第8話 月の下の誓い
神祇殿の控えの間は、冷えておりました。
遅咲きの梅が、まだ、ちらほらと、枝に残っている時節のことでございます。帳の外から、沈香のお香が、細く、控えの間に流れ込んでまいりました。
父上のご装束は、祖父の代から受け継がれた、少々古い織でございました。肩の辺りの縫い目が、ほんのわずか、ほつれかけてございましたが、私は、それを、直しませんでした。直すと、この時期の藤原家の姿が、どこかに、消えてしまう気がいたしましたゆえ。
「藤原殿」
襖を隔てて、仁様のお声がいたしました。
「お支度が、整いましたならば」
「はい。参りまする」
薄月家のご装束は、濃藍。
藤原家の薄茶と、並んで、本殿の奥の間へ参ることになっておりました。
本殿の上座の、少し手前。
別の衣擦れが、聞こえました。
振り返らずとも、お分かりいたしました。
橘家の、武家の装束でございます。
――宗一郎様のご気配は、随分と、細うございました。
◇
査定の儀に、言葉は、ほとんどございませぬ。
各家の当主が、順に、神祇官様の前へ進み出て、ご自身の家の屋敷神に、声ならぬ声でお呼びかけする。屋敷神がお姿を現されるか、現されぬか。現された場合、どれほどの、お姿か。
それだけ。
それ、だけでございました。
はじめに、浜田の二家。
お二方とも、淡い、けれど確かな、お姿が、本殿の中空に、ゆらりと。
神祇官様が、静かに、お頷きになった。
次に、薄月家。
仁様のお後ろに、葉月殿。
葉月殿の影から、別の白狐が、もう一頭。その後ろに、尾の色違いが、また一頭。さらに、もう一頭。神使の群れが、本殿の床を、音もなく、お歩きになった。
神祇官様の御目が、少しだけ、見開かれた。
次に、藤原家。
父上が、一歩、進み出られた。
――白蔵主様。
私は、心の内で、呟きました。
静かに、お願いいたします、と。
梁の上に、ふ、と、白い衣の袖が、現れました。
雪のように、ゆっくりと降りてこられ、父上のお背後に、片膝をついて、お座りになった。
昨年のお冬、雪の門前にご正座しておられたお姿よりも、ずっと、肉厚の、しっかりとしたお姿でございました。
神祇官様は、ひと呼吸、置いて、お頷きになった。
――橘家。
宗一郎様が、進み出られました。
姿勢の良さは、さすがの武家でいらっしゃいます。膝をつかれる動作に、迷いがない。
そのまま。
しばしの、間。
本殿の梁を、神祇官様の御目が、お探しになった。
梁の上には、何も、ございませんでした。
床の隅。襖の陰。柱のそば。どこにも、お姿は、ございませんでした。
宗一郎様のお背中が、わずかに、固うなられたのが、私の位置からも、分かりました。
もう一度、声ならぬ声を、お発しになった。
――どうか、出てきてくれ。
本殿の空気が、ひとつ、動きませんでした。
動かぬまま、そこにとどまりました。
神祇官様が、ゆっくりと、首をお振りになった。
「橘殿。本日は、お引取りを」
短い、御詞でございました。
宗一郎様は、膝に手を置いたまま、しばらく、お立ちになれませんでした。供のお方が、肘に手を添えて、ようやく、お立ち上がりになる。
本殿を出ていかれる、お背中を、私は、見送りました。
見送りながら、胸の奥の、どこか深いところで、小さな、冷たい針のようなものが、私の内側を、ひとつ、掠めました。
勝ったのではございませぬ。
勝ち負けは、もう、この儀式に、関わりのない話でございました。
ただ、十年、私が、あのお家で、何を、保っておったのか。
その、答えが、本殿の沈黙の形で、目の前に、差し出された、それだけ。
◇
帰りの道を、父上は、言葉少のうございました。
「父上」
「うむ」
「私、ちゃんと、立っておりましたか」
父上は、ひとつ、長くお息をお吐きになった。
「よう、立っておった」
「さようでございますか」
「わしの背まで、真っ直ぐ、伸びておった」
牛車の物見の外で、遅咲きの梅が、風に揺れておりました。
白い花弁の下に、ようやく春の気配が、足の先を、覗かせておりました。
◇
夜。
