第八十三話:憧れの人
_______ホスロ・アッディーンは、私の神様だった。
あのアッディーン伯爵家の、御曹司。
何でも出来る、何でも望める。
宝石の様な瞳を持つ彼は、優しかった。
格下の家の私にも、道端を這いずる浮浪者にも、誰にでも優しかった。
__何度も遊びに行った。何度も、遊びに来てくれた。ずっと……錆びついた、腐った剣の様な私の事を受け入れた上で、友と呼んでくれている。
あの人は、私よりもずっと綺麗で、それでいて、偉大である。
魔力、魔術、剣術、その全てが高水準。しかも…賢いし、背が高いし、何よりも、本当に……優しいのだ。
幼い頃のホスロが怒った所など、見たことが無い。
いつも屈託の無い笑みを、私に向けてくれた。
晴れた水のような太陽の下で、同じ黒髪同士、恥ずかしそうに触り合ったのを、覚えている。
_だが、一つだけ…そんな完璧な彼にも、一つだけ欠点があるのだ。
私を、見てくれない。
優しさを向けてはくれる。頼めば、何でも教えてくれる、しかし…彼の、私を……否、他の人間を見る瞳は……冷めている。
酷く、驚く程に、冷めてる。
お気に入りの道具、気に入っている剣。どれだけ好きで、愛していても、所詮は道具である。
彼の瞳は、生物に向けているモノとは程遠い。
そして、…まるで山猫の様な、ホスロの瞳に映る私の顔は、情けなかった。
「ラヴェンナ……ほれ、この子がネロじゃで」
覚えている……ヤツのせいだ。全て、アイツのせいである。私と、何が違うのだろうか。
_ある日、出会ってしまった。ラヴェンナ……使用人なのだと。
私はここで、ラヴェンナをまるで、愛犬の様に紹介するホスロを見て……嫉妬という感情を知った。
(なんですか…ホスロ、その顔は?)まるで、宝石を見つめるような、穏やかな顔は。
止めろ、その、気色の悪い、虫酸が走る表情を。
お前は、前に、言ったでは無いか。
「ネロと一緒に遊ぶのが、一番気楽でエエわ」
と。青空の下!お前は、私に言ったハズだ。友だ、気心の知れた、親友だと!
今すぐに……その優しい顔を、止めて欲しい。
いつの間にか私の表情は、口をギュ…と小さくし、拳を握り、多少涙目となる。そして、獣のような鋭い瞳で、ラヴェンナを睨み付けた気がする。
おまけに、その、ラヴェンナとか言う使用人の表情にも、我慢ならなかった。
まるで迷惑かのような……何故、"お前"が辛そうな顔をする。
ホスロからそんな風に想われていて、何故その顔が出来る。お前は幸福を享受している立場だろう、何の努力もせず、好かれようともせず!ホスロから…そんな瞳を貰える立場に居て…その、不幸そうな顔はなんだ……不敬者めが。
__ネロは結局、ホスロから冷たい愛を貰っていた。
ホスロは、この人間族の生物は、ネロの事を「美しい」と感じている。妹の様にも、思っていた。
成長期になれば、己の本能に従い、彼女の膨らんだ胸に何度も目を遣ったし、魔法も教えた。剣技も、伝えた。同種族の一員として、認識はしているのだろう。
否…ホスロ自身、分からないのかも知れない。
何故この人間族の女を、心の底から想えないのか。
そうだ。サイエンとも数カ月家を共にし…当然、何度か人間らしい夜を過ごしたが、情はあまり湧かなかった。
情とは、ホスロが「死んでも自分のモノにしたい…」と言うような、激しい感情である。一定の…感情の波の許容量をオーバーし…愛したい!と、死ぬ寸前のような、感情である。
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ネロの猛攻をいなす護国卿の脳内で、レマロナ…いや、サラマンダーがふと、湿った声で喋る。
「(ホスロ、お前は可哀想なヤツさ)」
「(……今、忙しい……後でな)」
ホスロは、ウザったそうに舌打ちをする。
「(貴様の先祖、勇者アヴェルナと、本質的には…何の変わりもしない)」
「(自分の欲望のままに行動する、真の、化け物だ)」
「(可哀想になぁ……常軌を逸した者よ……その点だけは、本当に……私は憐れに思っているさ)」
まだ、今度は、優しくサラマンダーは続ける
「(人と言う種族に産まれてしまったのが、貴様の運の尽きかね…あぁ……弱き子よ……)」
この男の精神は、感情の制御の仕方は、生まれつきなのだろう。
……アヴェルナと違い、恵まれた環境で育っておいて、何故こんなにも、人に冷たくなれるのだろう。元々、敵にトドメを刺す時や、味方の介錯を行う際に、一切の躊躇が無い。
まぁだが……一応、同情はしている。やり辛い、とも…思って居るのだろうか……だが、スルリ…と行うのが、ホスロの長所であり、短所であった。
…そして、脳内のノイズは消え……戦闘に、集中出来る。
ホスロの視界に捉えたネロの瞳は、猫の様である。獰猛であり、興奮した猫のよう。今にも飛び掛り、喉を引き裂き得れるような。
「傾射角弩」
その猫は、両手を、祈る様なポーズに組み、念仏の様なリズムで技名を詠む。
彼女の背後に、守護霊の様にして浮かび続ける巨大な一つの弩が、八台に分裂し、その全てに再び……ギチギチ…とツルが張られ、矢が、セットされる。
(良い技だ、成長したなぁネロ……全方位からの、超高速の矢)
