第五章 黒翼の魔女 ― 満月に始まる夜
満月の夜が来た。
《黒猫の天幕》の扉を閉めた頃には、東区の通りにもすっかり夜の帳が下りていた。新設された美術館は先日から正式に開館し、大陸中央から運ばれてきた大陸大戦時代の魔導遺品を目玉に、大勢の客で賑わっているらしい。その話を聞きながら、クロエルはいつもと変わらぬ顔で最後の客を見送り、扉の向こうへ客の姿が消えるのを確かめてから、店内の片付けに取り掛かった。タロットを箱へ収め、机を整え、木製の黒猫が描かれた看板を店内へしまうと、最後に鍵を掛ける。
そのまま自宅へ戻ったクロエルは、玄関の扉を閉めると、外の気配を探るように一度だけ耳を澄ませた。
誰もいない。確認を終えると、黒いローブの留め具へ手を掛ける。
昼間、占い師として身につけていた衣装を一つずつ外していく。黒いローブを脱ぎ、髪をまとめていた飾りを外すと、鏡の中から占い館で客を迎えていた姿が少しずつ消えていった。
丸眼鏡だけは外さない。
クロエルは眼鏡を掛けたまま、衣服をすべて脱いで身軽になると、部屋の壁へ手を伸ばした。壁面の一角を押し込むと、わずかな音を立てて隠し扉が開く。
◇
「ふふっ」
その奥に隠されていたのは、昼間の部屋からは決して見えない収納庫だった。
黒を基調とした衣装が、几帳面に並べられている。動きを妨げない細身の黒衣。腰に装着する魔導具用のベルト。腕へ固定する小型の魔導装置。靴底に仕込まれた特殊な魔導機構。そして、一番奥には黒いシルクハットが収められていた。
クロエルは衣装を手に取り、身体へ合わせていく。布地を留め、ベルトを締め、腰の装具を固定する。続いて腕の魔導具を取り付け、指先で留め具を確かめると、淡い魔力が装置の内部を走った。
これはただの怪盗衣装ではない。すべてガルドがクロエルのために作った、夜のための装備だった。
魔力を増幅する装具。身を守る魔導障壁。姿を捉えにくくする攪乱用の魔導具。そして、空中を移動するための補助装置。
一つ一つに指を触れ、作動を確かめていく。最後にクロエルは黒いシルクハットを手に取った。
鏡の前へ立つ。
昼間までそこにいた占い師の面影は、もうどこにもない。青い瞳だけが月明かりを受け、鏡の中で鋭く輝いている。
クロエルはシルクハットを頭へ乗せ、そのつばを指先でわずかに下げた。
「……うん」
満足そうに口元を緩める。これでいい。だが、この姿を東区で晒すつもりはなかった。
クロエルは怪盗衣装の上から再び黒いローブを羽織り、シルクハットもその下へ隠す。
扉を開ける。
そこにいるのは、夜の散歩へ出かける一人の魔導士にしか見えない。
けれど、そのローブの下には――今夜、首都フランヴァルを騒がせる《黒翼の魔女》がいる。
◇
東区と中央区を隔てるフランヴァル東境大橋には、すでに厳重な警戒が敷かれていた。
夜の橋を照らす魔導灯が等間隔に並び、その下では複数の騎士が通行人を確認している。昼間とは比べものにならないほど人通りも少なく、橋を渡ろうとする者がいれば、それだけで目立つ。
クロエルは橋へ近づかなかった。足を向けたのは、橋から少し離れたフランヴァル運河沿いの暗がりだった。水面に月が揺れている。周囲の建物から漏れる明かりもここまでは届かず、見張る者の姿もない。
クロエルは立ち止まると羽織っていたローブを脱いだ。その下から黒翼の魔女が現れる。
「さて……」
小さく呟き、片足を水際へ踏み出す。身体を包んだ魔力がふわりと浮力へ変わり、クロエルの身体が地面から離れた。夜風が黒い衣装を揺らす。運河の水面を越え、月明かりの下を滑るように進み、そのまま対岸へ降り立った。
誰にも見つかっていない。
クロエルは振り返ることなく、中央区の夜へ紛れ込んだ。
◇
中央区へ入っても、クロエルは美術館へは向かわなかった。大通りを抜け、街の中心にそびえる大時計台へと進路を取る。
巨大な時計盤を見上げたクロエルは、そのまま地面を蹴った。身体を包む魔力が夜風を捉え、黒い衣装の裾が月明かりの中で翻る。屋根を越え、時計台の外壁を駆け上がるように高度を取り、そのまま展望デッキへ向かって静かに降下していく。
やがて黒いシルクハットが欄干の向こうから現れ、クロエルの身体がふわりと舞い降りた。足音すら残さず展望デッキへ立った彼女は、そこで足を止めた。眼下には首都フランヴァルの夜景が広がっている。
中央区の整った街並みも、遠くに見える東区の灯りも、今夜ばかりは一つの街として月明かりに浮かんでいた。屋根の連なりを縫うように運河が伸び、その先には、先ほど渡ったグラン・アルヴの姿も小さく見えている。
クロエルはしばらくその景色を眺めていた。これが怪盗として夜に動くときの彼女の習慣だった。
大時計台から首都を見下ろし、満月を眺める。
そして、これから始まる夜を思い描く。
◇
クロエルはシルクハットのつばに指を添え、満月を背にしてゆっくりと口元を吊り上げた。
「では、始めましょう」
目の前に広がる首都フランヴァルの夜景を眺めながらクロエルは一歩、展望デッキの縁へ近づいた。その遥か向こうには東区の灯りも見える。今夜、この巨大な街の誰もが自分のすぐ頭上を一人の怪盗が駆けることになるとは知る由もない。
クロエルは満月へ視線を上げた。
今夜の舞台は新設美術館。狙うのは大陸中央から運ばれてきた大戦時代の魔導遺品。
そして盗み出すだけでは終わらない。誰より鮮やかに誰より華麗にこの街の記憶へ残る夜にする。
シルクハットの下で、青い瞳が楽しげに細められた。
「It's show time」




