Ⅱ山岳都市の異変
翌朝。
空が白み始める前に、イネスたちはオクシリアを出発した。
隊員たちは班ごとに時間をずらし、順次街を離れていく。
イネスたちの馬車も、その一団に続いた。
赤いレンガの建物が少なくなり、代わりに畑と牧草地が広がっていく。
街道は整備され、荷馬車や旅人とも何度かすれ違った。
「まだこの辺は楽なんですよ」
「そうなのか」
「道もあるし、宿もありますからね」
その日の夕方、一つ目の街へ到着した。
宿で身体を休め、翌朝には再び出発した。
二日目も大きな問題はなかった。
だが、西へ進むほど人の姿は減っていく。
畑が消え、建物も少なくなる。
遠くに見えていた山々が、少しずつ大きくなっていった。
◇
三日目。
街道の石畳が途切れた。
ガタンッ!
馬車が大きく跳ねる。
「……」
イネスは座席を掴んだ。
「ここから揺れますよ」
「先に言え」
「今言いました」
道は土へ変わっていた。
ところどころに大きな石が転がり、馬車の速度も落ちていく。
昼を過ぎた頃。
ノルクが手綱を引き、馬車を止めた。
「どうした」
「右後輪です」
ノルクは馬車を降り、右後輪の脇へしゃがんだ。
車輪を掴んで揺らす。
「軸がずれてます」
「このまま走ったら、たぶん今日中に壊れますね」
「直せるのか」
「完全には無理です」
鞄から工具を取り出す。
「応急処置で持たせます」
ずれた軸を戻す。
金属板を加工し、固定具へ噛ませる。
緩んだ箇所を締め直していく。
しばらくして、ノルクが立ち上がった。
「応急処置は終わりました。これならクレイアンダールまでは持つと思います」
「ただ、あまり飛ばせませんけどね」
「詳しいんだな」
「山じゃ、壊れたからってすぐ新しいものは買えませんから。直せるものは直します」
「同行させた理由が一つ分かったな」
「一つだけですか」
「今のところはな」
二人は馬車へ戻り、再び出発した。
◇
四日目。
二つ目の街へ到着した。
クレイアンダールまでの道中で、最後の大きな街だ。
馬を交換し、水と食料を補充する。
「水、多くないか」
「ここから先は買えませんよ」
「水場はありますけど、必ず使えるとは限りません」
「そうか」
「あと、夜は冷えます。昼との気温差が大きいんで」
◇
五日目。
二人は街を出た。
草木はほとんどなく、赤茶けた地面に大小の岩が転がっている。
乾いた風が砂を巻き上げていた。
すれ違う馬車も、人の姿もない。
車輪が岩を踏む。
ガタンッ!
身体が座席から浮いた。
「……これは酷いな」
「まだマシですよ」
「これでか」
「雨が降った後はもっと酷いです。道そのものがなくなる場所もありますから」
やがて日が傾く。
その日は大きな岩場の陰で馬車を止めた。
火を起こし、馬へ水を与える。
簡単な食事を済ませる頃には、辺りは完全に暗くなっていた。
夜になると、気温が一気に下がる。
「……冷えるな」
「言ったでしょう」
ノルクは上着を羽織る。
「クレイアンダールはもっと寒いですよ」
山の輪郭だけが、月明かりに浮かんでいた。
◇
六日目。
朝早く、二人は再び馬車を走らせた。
左右から岩壁が迫る。
馬車一台が通るだけで精一杯の道だった。
強い風が砂埃を吹き込んでくる。
ノルクが布で口元を覆う。
「この坂を越えれば、クレイアンダールです」
馬車が坂を上る。
やがて視界が開けた。
灰色の山々に囲まれた街が見える。
山肌に沿って建物が連なり、その奥には険しい山脈が続いていた。
「ようやく着いたか」
イネスは眼下に広がる街を見つめる。
馬車は山道を下っていく。
やがて、左右から迫る岩壁の間に大きな門が見えてきた。
馬車が石壁に築かれた門を抜ける。
その先には、坂道と石段が続いていた。
灰色の石造りの建物が、斜面に沿って並んでいる。
店先には工具や金属製品が並び、石材を積んだ荷車が坂を上っていく。
「……変わった街だな」
「俺にとっては、昔のままですけどねぇ」
「昔からこうなのか」
「平らな土地が少ないですから。山に合わせて建ててるんですよ」
◇
クレイアンダール支部。
会議室には、オクシリアから別々に出発した班も揃っていた。
前方には、先遣隊の生還者三人が座っている。
イネスとノルクも席についた。
支部の責任者が三人へ向き直る。
「追加で確認された二体について、改めて証言してもらう」
一人の男が話し始めた。
「一体は、遠くから見ただけです」
「男だったと思います。身体の一部が岩みたいに変わっていました」
「近くで遭遇した個体については?」
男は言葉を止めた。
膝の上で組んだ手に力が入る。
「……女でした。少なくとも、残っていた顔はそう見えました」
「変異していた部位は?」
「銀灰色に見えました。暗くて、それ以上は……」
