2、天と云うのは何とつまらないところなのだろうか
天と云うのは何とつまらないところなのだろうか。
見渡す限り人間が想像するあの楽園としての天は存在しない。ただ、天は死んだあとにあるか、地上の上にあるだけ。
ただのそんだけのもの。
そして、そこに存在する神や天使と呼ばれるものは、ぼうっと魂を抜かれたかのように、一心に与えられた作業を遂行する。
「やあ」と声を掛けても「お疲れ様です。我が知恵の神よ」と返ってくるだけ。この言葉を何十人、何百人もの天使や神から何十回と何百回と聞いてきた。
この後のする行動と言えば、ただ仕事に向かうだけ、何億回も繰り返したその行動をするだけ。まさしく色がない。
流石にノイローゼになってしまうだろう。いや、もう既に手遅れだろうか……。
まあ、そんなこんなで私は、ぼうっと赴くままに端へと出て来た。
外が見える場所だ。
ここは落ち着く。落ち着くのだ。外とはなんと素晴らしい響きだろうか。
私は、本当に端の端まで、踏み込んだ。いいや、これはまだ早い。
まずはすることがあると、ポケットに忍ばせて置いたものを取り出した時。
「我が知恵の神……。な、なんで……ど、どうして?何を?」
どこからともなく声がした。翻って見て見るに私の後輩、もといおそらく後継者である。後継者に推薦した序列二位の後輩が覗いていた。
「ははは。我が後輩?タバコ休憩かい?今時そんな太古の文化をしているのは人間くらいなものだよ」と冗談を交えて話して見るけれど、それには目にもくれない。
後輩は目線を私の手の位置に落とす。
「いや。あの……我が、知恵の神……は何を……」
「何をって……。分かり切ったことだろう」と私はそれを上げた。そしてそれを突き立てた。
「だ、駄目です。本当にだ、駄目です」
後輩はどこへ収束するかもわからない手を伸ばした。
放った言葉は表現しようもないほど震えている。一瞬態となのではないかと下衆の勘繰りをしたけれど、その後輩にはどうしようもないその事実を受け止める器になるほど大きくなかったようだと考えた。
寧ろ矮小なのかもしれない。はあ。と私は少々呆れながら、君も一介の神であろう。癇癪を起すなら神になるべくではないだろうと、喉の奥まで出かかった言葉を堰き止めた。
かくいう私も神の器ではなかったのは明白だったからである。
真っ青な顔をした誰かの目にも明らかに映っていた。明るい赤色が……。
私は人間のような――いや神に合わせて人間が設計されたようなものだから人間と同じ位置にあるのだ―――その脳と言うものが。
その部分を私は一瞬の躊躇いもなく頓に豪快大胆に掻き切った。
パシャリ。まるでゼリーを開けたとき放出される液体のようなカジュアルさで吹き飛んだ。それこそ脳の一部が。
血しぶきが飛び散った。ぼたぼたと垂れていく。
この神聖な神の空間が私の醜い血液で汚れていく。白く美しい空間が鮮血で染まっていった。
そんな場面だった。そんなカオスな空間でもあった。
「ああ……!!!」
私は声にもならないうめき声……とも言えない醜い声を上げた。
いいや、醜くとも私はこれが美しいと思った。痛みゆえの言葉ではないと。
むしろ脳を掻き切った痛みなどない。ドーパミンが溢れている音がする。それに呼応するカタルシスのようなものなのだろう。
「ああ。分からない……。知らない。こんなものでしたっけ?」
無知であることは。
「ど、どうしたんですかっ。我が知恵の神よ。天地開闢の時から知恵の神は全てを知っているのですよね。全知であり、前知である人と。そうと言ってください」
我が後輩が跪いて、私に抱き着いた。
涙を流しながらも醜く堪えられないほど懇願した。それに私は答えられない。
「それは君の方が大層知っているでしょう。君の方が全知で全能ですから」
「ち、違います……」
後輩は絶望したような顔をした。突然こんなことを言われて混乱の限りを尽くしているのだろう。
私の血液に塗れた服で、涙を拭いた。
神の涙だ。人間は喉から出るほど欲しい代物だ。それを安売りすべきでない。
「そんなことすれば、汚れますよ?私の濁った血で」
「我が知恵の神の血です。そんな筈がありません。純潔よりも純血です」
「はは。嬉しいことを言ってくれる」
だが……。嬉しいことでも、この言葉は嘘なのだろう。
私は現に掻き切った時点で知恵の神の称号は剥奪されたも等しい。私は全知全能ではなくなった。
後継人は当然ながら目の前のこの後輩だ。
後輩は全知全能となった。私の浅はかな考えも全てを見透かされていることだろう。
それでも嘘をつく。
これは優しい嘘なのだろう。
「私はいい後輩を持ったものだ。これなら大丈夫だな」
「我が知恵の神。そんなこと言われても困ります。わ、わたしにはまだ我が知恵の神のお導きが必要なのです……」
「それもそうだろうな……。指導は永遠に続けることは出来るだろう」
「なら」
「しかし、成長と言うのは何れは一人でするべきなんだよ。教鞭された以上の無限の可能性があるのだ。突き放すようで悪いとも思っている。だが、期待をしているのだ」
「そ、そんな……無慈悲な」
「これを無慈悲と言うならそうなのだろうな。無慈悲な神では神の中でも風上にも置けない存在なんだろう。それを神とは呼ばない」
「で、ですが……」
「悠久の安穏は、時として、感覚を鈍する。私は感覚を鈍してしまった。このままでは何の思いも耽溺することは出来ない。即ち安寧よりもちょっとした渾沌と同居する方が退屈しないと言うことだ」
「……」
「……」
後輩は全知全能だ。私がここへ留まるように説得するのも赤子の手を捻るほどに造作もないことだ。
されども、こうしてその手を使わないのは私を尊重してくれるているのだ。
つくづくいい後輩を持ったと思った。
さてと。
「宴もたけなわではございますが、こうなることが後輩にはどの道、未知か。分かっていたのでしょう……」
私はそう言ってこの空間の壁をコンコンと叩いた。するとぱっかりと割れていく。消えていく。
何もない。ただ風通しのよいただっぴろい曠野の様だった。
当然のように風が吹いた。結構強い風だった。
私を振り払おうと必死に吹いているのではないかと思わされた。
それに私が向いている方向は風下だった。天はやはり認めてくれないらしい。
ここは雲の上で、天ではあった。天に認められなくなった私は落ちた方がいい。或いは堕ちたのか。
では、これがオチだったのか。
「じゃあ。達者でな」と私は言いました。
出来るだけ笑顔で。後輩が全知全能で全てを見透かされても強がることは必要なのだ。
たとえ、俗世間がいかほども快楽に満ち満ちてなくとも、全く本意でなくとも、それを希んだのは私。言い訳の仕様も使用もないほど責任は私にある。
「わ、我が―――――」
なんて後輩が言う言葉も最後まで聞かず、私は地にその儘、雲のまにまに沈ませた。
沈みに沈み消えていった。
どうしてだろう。何故我が後輩はそんな顔をするんだ?まるで間違った子羊を見るかのように……。
今日、世界には知恵の神は誕生した。
それと同時に知恵の神は死んだのだった。




