23、私にとっては知恵の神ですよ。
「ん……。ああ」
そんなことを宣いつつ、部屋に光を入れることにした。どうしようもなく光は眩しかったのですぐにでも目を閉じてしまったのだけれど、起きてしまったからには感覚神経が働く。何故か身の毛がよだつ感覚が全身を前進したところで二度目の瞬きをすれば流石にすっきりとした頭になった。だからこそ朝であると分かった。鳥の囀りが聞こえる朝のベットに私は寝転んでいた。
珍しく今日は何事もなくすっきりと起き上がった。
前まではぐずぐずと言い訳をこじつけて、出ない理由を探してた私が、あの所詮元神だって朝のベットと言うのは全くもって魅惑的であると感じていた私が驚くほどしっかりと起き上がった。
ふにゃふにゃとしたベットの弾力を確認する。
特にこれと言った感想は感じ取れなかった。
元神時代のような気持ちだ。人間界を傍から見ているだけだったので、何をしているのか一つも理解のしようも出来なかったあの感情だった。
日差しの気持ちよさ。布団の気持ちよさ。この目を瞑れば再び寝入りに入れる状態。
これが冬であったなら抜け出すには困難であっただろう。今日は休日なので、抜け出せない気持ちも、二度寝したい気持ちも、何なら論文に書ける程度には理解していると思った数日前が何だか思い出せなくなっていた。
やはり天に居る時にある気持ちそのものだった。
あ。天……。
別に天川天と約束している訳ではない。天は天でも天界の人、特に言う後輩と会う予定だったと思う。
私は徐に一回確認と言う感じで、カレンダーを覗き見た。
うん。変わらず『後輩と会う日』と書いてある。何ともムカつくフォントで書かれている。起床後初めに見ていい文字ではない。
私は正直彼女に会いたくない。この不安感の正体でもあるはずなのだから、会えば落ち目しかない。どこかに逃避したい気分であった。
いいや、ちょっと待てよ。私はどうすればいいのだ?どこかに集合すると言うのも書いていないし、ここに後輩が来るとも聞いていない。逃避することもままならないではないか。
はあ。全く。神になったのだからしっかりとしてほしいものだ。
やれやれと呆れていると…。
「我が知恵の神。何をしかめっ面しているのですか?」
「ウワッ」
まるで道化の声である。
私はたちまち引っ繰り返った。それは驚きのあまり心が引っ繰り返ったのと、物理的に翻って後輩を確認するために。
電光石火の速さで、翻って見たのだけれど、我が子のような我が後輩が立ち尽くしていた。まあ、立っていると言ってもちょっと翅で浮かせて立っているのだ。後輩は若干地上が嫌いだったか。だとしたらそこまでして会いに来てくれるのは感謝である。
随分、会わないうちにより一段と彼女が美しく感じられた。私が醜くなったのか、彼女が美しくなったのか。両方と言いたいところだったのだけれど、その現在の知恵の神様はぼりぼりと頭を掻きながらぼおっとしゃがんだ私を見下ろす様にしている。意外と生意気になったものである。
「我が後輩くんかい?」
「そりゃそうですよ。我が知恵の神」
まあ。そうりゃそうだ。もう神でもなんでもない私を神と呼ぶのは君しかいない。
「どうしてこんな所に?後輩が用意してくれたこの部屋はこんなに防犯に劣るのか?」
「いやいや。この周辺で言えば最もいいセキュリティを持っていますよ」
「じゃあ。どこから這入って来たんだ?」
「それはまあ……神にそういうことを訊くのは無粋ですよ。ですが特別に我が知恵の神だけご教授します。神パワーですよ……。冗談です。」
お堅い後輩くんがついに冗談まで言うようになったか。この際私に対するその失礼ではないが失礼なその言葉も許せるものだ。
自ずと嬉しくなってしまう。
「あちらの窓からです」
差し示された方向を見ると窓は開いていた。肌寒い感じがしていたのはそれが原因か。それでも気付かなかった私は愚か者。
対して賢明な後輩はその窓に近付き、窓枠に座った。
「汚いかもよ?」
「別にいいです。汚くなったなら、我が知恵の神が何とかしてくれますよ」
なんだ。その全幅の信頼感は。そんなことできないし、大体私が明白に「もう知恵の神ではない」などと口に出しても彼女は「私にとっては知恵の神ですよ」なんて返して来た。
「私にとってとか言われてしまうと何も言えないじゃないか」
「まあ。そのためですし」
姑息な奴だな。策謀するほど重要事項ではないだろう。
「で、我が後輩よ。どうしてカレンダーにこんなものを書いたのだ?私に何か用でもあるのか?」
「我が知恵の神よ。何か用がないとそういうことしてはいけないのでしょうか?」
「そんなこと訊かれれば、別にそんなことないと答えるけれど、いや、何でもこれは気になるものだ」
「それもそうですね……。我が知恵の神よ。しかし、特段意味も意味深長もないんです。ただただ経過観察やら監視義務……という名に託けて我が知恵の神と会話を交わしたかっただけではあるんですよ」
「そう」
「ですので、特別なことはしませんよ。こうやってお話しているだけで幸せです」
「そうか。それはいいことだ」
「そして、我が知恵の神の話を聞けるのであれば、非常に僥倖ですね」
「私の話ですか……。つまらないですよ?」
「それでもです」
ワクワクと目を輝かせた表情を彼女は見せていた。大した話にこう注目されたなら、気まずくて話ずらいじゃないか。この地の文も後輩に筒抜けなんだろう。だったら空気ぐらい読まんかい。
こう思って後輩を見たけれど、目を泳がせていた。はあ。仕方がないとして、私はこれまでのことを話した。
特段何もないただの日常を駄弁っていた。
