第六章 古き紋章 ― 盗まれた戦時遺物
満月が首都フランヴァルの中央区を白く照らしていた。
昼間なら大勢の市民で賑わう大通りも、深夜を迎えれば人影は少ない。新設された美術館だけが正面玄関の周囲にいくつもの魔導灯を並べ、開館初日の喧騒が残る建物を夜の街に浮かび上がらせている。
正面玄関には警備の騎士が二名。側面の出入口にも二名が配置され、美術館の周囲には巡回の騎士もいる。人数だけを見れば、厳重な警備と言っていい。
「……なるほど」
向かいの建物、その屋根の上。黒いローブに身を包んだクロエルは、双眼鏡代わりの小さな魔導器を片手に、美術館の周囲をじっくりと観察していた。
警備兵の配置は一定している。巡回の経路も単純で、交代の時間も規則正しい。窓には魔力感知の術式が施されているものの、設置されたばかりなのか、術式同士の間にわずかな死角が残っている。
新設されたばかりの美術館。展示物を守るための設備は揃えられているが、それを運用する人間の連携までは完成していない。
クロエルは小さく笑った。
「これなら、楽しめそうね」
クロエルは黒いローブを脱ぎ捨てた。
昼間の占い師としての姿を隠すものがなくなれば、そこにいるのは首都を騒がせる怪盗――黒翼の魔女だった。
身につけた魔導具を一つずつ確認し、最後に黒いシルクハットをかぶる。
◇
「さて……」
クロエルは窓枠に指を添え、鍵穴へ細い魔力を送り込んだ。内部の機構を指先で探り、噛み合った部品をわずかにずらす。 薄い魔力が指先から流れる。施錠そのものを壊すことはしない。鍵穴の内部へ干渉し、ほんの少しだけ仕組みをずらす。
施錠が外れるのを確かめて窓を開け、身体を滑り込ませると、入ってきた窓を静かに閉じた。
館内は暗かった。
昼間なら多くの人間が行き交う展示室も、今は静まり返っている。壁際には大戦期の絵画や彫刻が並び、その奥には今回の目玉となる魔導遺品を展示するための大きな展示室が設けられていた。
クロエルは目当ての場所を確認すると、展示室へ向かって歩き出した。
「……随分と立派に作ったものね」
天井には魔導灯。床には侵入検知用の術式。展示室の入口には警備兵。そして中央には、透明な魔力障壁に包まれた展示台が置かれている。その中にあるのが、今回の目的だった。大陸大戦の時代に作られた魔導遺品。大陸中央から運び込まれ、アルフレッド商会も輸送に関わった品。
クロエルは展示台を見つめる。
昼間、美術館の外から確認したときよりも、近くで見るその品は異様な存在感を放っていた。古びた金属の表面には細かな傷が刻まれ、中央には見慣れない紋章が刻まれている。
「……やっぱり」
クロエルは目を細めた。以前、ガルドの工房で見た資料に似た紋章だった。だが、今は深く考えない。ここで余計な時間を使えば、それだけ警備に見つかる可能性が高くなる。
クロエルは右手を上げた。
「まずは、こっち」
クロエルは指先から細い魔力を伸ばし、展示室の床に仕掛けられた検知術式を一つずつ避けながら進んでいく。魔力を強く流せば術式に反応され、かといって弱すぎれば干渉することもできない。必要なのは術式そのものを壊すことではなく、ほんのわずかに認識を狂わせることだった。
さらに腰からガルドから受け取ったばかりの魔導具を取り出して起動させると、小さな装置が淡く光り、展示室の一角に張り巡らされていた検知の魔力がゆっくりと薄れていった。
「さすがガル爺」
クロエルは満足そうに呟く。
ところが、廊下の向こうから二人分の足音が近づいてくる。クロエルは壁際へ身を寄せ、足音の主が通り過ぎるのを待った。現れた警備兵は二人。巡回の時間も、通ってくる方向も、先ほど確認したものとは違っている。
どうやら現場の警備兵は、決められた巡回経路をそのまま使ってはいない。新設されたばかりの施設だけに、まだ警備の運用が固まっていないようだった。
「……これは困ったわね」
◇
クロエルは展示室を見回した。
近くに隠れられる場所はない。窓へ戻るにも、廊下を通る警備兵と鉢合わせする可能性がある。クロエルは壁に手を触れ、周囲に漂う魔力へ自分の魔力を重ねた。暗がりに立つ身体の輪郭が少しずつ背景へ溶け込み、数歩離れれば人影と気づくことも難しい。
やがて足音が廊下のすぐ向こうまで近づき、展示室の扉が開いた。
「異常はないな」
「ああ」
二人の警備兵が展示室へ入ってくる。クロエルは動かない。警備兵の一人が展示台へ近づき、魔力障壁を確認する。
もう一人は室内を見回した。その視線が、クロエルのいる方向へ向く。
「……?」
警備兵の一人が、ふと足を止めた。何かを感じ取ったのか、展示室の奥へ視線を向け、そのままクロエルの隠れている壁際へ近づいてくる。クロエルは身体を動かさず、周囲の暗がりに魔力を馴染ませた。
「……今、何か動かなかったか?」
「気のせいだろ。風も入ってない」
