Ⅵ逃げ道の果て
深夜。
グランディアの噴水公園に、訪れる者の姿はなかった。
噴水の水音に、近くの道を巡回するAEGIS隊員の靴音がときおり重なる。
二人一組で灯りを持ち、公園の中まで照らしていた。
緑のカッパを着たホンは、隊員たちが通り過ぎるのを待ってから公園へ入った。
待ち合わせの時刻と場所は、すでに決められている。変更を伝える手段はなかった。
噴水のふちへ腰を下ろし、カッパのポケットから懐中時計を取り出す。
時刻を確かめて時計を閉じ、右隣へ置いた。
これが決められていた合図だった。
やがて、噴水のそばに生えた草がわずかに動いた。
小さな金属のクモが姿を現し、噴水のふちを登ってくる。
置かれた時計の周りを一度回ると、前脚で石を二回叩いた。
カチ、カチ。
金属のクモが向かった木の陰から、黒いマントを羽織った男が出てきた。
フードは下ろされ、黒髪が後ろで一つに束ねられている。マントの間から赤い着物がのぞき、腰には刀が下がっていた。
男は切れ長の目を公園の入口へ向けながら、ホンの前で足を止めた。
「どうも」
ホンは時計を拾い、立ち上がった。
「ソウレンの方で合ってます?」
「ああ。カイだ」
金属のクモが、カイの足元まで走っていく。
「よかった。初めてお会いするので、少し心配だったんですよ」
ホンはカッパの内側から、書類の入ったケースを取り出した。
「こちらをお願いします」
カイはケースを受け取り、封を確かめる。
「届け先は聞いていますね?」
「聞いている」
「では、よろしくお願いします」
カイはケースをマントの内側へしまったが、その場から動かなかった。
「何か?」
「あんた、つけられてるぞ」
「AEGISですか?」
「分からない。三人だ。あんたが公園へ入る前から後ろにいた」
「ええ……もう勘弁してほしいですね」
「心当たりは?」
「ありすぎて分かりませんよ」
ホンは公園の入口へ目を向けず、時計をポケットへ戻した。
「私が反対へ行きます」
「いいのか?」
「書類を持ったあなたと、同じ方向へ逃げるわけにはいきませんから」
「分かった」
「では、ここで」
カイが噴水の奥へ向かう。金属のクモも、黒いマントのあとを追って木々の間へ消えた。
間もなく、二人分の足音が同じ方角へ続いた。
ホンは反対側の道へ歩き出した。
公園を出て角を曲がると、閉まった店の窓に背後の道が映った。
少し離れた場所を、一人の男が歩いている。
書類はカイが持っている。あとは、この男をカイとは反対へ引きつければいい。
ホンは夜中も馬車が行き交う大通りを渡り、その先にある荷物置き場へ入った。
木箱を抱えた男たちが、並んだ馬車の間を動いている。
「ちょっと通りますよ」
「おい、そっちは荷物を置くぞ!」
「すみませんねえ。すぐ抜けますから」
馬車と木箱に姿を隠しながら奥へ進み、横にある小さな門から別の道へ出る。
そこで走り出し、次の角を曲がったところで壁の陰へ入った。
遅れて角から飛び出してきた男は、ホンに気づかないまま走り過ぎていく。
足音が遠ざかるまで待ち、建物の間の細い道へ抜けた。
「……巻いたか」
カッパの前を開け、息を整える。
街から出ようと大きな道へ近づいたが、道の先にはいくつもの灯りが並んでいた。
AEGIS隊員が通る者を一人ずつ止め、脇へ寄せられた馬車も荷台まで調べられている。
別の出口へ回ったが、そちらの細い道にも隊員が立っている。
「駅も無理だな。普通の道からは出られないか」
ホンが向かったのは、古い倉庫が並ぶ一角だった。
以前、仕事の下見で入口まで確認した古い水路がある。
倉庫の奥にある小さな石橋の脇から水路へ下り、伸びた草をかき分けると、板でふさがれた穴が現れた。
板を横へずらした途端、湿った風が流れてくる。
「うわ、狭いな。これ、本当に入るのかよ」
腹を引っ込め、身体を横にして穴へ入った。背中が石に擦れ、カッパの腹が汚れた水へつく。
「この歳で入る場所じゃないだろ……」
日が沈んだ今、《ミラゼル》は使えない。
ホンは片手で壁に触れながら、灯りのない水路を進んだ。
やがて、暗闇の先に小さな明かりが見えた。
出口から草の匂いが流れてくる。
穴を抜けた先には畑が広がり、街の明かりは後ろに小さく見えるだけだった。
水路はそのまま畑の間へ続き、その向こうには使われなくなった旧道が延びている。
「やっと出た……」
水路の両側は土手が高く、旧道からは姿が見えにくい。
ホンは水路から上がらず、近くの村へ向かった。
浅い流れの上を、落ち葉や細い枝が流れている。
歩く間にも、何枚かの葉がカッパの裾や足元へ引っかかった。
そのとき、背後の橋から若い声が聞こえた。
「……待ってください」
ホンが足を止めると、流れてきた葉が足元で次々に止まった。
「どうしたんですかぁ、ソラさん?」
「葉です」
振り返ると、少し離れた橋の上に、いくつかの人影が立っていた。
灯りは水面をかすめているだけで、土手の影にいるホンまでは届いていない。
「流れていた葉が、あそこだけに集まってます」
オリヴィアが灯りを下げた。
「水も、そこで二つに分かれてますねぇ」
「何かいます」
ソラの声に、隣にいたAEGIS隊員が水路へ灯りを向ける。
「人影だ!」
ホンは水を蹴り、街とは反対へ走り出した。
ピーッ!
背後で隊員の笛が鳴る。
「水路に人がいる! 対象かもしれない!」
笛に応じて、前方の農道とあぜ道で灯りが動いた。
「何でだよ!」
ホンは水路から上がろうと土へ手をかけたが、上にいた隊員が顔へ灯りを向けた。
「止まれ!」
反対側にも二人の隊員が来ていた。後ろからも水を蹴る足音が近づいてくる。
「街の外までいるのかよ……!」
ホンは水路の中を走ったが、前から下りてきた隊員に道を塞がれた。
「ホン! その場で止まれ! 両手を見える場所へ!」
名前まで知られている。
ホンは足を止め、肩で息をしながら両手を上げた。
「分かった、分かった。もう走れないって」
隊員に両手を後ろへ回され、そのまま水路の外へ連れ出される。
橋の近くには、学院の隊服を着た学院生たちが残っていた。
そのそばには、オリヴィアが立っていた。
ホンは足元へ目を落とした。
カッパの裾から、濡れた葉が一枚落ちた。
「もう勘弁してよ……」




