第6話 門前の客人
妻が家を出て、ひと月あまり。
母が、日に日に小さくなる。
下働きの者は、三度呼ばぬと、来ぬようになった。三度呼んで、来ぬ者も、出た。
台所の火が、朝から、起こされぬ日がある。蔵の鍵束が、置き場所をいつの間にか変えている。――誰が動かしたのか、俺には、分からぬ。
樹里が、息子を抱えたまま、廊下を進むのを、躊躇うようになった。廊下の、どこで足を止めるかで、怯えの度合いが、知れる。
家の気が、澱む――と、志乃殿が、うわ言のように仰る。俺は、信じぬ。そういう類のものは、武家の当主が、真に受けるべきではない。
ただ。
琴音が、おった頃は、廊下に、こういう澱みは、なかった。
俺は、袴の紐を、締め直した。
行って、連れ帰る。
それで、済む、はずだ。
◇
梅の蕾が、白いところを、少しだけ、ほころばせておりました。
蛍が、縁側の低い机で、鑑定帳簿の字を、指でなぞっております。
「琴音様、麓宮の弓削様から、先日の短刀のお礼が届いております」
「あの真神気の」
「はい。米と、それから、絹が半反」
「絹は、蛍の着物に」
「そんな、もったいのうございます」
「袖の傷みが、私よりも、蛍のほうが、ずっと深うございます」
蛍は、俯いて、耳の先まで紅うしておりました。
そのときでございました。
縁の下の影から、白い一筋が、こちらに走り込んでまいりました。
葉月殿。
後ろ足に、何か、急いで走ってこられた乱れがあります。尾が、整っておりませぬ。
私の膝の前に、ずい、と体を寄せられ、鼻先で、何度か、門の方を示される。
「白蔵主様」
お声をお掛けすると、庭石の影から、屋敷神様がお姿を表された。
「お嬢様。門外に、お客様が」
「どなたでございましょう」
「……薄月のお方が、間もなく。ただ、その前に、もうひと組、近づく気配がございます」
白蔵主様は、眉をかすかに、寄せられた。
「武家の、衣擦れでございます」
葉月殿が、くるり、と振り返って、門の方を、真っ直ぐご覧になりました。
耳が、後ろに、伏しております。
私は、着物の襟を、整えました。
◇
門の外に、男が複数の気配。
先頭の足音を、十年、聞き続けてまいりました。
「橘、宗一郎様」
呟いたところに、ちょうど、もう一方の気配が。
「――お邪魔をいたします」
仁様の声は、今日は、いつもより、早いお出ましでございました。
肩に、葉月殿がおらぬぶん、お体が軽い。葉月殿はとうにこちらに駆けておいででしたから、仁様はご自身の足のみで、お急ぎになったのでございましょう。
門の向こうで、供の男の、低い声がいたしました。
「薄月様。本日、こちらにはご用件を、伺っておりませぬが」
「橘殿に、お取次ぎを」
そこへ、宗一郎様のお声。
「……薄月殿が、なぜ、ここに」
仁様は、門の内側から、静かに、戸を、お開けになりました。
開けたお方が仁様であることに、宗一郎様は、ひと呼吸、遅れて気づかれたご様子。
「藤原殿は、本日、薄月家の客人でございます」
仁様のお声は、低うございました。
「お話は、まず、私を通していただきとう存じます」
宗一郎様のお顔が、わずかに、強張られました。
「琴音」
私の名を、十年ぶりに、あのお口で、お呼びになった。
「話がある。一度、家に、戻ってきてくれ」
梅の蕾の白が、宗一郎様の肩の向こうで、風に揺れておりました。
私は、敷居の内側から、お顔を上げました。
「戻りません」
短うございました。
短いので、よろしゅうございました。
十年、自分の口から出ぬ、言葉でございましたゆえ。
「……琴音」
「私は、もう、あのお家の者では、ございませぬ」
「家が、立ち行かぬ」
「そうでございましょうか」
「家中が、おかしくなっている。使用人が、寄り付かぬ。母上が、寝込んでおられる。お前が、戻れば」
「お戻しすれば、家が、立ち直ると」
「そうだ」
宗一郎様の声には、焦りと、それから、ご自身でも気づいておられぬ、ほのかな、怒りがございました。
「お前のせいで、家が、傾いた」
出てしまいました。
そういう言葉が、お出になりました。
仁様が、一歩、私の側に、お足をお寄せになったのが、気配で、分かりました。
葉月殿の毛が、ぐっ、と、逆立ちましたが、それだけ。お声は、あげなさいませんでした。
私は、ゆっくりと、息を、吸いました。
「宗一郎様」
「――」
「お家は、私がいたからこそ、保っていたのでございますよ」
言うてしまいました。
梅の蕾が、また一つ、ほころびかけた気が、いたしました。
宗一郎様は、口を、お開きになりかけ、お閉じになった。
目の奥で、何かを、早足で計算しておられた。計算の末に、その答えをお認めになりたくなくて、答えの出方を、わざと、止めておられるように、お見受けいたしました。
「帰りましょう、殿」
供の男が、宗一郎様のお袖を、軽く、お引きになった。
お供の方の方が、よほど、賢うございました。
宗一郎様は、踵を返される際、もう一度、こちらを御覧になりました。
その目には、もう、かつての命じるお色は、ございませんでした。
かわりに、何か。
――何か、知らぬものを、初めて御覧になったような、薄いお驚きの色が。
門の外で、武家の衣擦れが、遠ざかっていきました。
◇
縁側に、戻りました。
足が、思いのほか、軽うございました。重いものが、肩から、外れたような。
――けれど、胸のあたりは、妙に、急いておりました。
「お疲れでございましょう」
仁様が、庭先から、短く仰った。
「……はい」
私は、縁側に、腰を下ろしました。
「少し」
「本日は、もう一つ、お耳に入れたきことが、ございまして」
仁様のお声は、先刻のお低さは、すでに、どこかにお仕舞いになっておりました。
常のお硬い、硬質なお声に、戻っておいでです。ただ、ひとつだけ、言い方が、いつもよりゆっくりでいらっしゃいました。
「隣国との、交易路」
「はい」
「商船が、続けて、沈みました。神官たちが、怨霊の仕業と申しておりますが、どなた様も、解けておられませぬ」
「……沈んだ、と」
「はい」
私は、膝の上の、手のひらを、握りました。
怨霊。
祓いが利かぬ、怨霊。
それは、ただの怨みでは、ございませぬ。誰かに呼び出された、古い無念であることが、多うございます。
「仁様」
「はい」
「私に、視に参れ、と、仰せになりに、来られたのでございますね」
仁様は、ひと拍置いて、お答えになった。
「……お察しの、通りでございます」
梅の蕾が、先刻より、もうひとつ、白を増しておりました。
庭の向こう、白蔵主様が、じっと、仁様のお顔を御覧になっておりました。葉月殿は、私の足元に、まだ寝そべっておられる。毛並みが、ようやく、落ち着かれました。
――宗一郎様の去り際の、お眼差し。
あれは、何を御覧になった、お目でございましたろうか。
答えは、まだ、出ませんでした。