だが、当然の事ながらホスロは、『操槍』で陣を組み、元々の『自動で飛来物に反応する』という特性とも合わせ、向かってきた矢を、全てはたき落とした。
「俺は………いや、俺も、成長したんだな……」
(ふむ…昔ならば、二本くらいは喰らっとったかなぁ…)実感する。ネロの、敵の動きの全てが見える。繊細に、流れるように。
『操天狗』を手に入れたからだろうか。自分の体が、異様に軽い。足が、動き足らなさそうにムズムズとしている。
そして、近接戦闘に持ち込むべく、ホスロが抜刀すれば、当然ネロも…ズラァ…と剣を抜いた。
そのまま、彼女は、剣を右手に持ったままの状態で、狼の様に四つん這いになって、ホスロを睨みつける。背骨は山なりであり、ボコボコと筋肉で盛り上がっている。
ガタガタと、肩を震わせた。
最後に、そのまま体中の力を利用し、全速で、剣を横に払いつつ……駆けてくる!
「まぁ、じゃろうな」
だが、ガキンッ!と……直進して来る事を読んだホスロは、彼女の勢いを利用し、背中でスルッ…と受け流しつつ、クルンッ、と回転して地面に張り倒した。
回転のままに、突き刺そうとするも、ガツッ、と左手の伸びた爪で剣を弾かれ、避けられる。
「ネロ、部下の面倒は見んでエエんか?」
そろそろ…付近には、組み討ちを始めるお互いの兵の様子が見えて来た。
「フゥ……ふッ…ふっ……」
ネロは、ただ、前述の、獣の様な姿勢のまま、ホスロを睨んでいる。
(憎い……何故、この男は私を見ないのだ)
預言書には、今日…私は報われる…と、そう確かに、書かれていた。
ゲラマド・ラドリア…始祖の預言は違わぬ。故に、リュクリーク王も、私に兵を与えて下さった。
能力も、与えられた__
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「ホスロ、ホスロ、向こうで虫取りをしませんか?」
「ホスロ、魔術を教えて下さい、これはお願いです」
「剣の持ち方、これで合ってますかね?」
「いや…はは、私…やっぱ、武芸の才能が無いのかなぁ……」
彼が、私の手を握ってくれて、あらゆる、戦場で生きる術を教えてくれた。
「ほ…本当ですか、これで……これで、合ってるんですね…!」
違う。ホスロは、約束を違えない。
私の事を、友達だと……大事な人だと、世界で唯一の…何かだと、思ってくれている。
彼を疑う私の心は、嘘つきだ。妄言に騙されるな、私が、一番ホスロを愛していなくて、どうする。
信念を、曲げるな。
__「ネロ、あぁ…安心する……君の隣が、一番楽だよ」
あの瞳は、幼き頃の、言葉の数々は、冷たくなど無い。
嘔吐するほど、成長途中の臓器が変形するほどに、魔法を使った。掌の骨が曲がる程、剣を振った。
強くなれば、きっと、あの人は私を認めてくれる。
あの人も、私と同じくらい…ずっと、強いのだ。強くて、凄くて……あの御方だけだ。下級武官の家の……私に構ってくれたのは。
欲しい……全てを。冷たい瞳では無く、私が、求め続けた人間の、触れる事を躊躇うような、あの黒い目玉が欲しい……
___「貴方の目玉が……欲しい!」
そして、ネロは、己の奥義を叫ぶ。
昔、ホスロに放った…あの奥義を
「神火崩燼弓…」
「火槍」
突火槍では無い。純粋な、『操炎』と『操槍』の混合魔法。それだけ、固有魔法としての練度を高めて来たのだろう。
「ネロ……俺は今、魔法が見えている」
そして、響く罵声と、悲鳴を背景に、踊るように、ホスロは炎を纏って行く。
霧を照らすように、晴れた目を開き、叫んだ。
「何かに、成れそうなんだ……正気の沙汰じゃないさ、分かっている、いや、成るべきだ」
「世界が、俺を中心に回っている……目玉の奥の臓器が、ピクピク…とな、輝いているんだよ」
「……?」
何を言っているのだろうか、ネロには、伝わらなかったらしい。相変わらず、ハァハァ…と口の端からネバネバとした、ヨダレを垂らす。
「幼少期な、この程良い緊張感が好きだった」
「ふと、模擬戦が終わって下着を脱げば、射精した事が、何度かあった」
そして、ホスロは今度こそ、生きた、爽やかな笑顔で
「こんな感覚…久しぶりじゃわ……ネロ!」
「あぁ…ありがとう…久々に……思い出したよ……俺は、やっぱり、殴り合いが…戦闘が、好きなんだ…自分がさ、認められる気がする」
だが、今度は思いっ切り、笑みを消して、黒い目玉で煌々と
「じゃけん、構えてや」
冷めた、暗い声で、喋る。
久方ぶりの……火と火の…真っ向勝負。
「言われなくとも」
_____
昔から、ホスロは生物の生き死にを、自分で決めていた。
弱っている虫が居れば「可愛そうだ」との理由で、首と胴とを分ける。
強い虫が居れば「可愛い子には、旅をさせんとなぁ…」と、高くから落とす。
部下が死のうが、一族の誰かが死のうが、彼が歩みを止め、号泣する事は無いのだろう。
その死に際を想像し、興奮と、英雄に向ける涙は有るのだろうが……命が事切れて、心から悲しむ相手など……きっと
あの人の気を引きたい…何とかして、振り向いて欲しい。どうすれば良いのだろうか。何をすれば、対等な生物だと…思って貰えるのだろう。
あの人の冷たい瞳を、溶かせるのだろう………
(強くなれば良いの?)
