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十年ぶりに「お帰りなさい」と言ってくれた人の話  作者: 九葉(くずは)


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第8話 月の下の誓い

神祇殿の控えの間は、冷えておりました。


遅咲きの梅が、まだ、ちらほらと、枝に残っている時節のことでございます。帳の外から、沈香のお香が、細く、控えの間に流れ込んでまいりました。


父上のご装束は、祖父の代から受け継がれた、少々古い織でございました。肩の辺りの縫い目が、ほんのわずか、ほつれかけてございましたが、私は、それを、直しませんでした。直すと、この時期の藤原家の姿が、どこかに、消えてしまう気がいたしましたゆえ。


「藤原殿」

襖を隔てて、仁様のお声がいたしました。

「お支度が、整いましたならば」

「はい。参りまする」


薄月家のご装束は、濃藍。

藤原家の薄茶と、並んで、本殿の奥の間へ参ることになっておりました。


本殿の上座の、少し手前。

別の衣擦れが、聞こえました。

振り返らずとも、お分かりいたしました。

橘家の、武家の装束でございます。


――宗一郎様のご気配は、随分と、細うございました。



査定の儀に、言葉は、ほとんどございませぬ。


各家の当主が、順に、神祇官様の前へ進み出て、ご自身の家の屋敷神に、声ならぬ声でお呼びかけする。屋敷神がお姿を現されるか、現されぬか。現された場合、どれほどの、お姿か。


