第八十六話:峠道
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ホスロとネロとの戦闘後、五日が過ぎて…ようやく……北部戦線を担当していた将の一人である、ライオリック・ノルマンドは、南方哨戒部隊の壊滅と、その指揮官二名の戦死を知った。
それは同時に、公国が休戦の約束を破った上に、矛を向けて来た事を意味する。
ライオリックは…この、人の良い青年は、報告して来た部下に、二度ほど繰り返し尋ねた後に、眉間にしわを寄せ、ひどく落胆した。
「……どうする、べき…かなぁ」
落胆の理由は、単に部下二名の戦死のみでは無い。現在、ニクスキオン朝の皇帝と、義父であるリュクリークが殆ど一騎討ちの状態となっており、指示を仰げないのだ。
(独断で、南下するか)
五老杖のうち、義兄のシャルルと、リュクリークの甥であるボードウィンは、これまた北部で別の戦線を請け負っており、動けぬ。
彼らの方面には、ニクスキオン勢力のみならず、蛮民族の集団も屯しているらしく、少しの余裕も無いであろう。
(ならば……ロザリア(王家の霊剣)に兵を預け、私は……フォルクス殿と共に、下るかな)
まさか…いや、義父から、ネロに王家の霊剣の、準筆頭を付けて南方の監察に充てる…とは聞いていたが……
両名、既に死者である。
(だが、俺とフォルクス殿が今向かった所で、勝てるか…?)
(ネロならまだしも、イグニス将軍が…討たれたのだ)
イグニス・フェニキスは、同じく王家の霊剣、グラディウスや、五老杖フォルクスと並ぶ強者であった。
(いや、義父を…リュクリークとニクスキオン朝皇帝との戦闘を、待つべきだろうか)
ライオリックは、毎日のように行われる戦闘により、今まで魔力を消費し続け、その、膨大な、底なしと思われた魔力タンクも、殆ど空の状態である。
戦闘能力自体が、死神の装衣に身を包んだフォルクス程度にまで、落ちているかも知れない。
(というか…)そもそも、北部戦線から兵を引き抜いた所で、一万と少し。その、殆どが他国の軍である。連携が取れるかどうか。
(いんや、向かうべきか)
しかし、やはり、その不安を振り払う程の、緊急事態である。
そして、決意すれば、この男は早い。
伝令将校に礼を言い、すぐさま自陣に戻ると、動ける兵のみを集め、そのまま……書状を書き、フォルクスの陣まで使者を遣わした。
南下すると決めた以上は、雷の様な速度でせねばならぬ。リュクリークが、よく言っている言葉である。
(アイツにも、言っておかねば)
ライオリックはホスロとは違う。
この点、心の底から人間であった。
自分が急遽戦線を変えることを、唯一、信頼出来る人間である、妻に打ち明けたのだ。
__ラタリアと言う名の、以前出て来た、リュクリークの娘である。
自分の陣に、連れて来ていた。
ホスロが嫌うタイプだろう。少年は、戦場に慰み相手を伴う事を良しとしない。
やけに頑丈に作られた妻の部屋に入るなり、ライオリックは
「ラタリア…手短に……行く前に、お前の顔を良く見ておこう」
「何故…?」
薄赤髪の、マリーゴールドの様な雰囲気の女は、不思議そうである。
「用事が出来た」
「大変な用事だ…だから、元気を貰っておこう…となぁ」
聡明な人間だ。それだけで、何かを察したらしい。
「なるほど、分かりました」と多くを言わずに、座った姿勢のまま、ライオリックを手招きし、抱き寄せる。
「貴方に、マラレルの加護が有りますように」
抱き寄せ、ライオリックの頭を、子犬にする様に撫でる。
「止めてくれ、俺はマラレル神なんぞ信じて無い」
だが、それに、ライオリックは不満そうに甘えた。
「じゃあ、何を信じているのですか……人間は、何かしらを生きる上での支柱にせねば、なりますまい」
「あぁ、そりゃ、お前だ」
この男は、たまにこう言う事をする。
それに、慣れた様に、ライオリックの妻は、乾いた笑顔で
「またまた、いつもこうだ」
と、更に抱き寄せ、撫でる。そして、ギュッ…と頭を胸部に近づけた。
「……王家の霊剣の筆頭として…負けるわけにはいかん」
「お前の父に、恩を返さねば」
モゴモゴと、ライオリックは妻の胸の中で、何やら喋る。
「ライオリック様、返す必要など、有りませんよ」
(律儀な人だな)と、ラタリアは、優しい顔で
「もう、貴方は十分…我が国のために、戦ってくれました」
「いきなり…別の世界に来たと言うのに、「拾って頂いた」と、文句の一つも言わずに……」
それに、ライオリックは、静かに、首を横に振る。
「返さねばならん」
「それに……俺はな、この国を気に入っているんだ」
「我が子のように、思っている」
「子を守るのは、親の役目だろう」
決意を、固める。
「俺はマラレルの将軍だ、王の剣たる存在だ」
「約束しよう、ラタリア」
「必ず手柄を立てて、帰って来ると」
魔法の言葉を、妻に放った。
___そして、その晩、ライオリックは安らぎを忘れたかのように、馬に跨る事になる。
公国との戦争を通じて、『国の為に』との信念を一番抱いて戦ったのは、もしかすると、この男だったのかも知れない。
誰も彼もが、領土欲やら名声を欲して戦う中、純粋に保護欲のみを柱とし戦ったライオリックも、ある意味狂人なのだろうか。
ホスロとは違うベクトルの、芯の強い男であった。