「このような日日是好日な生活を送れたと思う。学校にも行って、人間の友達らしきものも出来て、まあそれなりの充実した毎日だ。そちらはどうだったか?」
「いやあ。我が知恵の神よ。引継ぎをして欲しかったとグチグチながらに思われます。天の元で働くのは結構厳しいと再認識させられました」
「ははっ。まあ。大変そうだな」
まあ。ある意味では私も今も天の元で働いているとも言えるけど……。
「それとこれとは違うんですよ」
「そうか?」
私が働いているときも何も思わなかったけれど…。
「まあ。そうですね。けれど我が知恵の神、傍から見ていても今の方が楽しそうですもの」
「あれ?見てたのか?」
「ええ。見てました。仕事の合間を縫って、仕事が付属品レベルで我が知恵の神を眺めておりました。前週ご友人共々とショッピングやらゲームセンターに行っておられたではないですか」
「勝手に人の私生活を覗くな」
「人じゃないです……いや、我が知恵の神は人でした」
「そういえば、私はちゃんと人なのか?そうじゃないのか、さっぱりだ」
「う~ん。それは結構分かりずらい部類ではあるのは確実なんですよ」
「そうなのか?私はてっきり人間であると自負しているのだが」
「いや、その五臓六腑はもう既に残念ですが、人間ではあるのです」
「なら、なんだと言うんだ?」
「手続き上です。行政手続きと言うか、天界の手続き上の問題で我が知恵の神は神のまんまですよ」
「ああ……。あ?」
てっきり私は全て人間に成ったつもりで地の文を書いて来たのだが、全てはまだ神のまんまであって、それでも人間と言う……。何とも恥ずかしい神ではないか。うん?待てよ。待て待て。私が脳を掻っ切る以前のこの私はそこまで馬鹿ではないはずだ。
こんな事承知であったはずだ。
「別に問題ないんじゃないか?」
「まあ。問題はないと思います。その内したら自動的にその名簿からは消えるでしょうね。晴れて我が知恵の神ではくなります。残念申し上げます」
「残念がられてもどうしようもないが。まあ。ほら、多分それを承知して私はそうしたはずだ」
「いいえ、ここからが問題なのです。神から堕ちた神などはっきり言ってあまりいいものではないのはご存じでしょう。これは神ではないですけれど、ルシファー然り、アザゼル然りと神への反逆罪としての流刑であります。しかし、我が知恵の神は自らの手で堕ちてしまいまして……。天界も状況が分かっていない状態です。まあ、多分なあなあにはしないでしょうね」
「確かにそうではあるけれど、再び言うが私はそれすら承知済みだろう」
「狙われますよ?我が知恵の神」
「それならそうだ。都度都度で対応する。これでいい」
「良いんですか?そのようなものだけで」
「ええ。私はれっきとした後輩くんの我が知恵の神だろう」
「なら、我が知恵の神……。貴方は実に人間のようになりましたね」
「?」
後輩くん。それは最も君が言わなさそうな言葉選びだ。私を、もう神でなくなった私をまだ神と言い張る君だからだ。
その後輩君は私に対して、手を向けて来た。丁度お凸辺りだろか。髪を掻き分けて人差し指で突かれた。
「うっ」
な、なんだ。これは。ピカリと電気信号が走ったようだった。痺れるような感覚だった。痺れ過ぎて私はベットに腰かけた。
その時全てを思い出した。
ああ。どうしてこんな事を忘れていたのだろうか。こんな大切なことを。小野倉さん、桐花さん、伽華さん。そしてきずなあまねのこと。凄惨ではないが迷惑な事件を。ああ。本当に私は愚か…。いいや、人間であっても忘れてはならないことがあるのにそれを忘れてしまった私は何者なのだろう。ナーバスな気分になってしまうじゃないか。
「か、感謝する。我が後輩よ。やっぱりいい後輩を持った」
「何のことでしょう。感謝申し上げられる程良いことはしていないのだけれども」
そんな訳ないのに。
また冗談を言った。
「いやいや。本当にそうですよ。寧ろ私は迷惑しかかけていないのです」
「そう。それは後輩のやることだ。別に悪いことではない」
「では、そんな我が知恵の神に訊きたいことがあります。天にはお戻りになられる気はありますか?」
「ないな」と私はすぐ返した。
どうしてそんなことを訊くんだ。大手を振って飛び出して来たのにそんなことをする気さえ起きないだろう。
「そうですか……」
「そうですな」
「人間がお好きなんですか?」
「そうとも言えるが、しかし、人間に成って見たとしても神と何ら変わりはなくて漠然と呆然自失のようだ」
「そうですか……」
彼女はあの時の顔をした。私が地上へ堕ちていく時と同じ顔を。
けれど、一つ違う点があるとすれば、何かしらを決意した顔をしていたようにも見えた。
「でも我が知恵の神……」
突かれた指。それで私をデコピンした。
「今の貴方は、人間でもありません」と意味深なことを言った。
私が当惑していると「まあ。私は海馬に迷った他の子羊を導かなければなりません。まあ分からないなら友達に訊きなさい」とただ一言言って、窓の外へと落下していった。
私はその光景に心底驚いて、窓の外を確認することなんてせずに、あっけらかんと立ち尽くしていた。
その言葉の意図など良く分からないが、けれど、一言前の先輩の言葉が何を言わんとするかは分かったような気がした。
何故こんなにも重要なことを忘れていたのだろう。
その所以は自らで探せと言うことなのだろうか。まあ、良いだろう。それくらいは。
私は窓に近付いた。そして、窓の外を、まずは下を見下ろして、次は天空を見上げた。
「まあ。きずなあまねの場所くらいは教えろよお」
私は細い声で呻いた。
誰もいないただのマンションの部屋から笑い声が聞こえたような気がした。




