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十年ぶりに「お帰りなさい」と言ってくれた人の話  作者: 九葉(くずは)


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第9話 残響

家が崩れるのは、屋根からではない。

夜の、静けさから始まるのだと、俺は、知った。


志乃殿の病床の枕元で、ひと月ほど、俺は、同じ椅子に座り続けていた。

湯呑みの底の茶渋が、少しずつ、濃くなるのを、ぼんやりと眺めていた。


ある夜。

母が、急に、はっきりした声で、俺を呼んだ。


「宗一郎」

「はい、母上」

「聞いてくれるか」

「はい」

「あの娘を、なぜ、追い出したか」

「……」

「怖かったのだ」


指先の痩せた母の手が、ゆるゆると、俺の手の甲の上に置かれた。


「あの娘が、屋敷に入ってから、気づいたのだ。お前の父上が亡くなってから痩せ始めたこの家の気を、誰が支えていたか」

「……母上が、ずっと」

「――違うのだ、宗一郎」

母は、ゆっくりと、首を横に振られた。

「わたくしではなかった。わたくしが、どれほど呼んでも、どれほど祈っても、痩せていく一方だったものが、あの娘が嫁いできた夜から、少しずつ、戻りかけた。あの娘は、どこへも、行かなかったのに、ただ、おるだけで、痩せを、止めていた」


