第七章 静かな工房 ― 黒翼を守る者
新設美術館から目玉の魔導遺品が消えて、数日が経った。
ガルドの工房では、朝から紙面をめくる音だけが響いている。
ソファに腰掛けたクロエルは、新聞を広げたまま眉を寄せた。
「……思ったより、大事になっていないわね」
記事には、美術館の展示品について簡単な経緯が記されていた。魔導遺品は現在、公開を停止している。盗難されたとは、どこにも書かれていない。
クロエルが新聞から顔を上げると、作業台に向かっていたガルドが口を開いた。
「そりゃあ、ばつが悪いだろうからな」
「何が?」
「盗まれたと発表すれば、管理していた連中の責任になる。ましてや、あれは大陸中央から運び込んだ品だ」
ガルドは手元の工具を置き、新聞へ目を向けた。
「大事にしたくない理由くらい、いくらでもある」
クロエルはもう一度、紙面へ視線を落とした。確かに妙だった。黒翼の魔女が美術館へ侵入し、警備を抜いて展示品を持ち去った。それだけの事件なら、首都中がもっと騒いでいてもおかしくない。
「……そこまで重要でもないんだろう」
ガルドが何気なく言うと、クロエルの視線も自然にその先を追った。工房の隅に置かれているのは、数日前に美術館から持ち出した魔導遺品の包みだ。
ガルドは包みを開き、古びた魔導具を作業台へ置いた。表面の傷、刻まれた紋様、内部に残る魔力の痕跡――老人は一つずつ確かめるように目を走らせる。
「レプリカ……かもな」
その言葉にクロエルの目が細くなった。
「……そうなのね」
しばらくソファに寝転がっていたクロエルが、ゆっくりと身体を起こした。
◇
「やっぱり、直接大陸中央へ……」
クロエルが言いかけたところで、ガルドの手が止まった。
工具を作業台へ置き、ゆっくりとクロエルへ歩いてくる。その顔には、いつものような軽口を挟む余地がなかった。
「クロエル!」
「……っ」
思わず肩を跳ねさせたクロエルへ、ガルドは真正面から視線を向ける。
「約束したはずだ。大陸中央には乗り込むなとな」
低く響く声に、クロエルは視線を逸らした。
「……分かったわよ」
小さく返して、ソファへ座り直す。
その様子を見たガルドは、深いため息を吐いた。
「この首都で盗みを続けて、大陸中央の人間をこちらへ引きずり出す。そこまでは協力してやる」
ガルドはそこで言葉を切り、クロエルを見る。
「だが、大陸中央へ乗り込むのは駄目だ」
クロエルは返事をしなかった。
ガルドは知っている。クロエルの両親が姿を消したことも、その手掛かりが大陸中央へ繋がっていることも。そして、大陸中央がこの世界でも最大級の力を持つ存在だということも。だからこそ、クロエルには同じ道を歩ませたくなかった。
あの二人と同じように、帰ってこられなくなるような場所へ向かわせるわけにはいかない。
それが、ガルドが今も胸の奥に抱えている決意だった。
◇
「まぁ、情報を待て」
ガルドはそう言って、再び作業台へ向き直った。
「評議会の中にも、話を聞ける奴はいる」
「……そうね」
クロエルにも、その人物の顔が浮かんだ。
ガルドの一人息子。幼い頃に母親を亡くし、男手一つで育てられた。父親とは少し違って、気の弱いところがある。それでも根は真面目で、ガルドが細かく口を出さなくても自分の道を歩いてきた。
今ではフランヴァル評議会の職員として働き、忙しい仕事の合間を縫って、この工房にも時々顔を出している。
「忙しいみたいだけど、まだ評議会にいるの?」
「辞めたなんて話は聞いてない。今も毎日こき使われてるだろうよ」
ガルドは工具を手に取り、慣れた手つきで作業を再開する。
「それにあいつは案外よく見ている。評議会の内側で何か動けば、俺にも話が回ってくる」
「それなら、今回も何か分かるかもしれないわね」
「ああ。だから焦るな」
クロエルはソファへ身体を預けた。
「……分かった」
ガルドは横目でクロエルを見る。
息子が幼かった頃から、お互いに懐いていた。少し年上の少年が、何かにつけてこの工房へ来たがった理由を、ガルドが知らないはずもない。人の話を黙って聞いて、困っている相手には自然に手を差し出す。そういうところは、昔から変わらない。
母親を早くに亡くした少年にとって、クロエルの存在がどんな意味を持っていたのか――ガルドは今でも、あえて聞かずにいる。
ガルドは、それ以上のことに口を出したことはなかった。息子の気持ちも、クロエルとの距離も、二人が自分で決めればいい。ただ、二人とも自分にとって大切な存在だ。だからこそ、クロエルを大陸中央へ向かわせるつもりはなかった。
「情報が入ったら、すぐに知らせる」
「うん」
クロエルは短く返し、ソファに深く身を沈めた。
ガルドは作業を続けながら、胸の内では決めている。大陸中央関係の両親失踪へ繋がる手掛かりは、自分たちのいる場所まで引き寄せればいい。
クロエルを危険な場所へ送り出す必要はない。
◇
「じゃあ今日も、仕事するわよ」
クロエルはソファから立ち上がった。
大陸中央のことは気になる。それでも、今の彼女にはやるべき仕事がある。
《黒猫の天幕》も、そろそろ開店の時間だった。
「それがいい。お前は占いの腕を磨け」
ガルドが作業台へ向かったまま言う。
クロエルは頬を膨らませるように口をとがらせた。
「ガル爺に私の占いの腕について言われたくないわ」
「客は毎日来てるんだ。腕が悪くても商売にはなるらしいな」
「失礼ね。私はちゃんと相談に乗ってるのよ」
「占い師が相談に乗ってどうする」
「いいのよ。みんな、それを聞きに来てるんだから」
クロエルはそう言い返すと、扉へ向かった。
「じゃあ、行ってくるわね」
「おう」
扉が開き、朝の東区へクロエルが出ていく。
しばらくして足音が遠ざかると、ガルドは手を止めた。
誰もいなくなった工房で、老人は小さく息を吐く。
「……両親の手掛かりは、必ず見つけてやる」
低く呟き、再び作業台へ向き直った。
工房の外では、商人たちが店を開け、通りを行き交う人々の声が少しずつ増えている。
首都フランヴァル東区。今日もまた、何事もなかったかのように朝が訪れる。




