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十年ぶりに「お帰りなさい」と言ってくれた人の話  作者: 九葉(くずは)


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第6話 門前の客人

妻が家を出て、ひと月あまり。


母が、日に日に小さくなる。


下働きの者は、三度呼ばぬと、来ぬようになった。三度呼んで、来ぬ者も、出た。

台所の火が、朝から、起こされぬ日がある。蔵の鍵束が、置き場所をいつの間にか変えている。――誰が動かしたのか、俺には、分からぬ。


樹里が、息子を抱えたまま、廊下を進むのを、躊躇うようになった。廊下の、どこで足を止めるかで、怯えの度合いが、知れる。


家の気が、澱む――と、志乃殿が、うわ言のように仰る。俺は、信じぬ。そういう類のものは、武家の当主が、真に受けるべきではない。


ただ。

琴音が、おった頃は、廊下に、こういう澱みは、なかった。


俺は、袴の紐を、締め直した。

行って、連れ帰る。

それで、済む、はずだ。



梅の蕾が、白いところを、少しだけ、ほころばせておりました。


蛍が、縁側の低い机で、鑑定帳簿の字を、指でなぞっております。

「琴音様、麓宮の弓削様から、先日の短刀のお礼が届いております」

「あの真神気の」

「はい。米と、それから、絹が半反」

「絹は、蛍の着物に」

「そんな、もったいのうございます」

「袖の傷みが、私よりも、蛍のほうが、ずっと深うございます」


蛍は、俯いて、耳の先まで紅うしておりました。


そのときでございました。


縁の下の影から、白い一筋が、こちらに走り込んでまいりました。


葉月殿。

後ろ足に、何か、急いで走ってこられた乱れがあります。尾が、整っておりませぬ。

私の膝の前に、ずい、と体を寄せられ、鼻先で、何度か、門の方を示される。


「白蔵主様」

お声をお掛けすると、庭石の影から、屋敷神様がお姿を表された。

「お嬢様。門外に、お客様が」

「どなたでございましょう」

「……薄月のお方が、間もなく。ただ、その前に、もうひと組、近づく気配がございます」

白蔵主様は、眉をかすかに、寄せられた。

「武家の、衣擦れでございます」


葉月殿が、くるり、と振り返って、門の方を、真っ直ぐご覧になりました。

耳が、後ろに、伏しております。


私は、着物の襟を、整えました。



門の外に、男が複数の気配。

先頭の足音を、十年、聞き続けてまいりました。


「橘、宗一郎様」

呟いたところに、ちょうど、もう一方の気配が。


「――お邪魔をいたします」


仁様の声は、今日は、いつもより、早いお出ましでございました。

肩に、葉月殿がおらぬぶん、お体が軽い。葉月殿はとうにこちらに駆けておいででしたから、仁様はご自身の足のみで、お急ぎになったのでございましょう。


門の向こうで、供の男の、低い声がいたしました。

「薄月様。本日、こちらにはご用件を、伺っておりませぬが」

「橘殿に、お取次ぎを」

そこへ、宗一郎様のお声。

「……薄月殿が、なぜ、ここに」


仁様は、門の内側から、静かに、戸を、お開けになりました。

開けたお方が仁様であることに、宗一郎様は、ひと呼吸、遅れて気づかれたご様子。


「藤原殿は、本日、薄月家の客人でございます」

仁様のお声は、低うございました。

「お話は、まず、私を通していただきとう存じます」


宗一郎様のお顔が、わずかに、強張られました。


「琴音」

私の名を、十年ぶりに、あのお口で、お呼びになった。

「話がある。一度、家に、戻ってきてくれ」


梅の蕾の白が、宗一郎様の肩の向こうで、風に揺れておりました。


私は、敷居の内側から、お顔を上げました。


「戻りません」


短うございました。

短いので、よろしゅうございました。

十年、自分の口から出ぬ、言葉でございましたゆえ。


「……琴音」

「私は、もう、あのお家の者では、ございませぬ」

「家が、立ち行かぬ」

「そうでございましょうか」

「家中が、おかしくなっている。使用人が、寄り付かぬ。母上が、寝込んでおられる。お前が、戻れば」

「お戻しすれば、家が、立ち直ると」

「そうだ」


宗一郎様の声には、焦りと、それから、ご自身でも気づいておられぬ、ほのかな、怒りがございました。


「お前のせいで、家が、傾いた」


出てしまいました。

そういう言葉が、お出になりました。


仁様が、一歩、私の側に、お足をお寄せになったのが、気配で、分かりました。

葉月殿の毛が、ぐっ、と、逆立ちましたが、それだけ。お声は、あげなさいませんでした。


私は、ゆっくりと、息を、吸いました。


「宗一郎様」

「――」

「お家は、私がいたからこそ、保っていたのでございますよ」


言うてしまいました。


梅の蕾が、また一つ、ほころびかけた気が、いたしました。


宗一郎様は、口を、お開きになりかけ、お閉じになった。

目の奥で、何かを、早足で計算しておられた。計算の末に、その答えをお認めになりたくなくて、答えの出方を、わざと、止めておられるように、お見受けいたしました。


「帰りましょう、殿」

供の男が、宗一郎様のお袖を、軽く、お引きになった。

お供の方の方が、よほど、賢うございました。


宗一郎様は、踵を返される際、もう一度、こちらを御覧になりました。

その目には、もう、かつての命じるお色は、ございませんでした。

かわりに、何か。

――何か、知らぬものを、初めて御覧になったような、薄いお驚きの色が。


門の外で、武家の衣擦れが、遠ざかっていきました。



縁側に、戻りました。


足が、思いのほか、軽うございました。重いものが、肩から、外れたような。

――けれど、胸のあたりは、妙に、急いておりました。


「お疲れでございましょう」

仁様が、庭先から、短く仰った。

「……はい」

私は、縁側に、腰を下ろしました。

「少し」

「本日は、もう一つ、お耳に入れたきことが、ございまして」


仁様のお声は、先刻のお低さは、すでに、どこかにお仕舞いになっておりました。

常のお硬い、硬質なお声に、戻っておいでです。ただ、ひとつだけ、言い方が、いつもよりゆっくりでいらっしゃいました。


「隣国との、交易路」

「はい」

「商船が、続けて、沈みました。神官たちが、怨霊の仕業と申しておりますが、どなた様も、解けておられませぬ」

「……沈んだ、と」

「はい」


私は、膝の上の、手のひらを、握りました。


怨霊。

祓いが利かぬ、怨霊。

それは、ただの怨みでは、ございませぬ。誰かに呼び出された、古い無念であることが、多うございます。


「仁様」

「はい」

「私に、視に参れ、と、仰せになりに、来られたのでございますね」

仁様は、ひと拍置いて、お答えになった。

「……お察しの、通りでございます」


梅の蕾が、先刻より、もうひとつ、白を増しておりました。


庭の向こう、白蔵主様が、じっと、仁様のお顔を御覧になっておりました。葉月殿は、私の足元に、まだ寝そべっておられる。毛並みが、ようやく、落ち着かれました。


――宗一郎様の去り際の、お眼差し。

あれは、何を御覧になった、お目でございましたろうか。


答えは、まだ、出ませんでした。

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