縁側に、月が、半分より少し欠けて、お上がりになっておりました。
門の外で、軽い足音が、二つ。あとひとつ、細いもの。
葉月殿と、仁様。それからもうひと方、影の薄いお方が、お一緒でございました。――薄月家のお供の方でございましょう。門の外で、お見送りの体で、お待ちでございました。
「夜分に、失礼いたします」
「いえ」
「お邪魔を、いたしとう存じます」
座敷ではなく、縁側へ、仁様をお通しいたしました。
火鉢を、あいだに。
月の光が、畳の縁に、ひとすじ、落ちておりました。
仁様は、しばし、月を御覧になっておりました。
葉月殿は、仁様のお肩から、す、と降りて、私の膝の上に、いつも通り、お座りになった。それを、仁様は、咎めなさいませんでした。
「本日は、お見事でございました」
私は、先に、申し上げました。
「――いえ」
仁様は、首を、お振りになった。
「お見事は、そちら様で」
「私は、ただ、白蔵主様に、お呼びしただけでございます」
「その、お呼び、が」
仁様は、懐から、一枚の紙をお出しになった。
薄鼠の紙。祖母様の筆跡。第二話で拝見した書簡のうち、私がまだ、お読みしていなかった、最後の一節でございました。
「お渡しいただいた写しには、入っておりませなんだ、最後の一節を、本日、お持ちいたしました」
紙を、両手で、お受け取りいたしました。
『仁や。
お前が、琴音を、迎えに行く頃には、あの子は、きっと、一度、傷ついた後であろう。
気長に、待ってやりなさい。
深く、詫びなさい。
そして、どうか、あの子を、値踏みせぬ者の目で、見てやってほしい。
――もしも、あの子が、まだ、自分を愛せぬようであったなら。
お前が、代わりに、しばらく、愛してやっておくれ。』
文字の粒が、揺らぎました。
月のせいでは、ございませんでした。
「琴音様」
仁様のお声が、常よりも、わずかに、遅うございました。
「私は、十年、貴女を、探してまいりました」
「……はい」
「いえ」
仁様は、ご自身で、またお言い直しになった。
「この言い方は、狡うございます」
月の光のなかで、仁様は、膝の上の、ご自身の手のひらを、じっと、見ておいでになった。
「私は、今、貴女と、共に在りたい。それだけでございます」
――共に、在りたい。
運命、とも、番、とも、仰いませんでした。
ただ、今、共に在りたい、と。
私の目から、ひと粒、ふた粒、ぽつ、と、紙の上に、落ちました。
「――申し訳、ございませぬ、私」
「どうぞ、お流しくださいませ」
「離縁の身で、ございますのに」
「――」
仁様は、そこで、初めて、敬称を、一度、外されました。
「琴音」
「……は、い」
「その身で、ここにおいでくださったこと、私は、感謝いたしております」
葉月殿が、私の膝の上で、尾を一度、静かに振って、私の涙の落ちた紙を、鼻先で、そっと、お拭きになろうとなさった。仁様が、慌てて、「葉月、おやめなさい」と、お止めになる。止めておいて、そのまま、ご自身の袂から、真新しい懐紙を、私の方へ、お差し出しになった。
十年ぶりの涙でございました。
十年前の、一番はじめの涙は、人知れず、嫁入りの馬車の中で。
十年ぶりの、この夜の涙は、月の下で、白い狐と、真っ直ぐな人の前で。
――泣き方まで、随分、変わってしまったものでございました。
◇
翌朝。
門が叩かれる音で、目が覚めました。
蛍が、先に戸口へ出てくれておりました。戻ってくる足音が、途中で、一度、止まりました。
私は、障子越しに、声をかけました。
「蛍」
「……琴音様」
蛍は、障子を開けながら、少しだけ、お顔を伏せました。
「橘家より、お使いでございます。志乃様が、昨夜、お倒れになったと」
庭の梅の残花が、風に、ひとつ、大きく揺れました。
私は、膝の上の、懐紙を、そっと、畳紙に、お仕舞いいたしました。
「お伝えくださいませ」
「はい」
「――それは、お大事に、と」
ただ、それだけ。
それだけで、ございました。
庭の奥で、白蔵主様が、静かに、頭を、お下げになっておりました。