それだけ。


それ、だけでございました。


はじめに、浜田の二家。

お二方とも、淡い、けれど確かな、お姿が、本殿の中空に、ゆらりと。

神祇官様が、静かに、お頷きになった。


次に、薄月家。

仁様のお後ろに、葉月殿。

葉月殿の影から、別の白狐が、もう一頭。その後ろに、尾の色違いが、また一頭。さらに、もう一頭。神使の群れが、本殿の床を、音もなく、お歩きになった。

神祇官様の御目が、少しだけ、見開かれた。


次に、藤原家。

父上が、一歩、進み出られた。

――白蔵主様。

私は、心の内で、呟きました。

静かに、お願いいたします、と。


梁の上に、ふ、と、白い衣の袖が、現れました。

雪のように、ゆっくりと降りてこられ、父上のお背後に、片膝をついて、お座りになった。

昨年のお冬、雪の門前にご正座しておられたお姿よりも、ずっと、肉厚の、しっかりとしたお姿でございました。


神祇官様は、ひと呼吸、置いて、お頷きになった。


――橘家。


宗一郎様が、進み出られました。

姿勢の良さは、さすがの武家でいらっしゃいます。膝をつかれる動作に、迷いがない。


そのまま。


しばしの、間。


本殿の梁を、神祇官様の御目が、お探しになった。

梁の上には、何も、ございませんでした。

床の隅。襖の陰。柱のそば。どこにも、お姿は、ございませんでした。


宗一郎様のお背中が、わずかに、固うなられたのが、私の位置からも、分かりました。

もう一度、声ならぬ声を、お発しになった。

――どうか、出てきてくれ。


本殿の空気が、ひとつ、動きませんでした。

動かぬまま、そこにとどまりました。


神祇官様が、ゆっくりと、首をお振りになった。


「橘殿。本日は、お引取りを」


短い、御詞おことばでございました。

宗一郎様は、膝に手を置いたまま、しばらく、お立ちになれませんでした。供のお方が、肘に手を添えて、ようやく、お立ち上がりになる。


本殿を出ていかれる、お背中を、私は、見送りました。

見送りながら、胸の奥の、どこか深いところで、小さな、冷たい針のようなものが、私の内側を、ひとつ、掠めました。


勝ったのではございませぬ。

勝ち負けは、もう、この儀式に、関わりのない話でございました。

ただ、十年、私が、あのお家で、何を、保っておったのか。

その、答えが、本殿の沈黙の形で、目の前に、差し出された、それだけ。



帰りの道を、父上は、言葉少のうございました。


「父上」

「うむ」

「私、ちゃんと、立っておりましたか」

父上は、ひとつ、長くお息をお吐きになった。

「よう、立っておった」

「さようでございますか」

「わしの背まで、真っ直ぐ、伸びておった」


牛車の物見の外で、遅咲きの梅が、風に揺れておりました。

白い花弁の下に、ようやく春の気配が、足の先を、覗かせておりました。



夜。


縁側に、月が、半分より少し欠けて、お上がりになっておりました。


門の外で、軽い足音が、二つ。あとひとつ、細いもの。

葉月殿と、仁様。それからもうひと方、影の薄いお方が、お一緒でございました。――薄月家のお供の方でございましょう。門の外で、お見送りの体で、お待ちでございました。


「夜分に、失礼いたします」

「いえ」

「お邪魔を、いたしとう存じます」


座敷ではなく、縁側へ、仁様をお通しいたしました。

火鉢を、あいだに。

月の光が、畳の縁に、ひとすじ、落ちておりました。


仁様は、しばし、月を御覧になっておりました。

葉月殿は、仁様のお肩から、す、と降りて、私の膝の上に、いつも通り、お座りになった。それを、仁様は、咎めなさいませんでした。


「本日は、お見事でございました」

私は、先に、申し上げました。

「――いえ」

仁様は、首を、お振りになった。

「お見事は、そちら様で」

「私は、ただ、白蔵主様に、お呼びしただけでございます」

「その、お呼び、が」


仁様は、懐から、一枚の紙をお出しになった。

薄鼠の紙。祖母様の筆跡。第二話で拝見した書簡のうち、私がまだ、お読みしていなかった、最後の一節でございました。


「お渡しいただいた写しには、入っておりませなんだ、最後の一節を、本日、お持ちいたしました」


紙を、両手で、お受け取りいたしました。


『仁や。


お前が、琴音を、迎えに行く頃には、あの子は、きっと、一度、傷ついた後であろう。


気長に、待ってやりなさい。

深く、詫びなさい。

そして、どうか、あの子を、値踏みせぬ者の目で、見てやってほしい。


――もしも、あの子が、まだ、自分を愛せぬようであったなら。

お前が、代わりに、しばらく、愛してやっておくれ。』


文字の粒が、揺らぎました。

月のせいでは、ございませんでした。


「琴音様」

仁様のお声が、常よりも、わずかに、遅うございました。

「私は、十年、貴女を、探してまいりました」

「……はい」

「いえ」

仁様は、ご自身で、またお言い直しになった。

「この言い方は、狡うございます」

月の光のなかで、仁様は、膝の上の、ご自身の手のひらを、じっと、見ておいでになった。

「私は、今、貴女と、共に在りたい。それだけでございます」


――共に、在りたい。


運命、とも、番、とも、仰いませんでした。

ただ、今、共に在りたい、と。


私の目から、ひと粒、ふた粒、ぽつ、と、紙の上に、落ちました。

「――申し訳、ございませぬ、私」

「どうぞ、お流しくださいませ」

「離縁の身で、ございますのに」

「――」

仁様は、そこで、初めて、敬称を、一度、外されました。

「琴音」

「……は、い」

「その身で、ここにおいでくださったこと、私は、感謝いたしております」


葉月殿が、私の膝の上で、尾を一度、静かに振って、私の涙の落ちた紙を、鼻先で、そっと、お拭きになろうとなさった。仁様が、慌てて、「葉月、おやめなさい」と、お止めになる。止めておいて、そのまま、ご自身の袂から、真新しい懐紙を、私の方へ、お差し出しになった。


十年ぶりの涙でございました。


十年前の、一番はじめの涙は、人知れず、嫁入りの馬車の中で。

十年ぶりの、この夜の涙は、月の下で、白い狐と、真っ直ぐな人の前で。


――泣き方まで、随分、変わってしまったものでございました。



翌朝。


門が叩かれる音で、目が覚めました。


蛍が、先に戸口へ出てくれておりました。戻ってくる足音が、途中で、一度、止まりました。

私は、障子越しに、声をかけました。

「蛍」

「……琴音様」

蛍は、障子を開けながら、少しだけ、お顔を伏せました。

「橘家より、お使いでございます。志乃様が、昨夜、お倒れになったと」


庭の梅の残花が、風に、ひとつ、大きく揺れました。


私は、膝の上の、懐紙を、そっと、畳紙たとうがみに、お仕舞いいたしました。


「お伝えくださいませ」

「はい」

「――それは、お大事に、と」


ただ、それだけ。

それだけで、ございました。


庭の奥で、白蔵主様が、静かに、頭を、お下げになっておりました。

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