母は、そこで、長く、息を吐かれた。


「情けない話だ。わたくしは、それを、認めたくなかった。認めたら、わたくしの、ここ三十年が、無になる気がした」

「母上」

「追い出した。家を守るためではない。――わたくしの、三十年を、守るために」


母の手が、小さく、震えていた。


「お前には、酷いことをさせた。あの娘にも、酷いことをした。……謝って済む話ではない」

「母上、もう、お休みください」

「宗一郎」

「はい」

「お前も、いつか、わかる日が来よう。――支えていたのは、己でなかった、と知るときが、人には、ある」


俺は、湯呑みの底を、また、見ていた。

茶渋が、深く、黒く、沈んでいた。



わたくしが、最後に、この家の玄関の敷石をまたぐ日のことでございました。


乳飲み子を、抱え直します。

腕の中の重みが、わたくしを、支えてくれておりました。


「宗一郎様」

襖の向こうに、お声を、お掛けいたしました。

「……樹里、か」

「はい」

「何、だ」

「お別れを、申し上げに参りました」


襖は、お開きになりませんでした。


「わたくしは、あなた様の、妻では、ございませんでした」

声が、思いのほか、落ち着いておりました。

「奥様――琴音様の、お代わりでございました。子を産めなかったあの方のかわりに、わたくしが選ばれた。ただ、それだけ」

「……樹里」

「わかっておりました。最初から、わかっておりました。目を背けておっただけで」


襖の向こうで、畳の擦れる音が、ひとつ、いたしました。

それきり、お声は、ございませんでした。


わたくしは、頭を下げ、玄関を、出ました。

子が、一度だけ、小さく笑いました。笑いながら、わたくしの髪を、ひと房、握り締めました。


――これでよろしゅうございます、と、腕の中に、呟きました。



藤原家。

夕刻には、まだ早い、静かな時分でございました。


私は、自室の文机の前に、長く、座っておりました。


机の上に、薄い巻物を、ひとつ。

先日、港町の浜辺で、葉月殿が、私の袂に、落としてくださったもの。ずっと、開けずに、紫檀の文箱の隅に、お仕舞いしておりました。


今日、なぜか、開けてみようと思いました。


結び紐を、ほどきます。

布を、剥きます。

現れたのは、巻物ではございませんでした。

束でございました。

紙の厚みが、ひとかたまり。端は、丁寧に揃えられ、白い糸で、軽く、綴じられている。


一通目を、開きました。


拙い字。

ずいぶん、大きい字。


『ことねおねえさんへ


きつねさんを、みてくれて ありがとう ございます。


きつねの なまえは、はづきです。

おねえさんが、おなかすいてる、といって くださったので、

はづきは、あぶらあげを いただきました。

ごちそうさまでした。


じん』


紙の端に、丸い滲みが、ひとつ、ございました。

子どもが、うっかり、筆を置いたときの、墨の玉のように。


私は、しばらく、その滲みを、見ておりました。


二通目。

一通目より、字が、少し、整っている。


『ことねおねえさんへ


きょう、おねえさんが、ふじわらの やしきのそばを、とおりました。

はづきが しっぽで おしえてくれました。

こえを、かけられなかったのは、ぼくが、まだ、こどもだからです。

つぎの としには、ぼくも、もうすこし、おおきく なれていると おもいます。』


三通目。

四通目。

――少しずつ、手蹟が、大人の筆になっていく。


『琴世様の御葬儀に、祖母の名代で、末席より拝見いたしました。

藤原琴音殿の、お背中を、遠目にて、お見かけいたしました。

橘家に嫁がれる、と伺い、お声はお掛けいたしませんでした。

ただ――その年の、葉月の、お腹が、空かぬように、家中で気をつけておりました。』


『藤原家の、門前を、この三月みつきで、七度、通りがかりました。

白蔵主殿と、葉月が、しばし、お話しいたしました。

橘家に嫁がれた琴音様が、お元気でいらっしゃるとのこと、葉月が、安堵して、よく、眠っております。』


『――本日、白蔵主殿より、橘家の屋敷神殿のお姿が、薄れはじめたとの、ご一報がございました。

祖父の遺品の蔵を、改めてみることにいたしました。

縁談の覚書が、もし残っておれば、と。』


『祖父の遺品の中より、縁組の覚書、正本、見つかりました。

ただし、まだ、お届けには上がりませぬ。

藤原殿が、まだ、お救いを望んでおいでとは、限りませぬゆえ。』


最後の一通は。

ごく、新しゅうございました。


『もしも、この手紙をお読みになる日が、琴音様に、訪れましたなら――

それは、私が、ようやく、お会いできたということでございます。

十年分の不躾を、どうか、お許しくださいませ。


薄月 仁』


文机の上に、雫が、いくつか、落ちました。

墨を、滲ませぬよう、慌てて、懐紙で、紙を覆いました。


覆いながら、覆いきれぬ涙を、私は、袂で、幾度も、押さえておりました。


――十年間。


私が、橘のお家で、名を、呼ばれぬ夜を過ごしていた、そのあいだ。

門の外の、誰かが、私の名を、葉月殿に預けて、問い続けていたのでございました。


私は、愛されておりませなんだ、のでは、ございませんでした。

――気づかなかった、だけのことで、ございました。



夕刻、縁側に出ると、葉月殿が、庭石の上で、お待ちでございました。


間もなく、門の向こうで、軽い足音。

蛍が、先に、門をお開けいたしました。


「仁様」

縁側の端に立って、私は、一度、深く、頭を下げました。

仁様は、少し、驚かれたご様子で、慌てて、ご自身も、頭を下げ返してくださった。


「仁様」

「はい」

「祝言を、お受けいたします」


あいだに、ひと呼吸。


仁様のお口元が、ほんの少し、お上がりになりました。

笑っておいででございました。

この方の、お笑いになったお顔を、私は、初めて、拝見いたしました。

口の端が、左右、わずかに違う角度で上がる、そのお笑いようを、私は、たぶん、生涯、覚えておりましょう。


「ありがとうございます」

仁様は、静かに仰った。

お声が、ほんの少し、震えておいででございました。


葉月殿が、くぅ、と、ひとつ、お鳴きになった。

満足げな、お声でございました。



庭の奥で、ひとすじ、柔らかな風が、笠松の枝を揺らしました。


揺れた風の道筋に、白い尾が、ひとつ。

もうひとつ。

さらにひとつ。

幾頭もの気配が、庭の向こうから、そっと、こちらを窺って、また、お引きになった。


「――お嬢様」

白蔵主様が、庭の中央に、お立ちになりました。

本殿の査定の時よりも、なお、はっきりと、お姿が、太うございました。白い衣が、夕日の朱を受けて、ほのかに、金を混ぜて、光っておりました。


「祝言の日には」

白蔵主様は、穏やかに仰いました。

「長らく、姿をお消しになっていた、同胞はらからの狐たちが、皆々、戻って参ります」


風が、もうひとつ、松の枝を、揺らしました。


蛍が、台所の方で、明日の支度の、米を研ぐ音を、たてはじめておりました。

日が、ゆっくりと、西の瓦の向こうに、沈んでいきました。

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