「襲ってきたのは、その個体か」
「はい。目だけは覚えています」
「目?」
「瞬きもせず、ずっとこちらを見ていました」
「攻撃は?」
「身体から何かが伸びました。何だったのかまでは見えませんでした」
「分かった。位置を確認する」
支部の責任者が地図を広げる。
「最初のロスト体を排除した場所は?」
「ここです」
男が山中の一点を指した。
そこから、新たな二体を確認した地点と中継地点を順に示していく。
女を最後に確認したのは、中継地点の近く。
男の個体は、そこから離れた岩場で確認されていた。
「この六日間の捜索結果は?」
イネスが聞く。
支部の責任者が、地図上の捜索範囲を示した。
「街道沿いと周辺の山道、近隣の集落まで確認しました」
「目撃情報も、新たな襲撃や行方不明者もありません」
地図には、まだ広い空白が残っている。
「山の奥までは手が回っていないということか」
「はい」
支部の責任者が未確認区域を班ごとに割り振る。
「発見しても接触するな。位置を報告し、応援を待て」
◇
捜索を始めて数時間。
ノルクの端末が震えた。
「第二班からです」
「何だ」
「……行方不明だった一級員らしき遺体を発見」
「場所は」
「ここから北東。谷の下です」
「向かうぞ」
二人は捜索を切り上げ、端末に示された位置へ急いだ。
◇
岩壁をえぐった跡。
砕けた岩。
地面には深い亀裂が走っている。
痕跡は山道を外れ、谷へ向かって続いていた。
「……ここまで戦いながら移動したのか」
「生還者を逃がした後でしょうねぇ」
斜面を降りる。
谷底では、第二班の二人が待っていた。
岩の間に、黒い隊服が見える。
男が仰向けに倒れていた。
黒い隊服は裂け、胸や腹、手足には、鋭い何かに貫かれた傷がいくつも残っていた。
胸元には一級員の階級章。
先遣隊を率いていた男だった。
イネスが傍らに膝をつく。
「本人だ」
「……イネスさん」
男の腰には、AEGIS Bladeの柄が下げられたまま残っていた。
「ガレリアがない」
四人で谷底の岩の隙間や、砕けた石の下を探す。
少し離れた場所まで範囲を広げたが、見つからない。
「戦闘中に落とした可能性は?」
「ある。だが、決めつけるな」
「遺体の位置と状況を支部へ送れ」
「分かりました」
ノルクが端末を操作する。
戦闘痕は谷底で途切れていた。
しばらくして到着した収容班へ現場を引き継ぎ、イネスとノルクは谷を離れた。
◇
午後になっても、新たな目撃情報や痕跡は見つからなかった。
イネスとノルクは未確認区域を進んでいた。
山道を外れた先。
岩肌が窪んだ場所に、半ば崩れた石造りの坑口が残っている。
入口の前には錆びたレールが土に埋もれ、折れた鉄骨が岩壁にもたれていた。
「こんなの残ってたんですねぇ」
「何だ、ここは」
「古い採掘場跡ですよ。昔、この辺りで採掘が盛んだった頃に使われてたみたいです」
「担当区域だ。中も確認する」
二人は坑口へ入った。
奥へ続くレールは土に埋もれ、壁際には古びた採掘道具が残されている。
「……イネスさん」
壁際の土に、金具の付いた革帯が半分埋もれていた。
イネスが土から引き抜く。
周囲の道具とは違い、金具にはほとんど錆がない。
「これ、ここの物じゃないですね」
「ああ」
奥の床には、乾いた黒い染みが残っていた。
そこから、何かを引きずった跡が続いている。
「誰かがここを使っていた」
「最近ですねぇ」
「各班へ送れ。この場所を中心に確認する」
「分かりました」
しばらくして、近くを捜索していた三つの班が合流した。
坑道の奥で、崩れた石壁の向こうに地下へ続く階段が見つかった。
「行くぞ」
八人が階段を降りた。
◇
石段の先は、岩をくり抜いた狭い坑道だった。
天井を支える鉄骨は錆び、床のレールは途中から瓦礫に埋もれている。
八人分の足音が、坑道の奥へ響いた。
ノルクが端末を確認する。
「まだ中継器につながっています」
「切れる前に報告を入れろ」
「分かりました」
奥へ進む。
やがて、先頭の隊員が止まった。
その先だけが明るい。
イネスが前へ出る。
そこには、広い地下空間があった。
天井の一部が崩れ、地上へ穴が開いている。
そこから陽の光が差し込んでいた。
その真下に、人影がある。
長い髪を垂らした女。
両腕を力なく下げている。
顔の半分には、まだ人間の皮膚が残っていた。
身体の半分は、銀灰色の鉱石へ変わっている。
胸から腹へ走る亀裂。
その奥で、赤い光が脈打っていた。
女は微動だにせず、近づく足音にも反応しない。
イネスの手がガレリアへ伸びる。
「全員、止まれ」
女の目は開いたまま。
瞬きもしない。
六日間、誰にも見つからなかった女が、まるで最初からそこにいたように立っていた。




