第7話 海の底の声
母が、俺の名を呼ばぬようになって、幾日が経ったろうか。
病床の志乃殿の枕元に座ると、母は、薄く目を開けられる。開けて、俺の顔を通り越して、襖の向こうを、御覧になる。そうして、かすれた声で、こう仰る。
――琴音を、呼び戻せ。
「母上」
「琴音を」
「琴音は、もう、この家の者では」
「呼び戻せ」
廊下の向こうで、畳を擦る音がした。樹里が、乳飲み子を抱いたまま、立ち尽くしている気配。しばし後、その気配は、遠ざかる。遠ざかり方に、何か、細いものが混じっていた。
俺は、母の、痩せた手の甲を、じっと見た。
十年前、琴音を、この屋敷にお迎えになった日。
母は、俺に、たった一言、こう仰った。
――「あの娘は、この家には、強すぎる」
あれは、どういう、意味であったか。
今の今まで、俺は、一度も、問い直したことが、なかった。
◇
門前に、馬が、二頭繋がれておりました。
朝霧が、藁の匂いを、ぬるく運んでまいります。
父上は、縁側から私を御覧になり、短く、「気をつけて、参れ」とだけ仰いました。蛍は、すでに、包みを二つ、腰に結んでおりました。
「仁様」
門の外の仁様は、今日はやや簡素な旅装束でいらっしゃいます。肩には、いつもの葉月殿。こちらをご覧になる目が、いつもより、少しだけ、鋭うございました。
「道中、四日ほど。お帰りの日取りは、祓いの次第によって、前後いたします」
「承知いたしました」
「蛍殿、これを」
仁様は、蛍に、薄手の外套をお渡しになった。潮風のきつい地でございますから、と、それだけ。
蛍は、目を少しだけ、丸くして、頭を下げておりました。
◇
港町は、灰色でございました。
海というのは、青いものだと、絵巻などでは拝見しておりました。実際の海は、天候と時刻によって、灰にも、銀にも、鈍い緑にも、変わるものでございました。
沖に出た小舟の上で、私は、水面を、じっと、見ておりました。
波の下――
通常の目には、見えぬところ。
水の奥に、蒼白い人影が、列をなして、ゆっくりと、沈んだり浮かんだりしている。
数は、存外、多うございました。
「仁様」
「はい」
「――百年前の、水死の霊でございます」
「百年」
「おそらく、ひとつの船に乗り合わせた、船乗り衆の一群」
「年代までお分かりで」
「髷の結い方と、背負っておる印半纏の、ご紋でございます」
仁様は、舟の縁を、静かに、お握りになった。
葉月殿が、くぅ、と、短く、お鳴きになった。
「お嬢様」
肩越しに、白蔵主様のお声がいたしました。
今朝、藤原家をお発ちになる際、白蔵主様が葉月殿のお体にすい、と溶け入られ、旅の間は葉月殿に同座する形でご同行くださっていたのでございます。
「祓いで、鎮まらぬのは、訳がございます」
「どなたかが、呼んでおりますね」
「呼んで――そのままに、なさっておいでです」
◇
港町の小社で、葉月殿が、海からお戻りになりました。
濡れた白い毛を、ぷるぷる、と振るって、口に、黒く湿った木札の切れ端を、お咥えでございました。
仁様は、それをお受け取りになると、懐から小さな帳面を取り出された。紋と紋を、じっと、見比べておられた。
「薄月家の記録では、この紋は、南の端の、とある流派の陰陽師のもの」
ひとつ、ゆっくり、息をお吐きになる。
「半年ほど前、橘家に、家運回復の祈祷を、お請けになっておいでです」
畳の目が、水を吸ったように、重く見えました。
橘のお家の、家運。
十年、私が、誰にも名を呼ばれずに、保っていた家の気。
気の要るものに、気を入れず、代わりに、外から、力ずくで、呼び寄せようと――
仁様が、そっと、私の横顔を御覧になりました。
「……お察しの通りでございます」
「申し訳を、申し上げるお立場には、ございませぬが」
仁様は、そこで言葉を切られた。
「橘殿の、ご焦りが、過ぎました」
蛍が、傍らで、自分の袖を、強く握っておりました。
――かつてお仕えしていた家の、末路でございました。蛍の手の震えは、その分、重うございました。
◇
浜辺に、仮の祭壇を組みました。
麓宮よりお預かりした、祓いの榊。祖母様の古文書に書き留められた、鎮めの文言。塩と、米と、湧水を、三方に。
仁様のお手配で、近隣の諸国――南の港、西の岬、北の湾、それぞれの社の宮司殿が、同じ刻に、祈祷を同じく始めてくださることになっておりました。風の向きが変わる度、仁様の肩の葉月殿が、ぴくり、と耳をお動かしになる。そのたびに、遠くの社の祈りの気配が、潮の上を、ひとすじ、こちらへ流れてまいりました。
私は、祝詞を、静かにお唱え申し上げました。
祖母様の書き残された文言は、声を張らぬものでございました。海に、呼びかけるように。
――百年、お気の毒に。
――どうか、もう、お休みなさいませ。
――呼んだ者には、別に、話をつけましょうゆえ。
水面が、徐々に、凪いでまいりました。
沖の方で、ひとつ、白波が、音も立てず、崩れました。
蒼白い人影の群れが、深い方へ、深い方へ、ゆっくりと、お沈みになっていくのを、私は、見ておりました。
見送りながら、祝詞の終いまで、お届けいたしました。
――終わって、息を、ひとつ、吐きました。
吐いたとたん、膝の力が、あっけなく、抜けました。
「――」
袖を、取られました。
今度は、一瞬ではございませんでした。
仁様の左の手のひらが、私の二の腕を、しばし、お支えになった。
お放しになる時、わずかに、お躊躇いになった気配を、袖の布が、覚えておりました。
「……申し訳ございません、つい」
仁様は、お言い訳のように、小声で仰った。
「仁様」
「はい」
「……失礼を、お許しくださいませ」
「どちらが、でございますか」
どちらが、でございましょう。
答えは、海風に、お流しいたしました。
◇
陽が、沖に、沈みかけておりました。
蛍は、宿で、熱いお茶の支度を始めてくれております。波の音が、遠くで、穏やかに、畳まれていきます。
「琴音様」
仁様が、ぽつりと仰った。
「これを解けるのは、あなただけでございました」
浜の砂が、私の足袋の底に、少し、かかっておりました。
「――いえ」
仁様は、すぐに、言い直された。
「私たち、だけでございました」
私たち。
お一人の口から出た、そのお言葉を、私は、胸のあたりで、そっと、受け止めました。
胸のあたりが、また、急ぎはじめました。先日の縁側の動悸よりも、もう、ほんの少し、はっきりと。
「――」
仁様のお肩の葉月殿が、す、と、身を軽く下ろされ、私の袂の辺りを、鼻先で、一度、突かれました。
私の袂の内側に、ことり、と、軽いものが、落ちてくる感触。
手で探ると、薄い、小さな巻物でございました。
布に包まれ、ほんのり、温うございました。懐のように、お守りのように。
「葉月殿」
葉月殿は、何も仰らず、仁様のお肩へお戻りになった。
仁様は、何も、お見せにならなかったお顔で、沖を、御覧になっておりました。
「……後ほど、拝見いたします」
そうお返事をして、私は、巻物を、懐にお仕舞いいたしました。
潮の匂いが、空に、ひとすじ、昇っていきました。