(それとも、オシャレかな)
何でも、試してみた。彼の好みを調べ、何時間も観察し……それでも、掴めなかった。
辛い、暗い……見て欲しい……ホスロに、一度でも良いから__
_ローデルヴィレイ川は、数多の英雄の、墓地である。今日はその墓地に、ラドリア家の若当主の名が、刻まれた。
「貴方は、ラヴェンナしがッ……み゛てなかった……」
いつの間にか、焼き払われた草原に…片手を失ったネロが、倒れている。
「そんな事は、無い」
「お前の事も、ずっと見とった、昔から…な」
「はっ…はっは……変わってなぐて……よかっ……たぁ…」
ネロは、灰色の目をしながら、ホスロを視界に収めて……ふと、何滴か、ポツポツと涙を流す。
流れては、地面に吸い込まれ、乾く。
「貴方は…変わって……無い」
「いんや、変わったさ……何もかも」
ホスロは、呆れた様に微笑む。
ネロの手を取り、優しく、汚れた膝の上に置いている。
「ホスロ……ホスロ……私を…好きだと……いって………ください」
「私を…認めて……下さい」
もう片方の、短くなった、空いた腕を、赤子のようにアワアワと動かして、ネロは言葉を紡いでいる。
だが、少年は、言葉を発さない。
手を握り続けたまま、真顔のままである。
「最近、夢を見るんだぁ……ホスロが、私と、遊ぶ……ゆめを……」
ソレに、唯一反応した護国卿は、更に強く、少女の手を握り直す。
「俺もだ、ネロ……夢を、ずっとな…夢を、見ている」
(俺は、何を……戦場だぞ…何をしている……私情を挟むな…馬鹿めが)
そう、自分に対して怒りが湧くが、必死に、抑えた。
「そこに…私は……居ます…か………?」
灰色の瞳、ボロボロの耳。頬の皮も剥がれ、肉が多少見えていた。
ホスロは、わざとらしく、微笑む。
「あぁ…あぁ、もちろん…勿論だよ、ネロ」
嘘を付き、もう片手で、少女の頬を、そっ……と撫でた。
「…どうしたら……あなたの視界に……私は……」
(違う、違うんだよ…ネロ……俺は)
_止めろ、気分が悪い。心底。
(こんな…ラヴェンナを見殺しにする様な奴に、情を掛けるな)
(胸が、ムカムカとする……言語化が、出来ていない)
先程まで輝いていたハズの目が、瞳が、乱反射し、潤っている。
違う。(何をしているのだ、私は…)違う、俺は、本当に……
「ネロ」
少年は、力強く
「よう、頑張ったなぁ……なぁに、じきに俺も、地獄に行くじゃろう」
「隣を開けといてくれ…死後に、会おう」
そして共に、座ろう。と、約束をした。
今度こそ……決して違えぬ約束を。嘘では…無いのかも知れない。
護国卿は、そして火を放つ。かつての友の死骸に。
塵とし、誰にも見られぬ様に。全て、衣類、武具の一切までも。
穏やかな最期であった。
ホスロの、この男の本音は分からぬ…だが、ネロにとっては、確かに……比較的幸せな、最期なのだろうか。
「若様、流石で御座いますなぁ…敵将を……」
「喋んなやギベリン、殺すぞ」
馬に跨り、嬉しそうに近寄って来た部下を、叱る。
なにせ……暗い目をしている、死ぬ間際の人間の様な、何かを見据えるかのような、暗くて冷えた目を。
その目の先には、逃げ惑う敵兵の背中が、無数に見えている。
足を止めている時間など、無い。
「刺し殺せ、追え、追え、逃がすなッ!」
再び、護国卿は馬に跨った。