
人を救うという想いが、この空間全体を優しく包み込んでいた。
その時だった。
「おや……君たち」
ゼーユ看護師長が、僕たちの存在に気付いた。
ゆっくりとこちらへ視線を向け、穏やかな笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。
「カゲエくん、ミライ・ユくん、トロンプルイユくん、だね?」
一歩、また一歩と近付いてくるその姿は、不思議な安心感に満ちていた。
優しい。それなのに、決して軽くは見えない。
穏やかな空気をまとっているにもかかわらず、その立ち姿には自然と人を惹きつける威厳が宿っている。
誰かに偉そうな態度を取るわけではない。
それでも、この人が医療班を率いる存在なのだと、一目で分かる。
まさに——「大幹部」と名乗るに相応しい人物だった。
「カクシエくんから話は聞いてるよ。人手不足の医療班を手伝いに来てくれたんだよね」
ゼーユ看護師長は、終始穏やかな口調で話す。
焦ることもなく、急ぐこともない。
つい先ほどまで緊急患者の対応をしていたとは思えないほど落ち着いていた。
だからこそ感じる。
この人は、どんな状況でも冷静でいられる人なのだと。
その余裕こそが、数多くの命を救ってきた者の風格なのかもしれない。
「私は、ゼーユカタルシス——周りの子からは、ゼーユ看護師長って呼ばれてるよ。君たちも是非そう呼んでくれるかな」
優しく微笑みながら差し出された言葉に、自然と背筋が伸びる。
僕たちは顔を見合わせると、慌てて姿勢を正した。
「はっ、はい!これからお世話になります!ゼーユ看護師長っ!」
「俺も、是非よろしくお願いいたします!ゼーユ看護師長!」
「僕もっ!よろしくお願いいたします!ゼーユ看護師長っ!」
三人揃って元気よく挨拶をする。
その声は少し緊張していたけれど、それ以上に「よろしくお願いします」という気持ちが込められていた。
ゼーユ看護師長は、そんな僕たちを見て優しく目を細める。まるで新しく入ってきた後輩を迎えるような、温かな笑顔だった。
そして、小さく微笑みながら。
「また、元気で可愛い子が増えたね……」
そう、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いたのだった。
◇
「さて……折角来てくれたことだし、本棟を案内するかな」
ゼーユ看護師長はそう言うと、ふわりと白衣を翻した。
長い裾が軽やかに揺れ、その仕草一つとってもどこか上品さを感じさせる。
そして僕たちへ振り返ると、柔らかく笑った。
「さ、君たち。着いてきて」
まるで当然のことのように、自ら案内役を買って出てくれる。
その姿に、僕たちは思わず顔を見合わせた。
「あっ!まさか、そんな!ゼーユカタルシス様……じゃなくて、ゼーユ看護師長直々にご案内して頂けるなんて!」
ミライ・ユくんが慌てて言葉を返す。
医療班の最高責任者。
そんな立場の人が、自ら新人の案内をしてくれるなんて思ってもいなかったのだ。
しかし、ゼーユ看護師長はくすりと笑う。
「はは、何もそう、固くならないで。私は確かに医療班のリーダーだけど、あくまで君たちと同じ立場でいたいんだ……」
その言葉には偽りが感じられなかった。
肩書きではなく、一人の仲間として接しようとしてくれている。
だからこそ、医療班のみんなも自然とこの人を慕っているのだろう。
そんなことを思っていると、ゼーユ看護師長は少しだけ表情を引き締めた。
「でも、『親しき仲にも礼儀あり』。常に相手に尊敬と敬意を持って接そうね。これがうちのルールだよ」
その声は優しい。
けれど、その言葉には医療班の長としての確かな重みがあった。
仲が良いからこそ礼儀を忘れない。
それが、この場所で大切にされている教えなのだろう。
「はい!」
僕たちは揃って返事をする。
ゼーユ看護師長は満足そうに頷くと、再び歩き始めた。
白衣を揺らしながら先頭を歩くその背中を追いかけ、僕たちも医療班本棟の中へと足を踏み入れていく。
こうして僕たちの、医療班での新しい一日が始まろうとしていた。