警備兵はさらに数歩進んだものの、やがて足を止めた。目の前に並ぶ絵画へ視線を向け、首を傾げる。
「それより、この辺の展示品って触っていいのか?」
「触るなよ。壊したら俺たちの責任になる」
「分かってる。見るだけだ」
二人はそんな会話を交わしながら展示室を出ていった。扉が閉まる。
クロエルは小さく息を吐いた。
「危なかった……」
小声で呟きながら、クロエルは展示室の奥へ目を向ける。そこには、まだ彼女が狙う魔導遺品が待っていた。
「新しい場所は、こういうところが面白いのよね」
◇
クロエルは展示台の前まで進むと、障壁へ手をかざした。
薄く張られた光の向こうに、目当ての魔導遺品がある。腰からガルド製の魔導具を取り出し、障壁へ近づける。装置が働くと、張り巡らされた魔力の一部が引き寄せられ、光の膜がわずかに乱れた。
その隙間へクロエルの指が滑り込む。指先から魔力を送り込み、障壁の内側へ触れると、複雑に絡み合った術式の構造が彼女の中へ流れ込んできた。
「右から三層……外側が防御、二層目が侵入検知。内側が警報制御……」
独り言を呟きながら、指先を動かす。防御術式を止める。警報術式を眠らせる。
そして最後に展示台を覆っていた魔力障壁が静かに消えた。
クロエルは展示物を両手で持ち上げる。
「いただきます」
魔導遺品を手にしたクロエルが出口へ向き直る。背後の床に刻まれた術式が、淡く明滅した。
「……あら」
止めたはずの警報術式が、復旧を始めている。
クロエルは魔導遺品を片腕に抱えたまま振り返り、腰の魔導具へ手を伸ばした。術式の光が強まり、床を走る魔力が警報装置へ向かって流れ込んでいく。遠くで鐘が震える。クロエルは魔導具を術式へ押し当て、指先から魔力を叩き込んだ。
警報へ向かっていた魔力の流れが鈍り、鐘の振動も止まる。
◇
「ふう……」
クロエルは魔導遺品を抱え直し、懐へ手を入れた。取り出したのは、何枚ものタロットカードだった。
扇状に広げたカードへ月明かりが落ちる。クロエルは一枚ずつ絵柄を眺め、指先を止めた。
選んだのは――《運命の輪》。
大きな輪の上を巡る象徴的な図柄。そのカードを手にしたクロエルは、展示台へ歩み寄った。空になった台の中央へ、カードを一枚だけ置く。
「運命は、回り始めたばかり」
クロエルはカードを見下ろし、ふっと笑った。
「……この意味まで、皆さんに伝わるかしら?」
誰もいない展示室へ、挑むような声が響いた。
「それじゃあ――」
クロエルは魔導遺品を抱え直し、窓へ向かう。
「お先に失礼します」
足元に魔法陣が広がり、身体がふわりと浮き上がった。窓から屋根へ出ると、そのまま夜空へ舞い上がる。
黒い影が月明かりを横切った。警備兵が窓から外を見上げたときにはもうクロエルの姿はない。
慌ただしくなった展示室には、空になった展示台と、一枚の《運命の輪》だけが残されていた。
◇
夜明け前。
首都フランヴァル評議会の議員たちが、次々と緊急招集を受けていた。
「新設美術館から、大陸大戦期の魔導遺品が盗まれた?」
「ああ。警備兵に負傷者はなし。建物にも大きな損傷はない」
「犯人は?」
報告を受けた騎士が答える。
「現時点では不明です」
「現場に残されたものは?」
騎士は一枚の紙を机へ置いた。
「これだけです」
そこには、盗まれた展示物の代わりに置かれていたタロットカードの絵が描かれている。議員たちは黙ってカードを見る。
やがて、一人が低い声で言った。
「……黒翼の魔女か」
タロットカードの《運命の輪》。それは、これまで首都フランヴァルで起きた黒翼の魔女の事件にも、必ず残されていた。
だが、今回の盗難には大きな違いがある。盗まれたのは、大陸中央から運び込まれた大戦期の魔導遺品。そして、その輸送に関わっていたのが――アルフレッド商会だった。
これまでの黒翼の魔女は多少騒がせる怪盗に過ぎなかった。今夜の事件を境にその扱いが変わる。首都フランヴァル評議会は、黒翼の魔女への対策を本格的に始めることになる。
「徹底的に調べろ」
評議会の一人が言った。
「美術館だけではない。輸送記録、アルフレッド商会、入港した荷、関係した商人、騎士団まで全部だ」
別の議員が顔を上げる。
「そこまで動かすのですか?」
「黒翼の魔女が、ただの金目当ての盗賊なら話は早い」
机の上に置かれたタロットカードへ視線を落とす。
「だが、大陸中央から来た魔導遺品を狙ったのなら――この事件は、我々が考えているより大きい可能性がある」
首都フランヴァル評議会。
その巨大な組織がついに黒翼の魔女を正式な追跡対象とした。
「今回の盗難をただの事件として処理するな」
その言葉とともに、机の上の《運命の輪》が回収された。
その頃、黒翼の魔女は盗み出した魔導遺品を手に夜の首都を離れていた。古びた金属の表面に刻まれた、見慣れない紋章。
それは失踪した両親の行方へ繋がるものと同じだった。




